ヘンリーのゲーム 12.ナタン

 大神殿建設現場へ、新しくつれてこられた奴隷の群れが到着したのは昼過ぎのことだった。世界のいたるところで布教活動を行っている光の教団が、彼らのミッションに批判的だと考えた運の悪い人間を拉致し、奴隷として送り込んできたのである。
 シンプルに殺害して埋めたりしなかったのは、奴隷にするのも殺すのもだいたい同じことだと教団が思っていたためというのがひとつ、そして建設現場では最近大量の奴隷が死んだため、新しい労働力を求めていたためというのがもうひとつの理由だった。
 補充された消耗品、すなわち人間たちは、教団の兵士の手で男女に分けられ、持ち物や衣服をはぎ取られ、むしろ一枚を与えられ、首輪でつながれた。少しでも反抗的な態度をとれば鞭が飛んだ。
 教団に反対した、または批判的だった者も、そのあとに行われた陰惨な儀式によってその口を閉じることになった。一人一人に奴隷の焼き印を押されたのだった。
 焼き印、首輪、鞭打ち。そのプロセスのうちに、彼らは知る、けして元の世界へ戻れないことを。そこは悪夢そのものだった。
 やがて新参の奴隷たちは鎖でつながれたまま兵士の先導にしたがって現場へ出ることになった。暗くて閉鎖的な地下洞を出た彼らの目に入ったのは、荒涼とした情景だった。
 風の吹きすさぶ高地に、大神殿はその姿を次第に明らかにしていた。周辺にはただ延々と石を運び、石を積む大量の奴隷がいた。
 現場で使われる石材は、崖の下から供給されていた。その場で石を切り出し、踏み車を使った巻き上げ機で崖の上まで運び上げる。小さめのものは奴隷が背に負って運んでいた。
 小さいと言っても、大人一人の背に負えばよろけて歩きにくいほどの重みだった。それを背負って坂道をあがっていく。傍目にも疲労でふらふらしているが、休もうとはしない。むち男たちのふりまわす鞭の音を聞けば休んでなどいられないのがわかった。
「並ベ」
短く言われて新参奴隷たちは従った。一人一人に重荷を与えられるのだった。
「石材ハ、マダカ。今日中ニアト二百ダ」
人間ではない監督は石切工をせかした。
「今、できます」
と、彼は答えた。
 ふと新参奴隷たちはその声の主を見上げた。
 奴隷に間違いないのだが、その若者はどこかが違っていた。薄汚い奴隷の姿だし、黒い髪はずいぶん切っていないらしく、長い。首の後ろでひとつにくくっていた。
 だが、片手に木槌を持ち、彼は巨大な岩壁に次々と楔を打ち込んでいく。楔の頭をこん、と叩くと岩に筋が入り、見事に割れ、ずり落ちてきた。は、と息を吐き、石切工は額の汗を拭った。
「ヨシ、ハコベ」
「待ってください」
石切工はさっと立ち上がり別の楔を手にした。
「もう少し小さく割ります」
たちまち鞭が飛んだ。
「無用ダ。工事ハ遅レテイルンダゾ」
肩先を打たれても石切工は引き下がらなかった。
「これは一人では運べない。また奴隷をつぶしたら、あなたが叱られるはず」
ムチ男は怒って鞭をふりまわしたが、不服従へのいらだちより保身が勝った。
「好キナヨウニシロ。アトデオマエモ運ベ」
「わかっています」
手早く岩を割りにかかりながら、若い石切工は答えた。
「手伝う!」
 いつのまにかもう一人の石切工が来て、反対側に楔をいれ始めた。緑の髪の痩せた石切工だった。
「ありがと」
大きな岩の塊はあっという間に四つ割にされ、さらに細かくなった。
「これで運べるかい?」
心配そうに黒髪の石切工は言った。むかついている顔でむち男は鞭を鳴らした。
「アマヤカスナ、ハコベ!」
角張った石を背負えばむきだしの腕はひっかかれて傷ができるが、奴隷たちは怖くて文句などつけられなかった。大きすぎる石材は二人がかりで坂を押し上げていくことになった。音をたてて鞭が鳴った。奴隷たちは石を運び始めた。
 大神殿建設現場には奇妙な安定が戻ってきていた。石工の親方の脱走未遂から始まった処刑は、奴隷の大量死という結果で終わった。そのため、運良く生き残った奴隷は、ある意味で貴重となった。もちろん奴隷の脱走はあってはならない大問題だが、それ以上に大事なことが教団にはあった。無論、大神殿を完成させることだった。
 石工の親方につながる職人たちは、本来なら一味として処刑されるはずが、新しく雇うよりもましという理由で厳重な監視つきで仕事に戻された。徒弟だった奴隷二名は石材に彫刻するという仕事を取り上げられ、懲罰をこめて石切場へ回されていた。
 長時間重いツルハシをふるって岩を砕く。交代が来ると、今度は切り出した石を崖の上へ運んでいく。実際、子供の頃にこれをやらされたら早々と体力が尽きていただろう。二人は十代半ばになり、ようやく少年期を脱しようとしていた。
 もっともルークたちは、教団にとって処刑執行を延期されている奴隷のままだった。一日に十数時間、連続して休みもなく作業をさせる、膨大な量の石を短時間に一人きりで処理させるなど、ふつうの奴隷に比べていじめのような作業をずいぶんとあてがわれた。
「ダレモ手伝ッテハナラヌ」
それは奴隷監督に目を付けられた奴隷に昔から与えられる懲らしめだった。作業の間中、監督がつきっきりで見張るので、息を抜く暇さえない。そして、奴隷たちの間でも仲間と見られているルークたちに、お互いを手伝わせないことも嫌がらせだった。
 岩牢に戻されるのも、ルークたちはほかの奴隷より遅くなることもずいぶんあった。牢へ入れられ、背後で鍵がかかると、二人はお互いにもたれかかるようにしてくずれおち、そのまま気絶するように眠った。
「おい、あんた」
ためらいがちな声でルークはふと目を覚ました。夜明け前の、薄ら寒い岩牢のなかだった。あのとき助かった奴隷のひとりが、のぞきこんでいた。かつて牢内の奴隷たちの上に君臨していた独裁者、大鼻だった。
「あ……」
ルークはなんとか半身を起こした。
「ごめん、ぼくたち、食べ物を盗りにいけてなかった……」
就業時間をごまかすことを黙認してくれた親方がいなくなり、常に監視がついたために、ルークたちは食糧倉庫への往復ができなかったのだ。
「ぼくたち、なんとかするから。今度は何人分を」
ルークは言い掛けて、改めてショックを受けた。人が減っている。奴隷仲間は、以前の三割ていどになっていた。
「ちがう、これ」
大鼻は、ルークに何か差し出した。暗がりでよく見えないが、それは柔らかかった。
「パン?」
隣でヘンリーが目を覚ました。
「ああ」
と彼はつぶやいた。
「役に立ったのか、鍵と、地図」
奴隷たちはうなずいた。
「おっかなかったが、なんとかやれたよ」
「少ししか持ち込めなかったけど」
ルークは唖然としていた。
「そんな顔するなよ。親方の脱走計画のとき、合い鍵の束は残してやろうって決めただろう」
とヘンリーは言った。
「地図は?」
「親方の地図を見て、おれが模写した」
視覚的記憶力の極端に優れた相棒は、こともなげに答えた。生き残りの奴隷はうなずいた。
「あんたが言ったとおり便所壷をどかしたら下の岩床に地図が彫ってあったよ」
別の奴隷がチーズを差し出した。
「食べてくれ。いっとくが、脱走騒ぎはもうごめんだ」
ルークはちょっと肩を落とした。確かに親方とルークたちの計画が、すべての発端だったのだ。“ゲーム”の参加者は振り出しの時と同じく二人だけになってしまった。
「でも、あんたらが生き延びてくれてよかった」
「溜飲が下がったぜ」
口々に言う声は、しかし温かった。
「ルーク、飯はもらおうぜ」
とヘンリーが言った。
「食料調達に関しちゃ、組でやろう」
最初に食べ物を差し出した大鼻がうなずいた。
「あんたらが動けるなら、盗みはまかす」
「牢内持ち込みはおれたちも協力する」
なんとなくほっとした雰囲気が牢内に漂った。
「よし、これからもなかよくやろうぜ。せっかく生き残ったんだ」
手にしたパンとチーズの上に、涙が落ちた。
「うん。ありがとう。死んだみんなのためにも、父さんのためにも、ぼくはまだ生きなきゃ」
大鼻はルークの顔をのぞきこんだ。
「あんたの親父さん、光の教団に殺されたんだって?」
「あ、うん。だいぶ前だけど」
大鼻は真顔になった。
「その悔しさ、忘れるなよ?それがあればおまえはこんなとこでもきっと生きていかれるからな」
ルークは無言でうなずいた。たぶん、奴隷にされてから今日まで、父は死んでもなお自分を守ってくれていたのだということに、ルークはやっと気付いた。
 隣にいたヘンリーがそっと肩をたたいた。
「大丈夫、みんなでやればうまくいくさ」
ルークはそっと叩き返した。あいかわらず嘘つきだと思いながら。
「話のわかる兵隊さんもいるしな」
と奴隷の一人が言った。
ちょっとヘンリーが眉をしかめた。
「ナタンのことか?あんまりあいつを信用しないほうがいいぞ」
おい、と一人が言った。奴隷の目細だった。
「ナタンさんはいい人だぞ。奴隷に同情してくれるし。ヨシュアみたいながちがちじゃない」
「ずいぶんやつの肩を持つな。あいつと親しいのか?」
目細は口ごもった。兵士と通じている、というのは、場合によっては牢内でリンチの対象になる。
「そんなことじゃないさ。二三度、検査のときに目こぼししてもらったんだ」
へえ、とヘンリーは言ったが、目が笑っていなかった。

 マスタードラゴンがとうとつに言った。
「その男のことを、もう少し詳しく語れるか」
「え、奴隷ですか?」
「いや、兵士の方だ」
「ナタンのことは、大神殿にいた間ほとんど意識していませんでした。知っているのはマリアに聞いたことやヘンリーの推測が主です。ヘンリーは、ナタンのことをずいぶん気にしていたみたいでした」
「何か事情があるのか」
「ぼくにはわかりませんが、ナタンは変なとこがおれと似ているんだと彼は言っていました」

 その男の名を、ナタンと言った。出身はポートセルミ近郊の農家である。若くてそれなりに正義感にあふれた青年ナタンは、ポートセルミで布教していた光の教団の教えに感じるところがあり、いつまにか一緒に活動していた。親兄弟や友達にバカなことはやめろと言われたのだが、ナタンは言われれば言われるほどむきになって教団にのめりこんだ。
 ついに熱意を認められ、入団を許されると、ナタンは民家の壁に大得意で書き込んだ。"俺は光の国へ行くぞ!"。
「それがすべての間違いのもとだったよな」
光の教団の総本山へ上げられ、護法戦士団へ入ったとき、ナタンはそう思った。選ばれた民として扱われるのではなかったか?聖なる戦士として尊敬されるのはずでは?ナタンの期待と自負は見事に崩れ去った。
 父と兄にがみがみ言われながら畑を耕すのと、下っ端の兵士としてひとからげにされるのと、どっちがうっとおしいだろうか。後者だ、とナタンは認めざるを得ない。実家では月いちくらいはポートセルミで遊べたのだが、今いる"光の国"はおもしろいことなど何一つなかった。
「つまらねえ。何もかもくだらねえ」
あれほど夢中になった教団の教えも、理想と現実の違いがむき出しになると幻滅した。それはいくらか、反対する親兄弟がいてくれないと味気ないという皮肉な事情のせいもあった。
 ナタンのまわりの兵士たちも似たような経歴だった。あきらめが早いか遅いかの違い。いや、あきらめていることを顔に出すのが早いか遅いかだ、とナタンは思い直した。
 口には出さないが、十年一日の暮らしにみな飽き飽きしている。仲間内で賭をするのも、食糧倉庫からこっそり食い物をくすねてくるのも飽きてしまった。
「だから、あいつ、信じられないよなあ」
あいつというのは、ヨシュアのことだった。ナタンの所属する小隊の隊長で、光の教団生え抜きの兵士である。本人が言うには、元は孤児で教団に育てられたため、教団の外の世界を何一つ知らない。ヨシュアは、今もなお教団の正義を信じ切っていた。
 ヨシュアの方が三、四歳年下だが教団はヨシュアをナタンたち一般兵士数名をまとめる小隊長に任命していた。もうすこし年が行けば護法戦士団の幹部になることは間違いない。あとは本人の働き次第だが、教団は素直なヨシュアをかわいがっているので相当上まで行くだろう。もしかしたら未来の団長かもしれない。
「忠犬だからな」
俺のような野良犬は一生下っ端だろう、とナタンは思った。
 うぜぇ、とナタンは思う。ヨシュアのような男が団長になったら、きっと規律規律とやかましいだろう。すべて教団のため、光の教えの兄弟のため。くっだらねえ。
 ヨシュアにうんざりしているのが自分だけではない事をナタンは知っていた。賄賂とはいかないまでもちょっとした鼻薬で規則を曲げたりすることは、誰もが当たり前と思っていた。
「あいつがいると疲れるよな」
と兵士仲間は言う。
「ご立派なんだけどね」
あえてナタンはヨシュアをかばうニュアンスをのせた。けしてヨシュアに不利なことは言わない。ナタンは用心深いのだ。他の兵士のように奴隷を意味なく殴ったりしないし、女奴隷に手を出したりすることもない。
 ヨシュアは気づいているだろうか。要領のいい兵士は、上にかけあって下界での勤務に代えてもらうようにする。そのためにせっせと上司に金品を贈る。だからヨシュアの同期として兵士になった者は、もう半分くらい下界へ降りてもっと楽しみの多い町で働いている。
 もちろんナタンもそれを狙っていた。入牢検査のときに奴隷を見逃してやって代わりにちょっとした嗜好品を手に入れるのは、自分で楽しむためと同時に賄賂として使うためだった。
 だが、山を下りる前に、ナタンにはどうしても見たいものがあった。
 あのヨシュアが。
 絶望するところを見たい。
 いい子ぶっているあの顔がゆがみ、今まで信じてきた教団を呪うさまを見てみたい。
「ぞくぞくするな……」
自分でも奇妙な欲望だと思う。ヨシュアが嫌いというのとは違う。ヨシュアがいなくなればいいとも思わない。ただひたすらに、ヨシュアが壊れるのを見たいのだ。
 闘技場事件があったとき、ナタンの年来の願望はもう少しで叶えられるところだった。あのときヨシュアは兵士の先頭に立って警備をしていたためにちょうど落とされる位置にいたのだった。巻き添えを食って奴隷たちといっしょに崖の下へたたき落とされ、一晩たって救助されたヨシュアの顔は見物だった。青ざめて呆然とした顔。いつもの、規則をうるさく言い立てる正義派小隊長の顔ではなかった。
 それでもヨシュアは、そんな目にあってさえ教団を呪う言葉は吐かなかった。
「ちっ」
ひそかにナタンは舌打ちをした。
「もう少しなんだがな」
あと一押しで堕ちるとわかってるのに。ナタンはイライラした。ちょうどそのころ、ナタンはまたひとつ、ヨシュアを揺さぶるネタを探り出した。いつネタをぶつけてやろうか、とナタンは考えていた。
 脱走事件で揺れた建設現場にはもうとっくに日常が戻ってきていた。石工の棟梁は処刑されたが、生前に描いた図面をたよりに一緒に働いていた職人たちが工事を進めている。工事が完成しないと下界に戻れない彼らは必死で努力してくれていた。もっともナタンは、教団が約束を守って彼らをすんなり下へ帰すとはまったく信じていなかったのだが。
 ある日ナタンは隊長から警備計画の説明を受けながら、イベントが行われることを知った。
「教団の上の方々が工事の進展を視察される。主に石舞台上の配置をごらんになるそうだ」
と隊長は言った。
「おいでになるのはイブール様に次ぐ高位の方々八名様。うち、お二方は尼僧様だ。その従者侍女三十名以上。視察の間危険物を遠ざけ、見苦しいものは片づけておくように」
隊長はヨシュアに声をかけた。
「現場監督には話が通してある。君が祭壇側警備の責任者だ」
ヨシュアは敬礼した。
「光栄であります」
 当日、シュプリンガー族の現場監督は手際よく工事を取り仕切ってくれた。現場監督の考えでは奴隷は見苦しいもののひとつであるらしく、視察の日は石舞台から離れたところでしか石組み作業は行われていなかった。
 視察の直前に教団の召使いたちがやってきて、石舞台の上を掃除し、高僧たちの歩くルートに長い絨毯を敷いていった。ざわめきの音がして、警備隊長の声が聞こえた。視察団が到着したようだった。さっそく説明役の僧が口上を繰り広げるのが聞こえた。
「祭壇の準備はいいか?」
少し神経質になっているヨシュアが確かめに来た。
「全部そろってるはずだ。心配なら自分で確かめてくれ」 
 大神殿の石舞台は、もともと祭壇だった。だが初期の素朴な儀式が変化するに従って、本当に舞台になった。薄暗い聖堂のなかで、無知蒙昧な民衆が教えに導かれて光を見いだすという単純な筋の芝居を見せるのだ。クライマックスには石舞台の背景布を一気に取って、三連の巨大ステンドグラスを観衆=信者の目にさらす。大窓から太陽の光が聖堂全体に降り注げば、あちこちから感動の声が上がった。
 そのあと、信者と僧が"光を分かち合う"という儀式を行うために、石舞台へ移動式小祭壇を持ち込むのだった。
 ヨシュアがチェックしているのは、銅製の移動祭壇だった。できあがったばかりで、金の装飾パネルを貼ってあり、ぴかぴかしていた。
「ええと、ろうそくは全部あるな。皿は?小皿ばかりか?大きいのは?」
光を分かち合う儀式では、移動祭壇の上の大きなろうそくから小さなろうそくへ僧が火を移し、信者一人一人に渡すことをやる。小皿は個人用のろうそく立てとして使う。大皿は大もとの聖火用の太いろうそくのためで皿の中央にろうそく固定用の突起があった。
「これだろ」
ナタンは大皿を取り出した。同僚兵士は警備のためあちこちに散っている。用意していたネタをぶつけるチャンスが来たかもしれない。ナタンはどきどきした。
 石舞台の上では説明が進行していた。
「幕はあのあたりから吊り下げます。合図と同時に切って落とすことになりましょう」
説明役が手を上の方へ差し伸べると、視察団は柱頭を見上げてほうほう、と聞いていた。
「次に祭壇ですが」
チャンス。ナタンは舌をなめた。
「ヨシュア、知ってるか?ここらのすぐ下に"旅の扉"置き場があるだろ?」
それは、教団側の者なら知っているがあの親方は知らない事実だった。物資を運ぶ馬車隊は、待機所からすこし下ったところにある旅の扉を使って教団本部と下界を往復しているのだ。それが兵士の言った「見えない道」だった。
「あれ昔、村だったんだってよ」
大皿の突起にろうそくをさしていたヨシュアがぴくっとした。
「教団が裏で手を回して村に病気をはやらせたんだって。ひでぇことするよな」
「嘘だろ?」
思った通りの反応をヨシュアは返してくれた。
「嘘じゃないって。このあいだラインハットへ出向になった尼僧様が直接話してくれたんだ。疫病使いのモンスターが、村の山羊と大人たちを病気にしたって」
「そんな、どうして」
ナタンはほくそえんだ。ヨシュアがその村の出身だったということ、最近山を降りたその尼僧こそ山羊飼いの村の子供たちを憐れんで教団へ引き取った女だと言うことをナタンはつかんでいた。
「もちろん、その村をふもとへの"旅の扉"置き場にするためさ。ないと不便だからな」
「ふべん……」
ヨシュアの顔から表情が抜け落ちた。肩がふるえだした。ナタンはうれしくてたまらなくなった。
 石舞台の上から説明役が呼んでいた。
「おい、祭壇だ」
ヨシュアは動かなかった。
「ヨシュア、移動祭壇を出してくれ」
機械的にヨシュアが動いた。下に車輪をしこんだ祭壇がゆっくり動き出した。ヨシュアの顎がガクガクしているのがナタンから見えた。
「遅いぞ、何をやってるんだ」
説明役が小声で叱責した。
「むらに」
蒼白な顔でヨシュアは言った。
「何をしたんですか」
「何の話だ」
教団の高僧、高尼僧、説明役の顔に、ヨシュアは次々と視線をあてた。
「山羊が病気になって、大人たちもみんな」
説明役の僧はいらついた。
「こんな時に何を言っているんだ。あとにしたまえ!ろうそくを渡しなさい。光の儀式を」
ヨシュアはかっと顔を紅潮させた。両手でろうそくの大皿をつかむと、力いっぱい石の舞台へたたきつけた。
「何が光だ、こんなもん!」
陶器でできた白い華奢な大皿はみじんに砕け、太いろうそくは折れて散った。ひどく耳障りな音が高く鳴り響いた。
 時が止まった。
 説明役、高僧たちは、思ってもみない反抗の前に硬直することしかできなかった。
 予想外の反応の強さに、ナタンはとっさに動けなかった。
 少し離れたところで現場監督が振り向き、鞭男が好奇心を露わに眺めた。
 奴隷たちは何かまずいことがあったらしいと悟り、身を縮め、作業を手を止めた。
 足音が響きわたり、隊長が駆けつけた。いきなりヨシュアの手首をつかんでねじり上げた。
「反逆だ!」
その場の者たちは、ヨシュアが"切られた"ことを悟った。