パパスとシンデレラ 4.シンデレラの激走

兼、ロミオとシンデレラ(doriko様)二次創作

私の恋を悲劇のジュリエットにしないで、ここから連れ出して
そんな気分よ

 昼下がりのエルヘブンに、足音が響きわたった。
 エルヘブンは高い丘の頂きからふもとまで、上下に長い町である。町のいたるところに階段があった。そのなかでも最も長い、大きな階段を、一人の少女が早足で駆け下りてくる。人々はその姿を見て驚いた。
「マーサ様?」
「あれ、大巫女様じゃないのか?」
マーサは白い巫女装束のすそを片手でつまみ、もう片方の手に何か赤いものを握りしめ、木製の階段を踏みならしてまっしぐらに降りてきた。

パパとママにおやすみなさい
せいぜいいい夢を見なさい
大人はもう寝る時間よ
むせかえる魅惑のキャラメル
はじらいの素足をからめる
今夜はどこまで行けるの?

「何か急なご用かね」
「お着きの侍女は何をやってるんだ」
 走ってバラ色になったほほ、荒い呼吸。肩に背中に黒髪をはねあげて、乙女は世にも真剣な瞳で前をはっしとにらんでいる。昔からマーサを知っている同年代の若者たちは、すれ違ったとき声も出せずに見とれ、うっとりとマーサの後ろ姿を見送った。
 一人が異変に気づいた。
「おい、護衛の兵士はどこだ?」
規則では大巫女が外出するときは必ず護衛をつけなくてはならないのだった。
「おれ、長老様に申し上げてくる」
「ああ、そのほうがよさそうだな」

噛みつかないで 優しくして 苦いものはまだ嫌いなの
ママの作るお菓子ばかり食べたせいね
知らないことがあるのならば 知りたいと思う 普通でしょ?
全部見せてよ あなたにならば見せてあげる私の…

「マーサ様、お待ちください、マーサ様!」
里の男の一人が、階段の踊り場に立ちふさがった。上の騒ぎのようすを見て何かおかしいと思ったようだった。
 マーサの視線が左右をさっと撫でた。通せんぼをするように両手を広げる男の前でぱっと方向を変え、何も持っていない方の手を階段の手すりにだん!と音をたててつき、そこを支点に手すりを越えて飛び降りた。
「うわっ」
男衆は肝を冷やした。が、マーサは真下にある別の階段へ着地した。
 今でこそ大巫女だが、その前は神に仕えるエルバラダイの乙女、そしてその前は、エルヘブン近辺を元気に走り回るおてんば娘だったのだ。マーサは片手に持ったすそを高くからげ、かもしかのような足で俊敏に駆けた。目指すは、エルヘブンに一軒だけの宿屋である。

ずっと恋しくてシンデレラ
制服だけで駆けていくわ
魔法よ時間を止めてよ
悪い人に 邪魔されちゃうわ

ああ逃げ出したいのジュリエット
でもその名前で呼ばないで
そうよね 結ばれなくちゃね
そうじゃないと楽しくないわ
ねえ 私と生きてくれる?

 上の方で、年輩の侍女たちやエルバラダイの乙女の教師たちが甲高い悲鳴をあげていた。
「なりません、マーサ様ぁ!」
「誰か、マーサ様をお止めしておくれ!」
彼女たちの目も、結局節穴ではなかったのだ。隣国から来た高貴な戦士がエルヘブンの大巫女に抱いた思いは彼女たちの察するところとなっていた。そして、柔らかで感じやすい乙女の心がその思いに答えようとするときの純粋さも。
 年輩の女の一人が、ついに禁じ手を使った。
「誰かーっ、人さらいよーっ」
 一気にエルヘブン全体へ騒ぎが広がった。
「なんだ、なんだ、なんだ!?」
「外国人がっ、マーサ様を連れて行くわっ」
 一瞬マーサは振り向き、きゅっと紅唇をかみしめた。卑怯、の二文字が彼女の胸をかすめた。
あちこちの家の扉があき、里人が何事かと驚いて顔を出した。
「え、ひとさらい?」
マーサの足がひるんだ。
「マーサ様がさらわれます!誰か、誰かーっ!」

背伸びをした長いマスカラ
いい子になるよきっと明日から
今だけ私を許して
黒いレースの境界線
守る人は今日はいません
越えたらどこまでいけるの?

噛みつくほどに 痛いほどに
好きになってたのは私でしょ
パパはでもねあなたのこと嫌いみたい
私のためと差し出す手に
握ってるそれは首輪でしょ
連れ出してよ 私のロミオ
叱られるほど遠くへ

 宿屋はもう数軒先だった。その扉が開き、小太りの男が顔を出した。一瞬目をぱちくりさせ、すぐに中へ向かってあわてきった声を上げた。
「旦那様!マ、マーサ様が」
力強い足音がした。浅黒い肌の黒髪の男が後ろから姿をあらわした。
「マーサ殿、これは、いったい」
彼の目にうつったものは、エルヘブン全体がこの小さな宿屋へ向かって押し寄せてくるような光景だった。その先頭に立つのは、息を弾ませて走ってくるきゃしゃな少女だった。
 マーサは、自分を生み出した里をふりむいた。
「みんな、ごめんなさい!今日だけ私を許して!」
むしろ明るくきっぱりとそう言うと、マーサは最後の距離を力強く駆けぬいた。

鐘が鳴り響くシンデレラ
ガラスの靴は置いていくわ
だからね 早く見つけてね
悪い夢に 焦らされちゃうわ

きっとあの子もそうだった
落としたなんて嘘をついた
そうよね 私も同じよ
だってもっと愛されたいわ
ほら私はここにいるよ

「マーサ様!」
若い男がひとり、ようやく追いついてマーサの肩に手をかけ、乱暴にひきとめようとした。乙女の黒髪が渦を巻き、白い蝶が悪童の手にかかるように握りつぶされたかに見えた。
「マーサ殿に何をする!」
 里の若者はいきなりつきとばされた。パパスは片腕の中にマーサを抱えこんだ。
「マーサ殿、その」
「みんな追いかけてくるわ」
真剣な眼でマーサは彼を見上げた。
「早く、宿へ!」
「心得た」
サンチョが大きく扉を開けて待っている。その後ろからエルヘブンの里人が大挙して迫っていた。二人が宿へ駆け込むと同時にサンチョは扉を閉め切った。

 そこは、ありふれた客室だった。パパスとマーサは二人だけでそこにいた。
 最初サンチョが水だ手巾だとあれこれマーサの世話を焼こうとしたのだが、騒ぎを聞いて宿に戻ってきたエリオス(ヘンリー父)が、むりやりサンチョを部屋から引きずり出したのだった。
「少しは空気を読め!どう見たってコレはアレだろう」
「わ、私は旦那様のおそばに」
「殿が堅物なら従者も朴念仁か。いーから来い。人の恋路を邪魔するやつは、ろくな死に方をせぬぞっ」
 二人きりになってもマーサは口もきけなかった。理由のひとつは、山頂からここまで長い階段を走り抜いたために呼吸が荒くなって物理的にしゃべれなかったため、もう一つは、言わなくてはならないことがいまさらのように恥ずかしくて、ようよう口も開けなかったのだ。
「マーサ殿」
困惑したようにパパスがつぶやいた。マーサは名を呼ばれて相手の顔を見て、視線を合わせられずに顔をそむけてしまった。
「なにやら、騒ぎのようだが、そのう」
「何も、おっしゃらないでくださいまし」
マーサは言い、ずっと握りしめていたリンゴを両手に持った。
「どうか、これを」
穴があったら入りたい思いでマーサは半分だけのリンゴを両手で差し出した。切った断面を上にして相手に見えるようになっていた。
「これは?リンゴ?なぜ」
パパスはいぶかしそうにそうつぶやいた。
 赤いリンゴの果肉は白い。そして中央に種があり、そのまわりには自然が描く曲線がつくられている。そしてその曲線と中央の種がつくりあげる形象は、女の肉体のある部分、女を女たらしめているその器官を一筆書きにしたほど、そっくりだった。
 エリオスをあきれさせるほどの天下の堅物、グランバニアのパパスは、気がつかないようだった。真っ赤になって恥じらうマーサの顔と、ふるえる腕、差し出された果実を穴のあくほど見くらべていた。

私の心そっと覗いてみませんか
欲しいものだけあふれかえっていませんか
まだ別腹よもっともっとぎゅっと詰め込んで
いっそあなたの居場所までも埋めてしまおうか
でもそれじゃ意味ないの

 やがてパパスはぽつりとつぶやいた。
「おお、これは」
モンスターの群を目の前にしても一歩も退かないパパスが、きゃしゃな乙女に向かい合って、手も足も出ずに立ち尽くしていた。
「こ、これは、つまり」
マーサの全身が逃げ出したくてたまらないと主張していたが、リンゴを差し出した手だけは揺るがせなかった。からからになった喉から、かろうじてマーサは声を絞り出した。
「お察しくださいまし」
 マーサのすぐそばで風が巻きおこった。リンゴごとマーサの両手が大きな手にくるみこまれ、強く引かれた。
「あ……」
待ちに待った瞬間、マーサは間の抜けた声をあげることしかできなかった。気がつくと、たくましい男の胸に抱きしめられていた。
「私と生きてくださいますか」
「どうか、共にグランバニアへ」
二人は同時に言い掛けた。お互いの答えは、聞かなくてもわかっていた。

 神殿に仕える男たちが四台の輿を担いで丘の頂から降りてきた。夕闇のせまるエルヘブンに、輿の列を先導する兵士のたいまつが明るく輝いた。
 エルヘブンの里人たちは小さな宿屋を取り囲んで、四長老が降りてくるのをじっと待っていたのだった。
「マーサ様、マーサ様が」
 長い年月エルヘブンを見守ってきた大巫女の最後の一人がエルヘブンを去ろうとしている。里人の不安は大きかった。
「騒ぐでない」
重々しい声がした。里人は静まりかえった。
「長老様」
キャリダスは瞑想の姿勢のまま輿の中にすわっていた。
「今、未来が動いたのじゃ」
里人の間に動揺が走った。
「マスタードラゴンも御照覧あれ」
「マーサはエルヘブンよりはばたき出る」
「大いなる未来を生み出すために」
口々に長老たちは告げた。
 そのときだった。小さな宿屋の扉が開き、旅人たちが姿を現した。
「マーサ様!」
エルヘブンの里人たちは彼女の名を口々に呼んだ。
「みなさん、長老様がた、ごめんなさい」
毅然としてマーサは言った。
「私はパパス様といっしょに、エルヘブンを出ます」
おーおーおーと里人は一斉に声をあげた。
「お待ち」
長老が遮った。
「揺れ動いていた未来が定まったのじゃ。マーサ」
と老女は言った。
「いや、大巫女殿。この未来には、貴女が生み出す希望が待っている」
「けれども、貴女ご自身には、辛い別離と孤独がある」
 ぐっとパパスの腕が、きゃしゃな巫女を後ろから抱きしめた。
「私がいる限り、この方にそんな思いはさせぬ」
「パパス殿……」
長老の一人、フィーレイは何か言い掛けたが、キャリダスの目配せで口ごもった。
「聞いての通りじゃ。皆の衆、マーサ殿を嫁がせましょうぞ」
「マーサ殿の血筋が希望となってこの里へ戻るまで、我ら四長老がエルヘブンをお守りします」
「さあ、行かれませ。これからひととせ、至上の幸せが貴女のうえにある」
「ありがとうございます」
気丈にマーサは言った。
「この選択を決して後悔しないと私は誓いました。きっと幸せになります」
さあ、とパパスが手を差し出した。
「船へお連れしよう」
「はい」
 元は仲間だったエルバラダイの乙女たち、子供の頃いっしょに野山を駆け回った若者たち、そして里の大人たちが不安そうな表情で見守る中、マーサはパパスの手を取り、歩き出した。
「本当に、後悔してはいらっしゃらないか」
小声でパパスが尋ねた。
「私たちが離ればなれになることがあったら」
とマーサは言った。
「きっとあなたが助けに来てくださるのでしょう?」
運命の乙女はそう言って微笑んだ。

大きな箱より 小さな箱に幸せはあるらしい
どうしよこのままじゃ私は
あなたに嫌われちゃうわ
でも私より欲張りなパパとママは今日も変わらず
そうよね 素直でいいのね
落としたのは金の斧でした

嘘つきすぎたシンデレラ
オオカミに食べられたらしい
どうしようこのままじゃ私も
いつかは食べられちゃうわ
その前に助けに来てね

 数日後のこと、ルークが再びラインハットを訪れた。
「よっ。うまくいったみたいだな」
うん、と照れくさそうにルークは答えた。
「肖像画も描かせてくれたよ」
「ずいぶん早描きだな」
マティースというその画家は、船の中でマーサのスケッチを取り、グランバニアへ着くまでに細密画を仕上げたのだった。
「事情が事情だからね」
 ルークは肖像画入りのロケットを取り出した。エルヘブン駆け落ちをやらかしてから時間にして一世代以上は経過している。ロケットはずっとパパスのものとしてグランバニアにあり、やっとルークが受け継いだところだった。
 かちりと留め金をはずしてルークは中を見せた。マーサの肖像がそこにあった。
「変わったポーズだよなあ」
とヘンリーはつぶやいた。
「実はちゃんと前を向いて座ってるのもあるんだよ。これはマティースがスケッチから描きおこした別の絵なんだけど、ぼくはこのほうが好きなんでロケットの中の絵を入れ替えたんだ」
 その絵の中のマーサは、行儀よくすわっているわけではなかった。寝台か長いすにうつぶせになっているらしい。白い敷布にひじを突き、片手に赤いリンゴを持ち、今にも一口かじり取りそうなようすで唇をおしつけて、うれしそうな、恥ずかしそうな表情でこちらを見ているのだった。