エルフの時代 6.春のフルート、冬のホルン

 

眼下の湖の常に乳色のもやに包まれているような水面も、夕暮れから夜にかけて表情を変えていく。今は妖精城の灯りが水面に映りこみ幻想的な美しさがあった。
「ずっとあの方と暮らしていたんですか?」
とルークは聞いた。ピサロは小さくため息をついた。
「おまえも知るとおり、私は魔界にも居城を持っている。が、地上にいるときはロザリーヒルという村にいる」
ビアンカは子供たちを寝かし付けに行ってしまった。今窓辺にいるのはルークとピサロだけだった。
「どこにあるんですか?これでもけっこう地上は歩き回ったつもりだけど、行ったことがないんですが」
「行かれてたまるものか。隠したのだ、私が」
「どうして?」
じろりとピサロは視線を向けた。
「勇者の話を聞いていなかったのか?ロザリーを守るためだ。人間たちからな」
「だって、村なら、人間だって住んでいるでしょう」
「昔は、多少人間もいた」
とピサロは認めた。
「今はもういなくなった。今住んでいるのはホビット族と“進化”した動物やモンスターだ。うまく人間に化ける住人もいるが、どれもいわく付きだ」
ピサロは壁にもたれた。
「村の住人は人間を軽く侮り、そして恐れてもいる。数が多いからな。好んで人と交わる者はいない。それが心地よいらしく、いつのまにか人外の者どもが住み着くようになったのだ」
ピサロは首を振った。
「人が足を踏み入れるようなところではない。ロザリーヒルに入るのはやめておけ」
ルークはやっと口を挟むことができた。
「理想的だ……!ぜひ、行ってみたいですっ」
なんとも言いようのない目でピサロはルークを見つめた。
「おまえは、本当に変わったやつだな」
「ロザリーヒルのほかにも、そんな村があるんですか?」
「ないぞ。いや」
ピサロは軽く額に手を触れた。
「ユーリルに聞け。あいつはヘンな村を作っていたからな」
「ヘンな村ですか?名前は?」
「なにやら奇妙な名だったが、覚えておらぬ。なんだかあちこちを回ってモンスターを口説いて村に住むように勧めていた」
「モンスターの村なんだ……」
 本当に勇者ユーリルに聞いてみようか?とルークは思った。が、ユーリルの“入れもの”であるアイルは、もうカイといっしょにビアンカが寝かしつけてしまった。あの双子は揺れる馬車の中でも地べたに藁を盛り上げただけの寝床でも、グランバニア城の王室居住区と変わらずにぐっすり眠ることができる。ちょっとした才能だよ、とルークは思っていた。
「何をニヤニヤしている?」
「気にしないで下さい。ただの親ばかです。そう言えば」
とルークは言った。
「エルヘブンのマーサをあなたは知らないと言った。でも、門を司る一族のことは何かご存知ですか?」
「門?いや」
「僕も血を引いているのだけど、エルヘブンは不思議なところです。住民が人間ぽくない。そこの住人は遠視や予知の力を持ち、伝承に秀で、力のある者は魔界と人間界の出入り口、門を越えることができます」
ルークは袋の中から世界地図を取り出して場所を見せた。
 古い地図のうえにピサロは手袋のままの指を置いた。
「これが今の世界の形か。だいぶ変わったものだ」
魔王はどことなく無邪気につぶやいた。もともと好奇心の強い性格らしいとルークは思った。
「それに、ここがエルヘブンか?なんとロザリーヒルに近い」
「え、そうなんですか?」
ピサロはしげしげと地図を見ている。ルークはなんとなくほほえましいような気がした。
「ロザリーヒルとエルヘブン、もしかしたら何かお互いに影響しあったのでしょうか……?」
答えはなかった。

 翌日ルークたちは女王の玉座の前に呼ばれた。夕べのうちに妖精族の賢者が各地からこの城へやってきたらしい。女王は本当はやってきた賢者たちと一晩中話し合っていたのだろう。ルークたちの一行が玉座の間に入っていくと、女王の玉座の両側にそれぞれ二人づつ、威厳のある妖精が立って彼らを出迎えた。二人は女性、二人は男性である。
「この者たちですかな?」
白髪交じりの髪をした、やせて神さびた老人が女王に尋ねた。短い立ち襟の黒い服は喉元までボタンでとめてある。峻厳な雰囲気の賢者だった。
「そうですわ、クロヴィス」
と女王は言った。
「勇者アイトヘル殿、双子の妹カイリファ殿、人間の戦士ルキウスことルーク殿と奥方のビアンカ殿」
クロヴィスの隣には豊かな黒髪のりりしい美女が立っていた。
「そして魔族か!」
彼女はピサロをにらみつけていた。
 女王はためいきをついた。
「ねえ、ランジュ、しかたがなかったの。ロザリー姫を今現在保護している者ですし」
ランジュは銀の胸当てをつけ肩から矢筒を負い、手には妖精にしてはかなりの強弓を携えている。戦士の装いだがくっきりした黒い眉と薔薇色のほほ、ボリュームのある紅の唇の持ち主で、気の強そうな美人だった。カイはなんとなく、サラボナの“紅薔薇”を思い出した。
 玉座を挟んでランジュの反対側に若い吟遊詩人が立っていた。ランジュと対照的に優しげな風貌である。柔らかくウェーブのかかった長めの栗色の髪が色白の二枚目顔を縁取っている。身につけている葡萄模様のガウンはゆったりと広がっていた。
「問題のお姫様はどちらに?」
「あの寝椅子よ、アルノー。悪い夢に囚われておいでなの」
吟遊詩人はものめずらしげに近寄ってわざわざ寝顔をのぞきこんだ。
「お美しい。この瞳が開かれるだけで一編の詩ができましょう」
冷たい目でピサロはその男をにらんだ。
「どけ!どいつもこいつも不愉快なやつらばかりだ。ここでぐだぐだとしゃべっているだけなら、彼女は連れて帰るぞ」
 女戦士が弓を握り締めた。
「無礼な!」
「待って!」
最後の一人が制止の声を上げた。
「いけません、ランジュ。ロザリー姫をお助けするのが先でしょう」
そしてルークたちの方に視線を向けた。
 花冠の下のふわふわした薄紫色の髪は腰まで届く。衣装はまるで緑の花びらをいくつも重ねたようなふくらんだドレスだった。
「あなたからもお連れをおいさめしてください、ルーク」
「ポワン様!」
ルークは思わず呼びかけた。妖精の貴婦人は微笑んだ。
「久しぶりですね、ルーク」
「はい。いつぞやはお世話になりました」
ポワンはちょっと視線をずらした。見ると宮廷の隅のほうに、ベラが立ってしきりに手を振っている。
「お父さん、ベラがいる!」
「わっ、あとで遊べるかなっ」
双子は大喜びだった。ルークも昔なじみの妖精の少女に手を振って笑いかけた。
「おまえはこいつらに受けがいいのだな」
ぶすっとピサロはつぶやいた。
「子供のころから知っているんです」
ルークは言った。
「あまり短気を起こさないで下さい、ピサロ。ロザリーさんを目覚めさせることができるのは、どう考えてもこの人たちですよ」
ピサロは腕組みして顔を背けたが、どうしても出て行くとは言わなかった。
 女王が咳払いをした。
「そのために私は賢者たちを招いたのです。春を司るポワンのことはご存知ですね。夏のランジュ、秋のアルノー、そして冬のクロヴィスです」
ポワンは微笑を、クロヴィスとアルノーは優雅な会釈を送り、ランジュは無愛想にうなずいた。
「私たち妖精は、夢の世界も現実世界も同じように体験するのです」
と、女王は話し始めた。
「古来、夢に囚われるという現象も多く、癒す手段もいくつか知られています。けれど、この方にはそれが通じるかどうかわからないのです」
「もしも通じるなら」
とクロヴィスが言った。
「既にこの城に入った時に目を覚ましておられるでしょう。ここはそういう結界なのです。だが、いまだ眠りに落ちたままでいらっしゃる」
ルークは冬の賢者を見た。
「どうしてですか?ロザリーさんはエルフでしょう?」
「特別なお方だから、というのが私たちの結論です」
と女王が言った。
「妖精族は長い年月の間にエルフや他の、人間に追われた者どもが集まって成立し、その間に良かれ悪しかれ変化してしまいました。ですがこの方は太古の昔に存在した真のエルフのお一人なのです」
「それでは、どうしようもない、ということですか?」
「可能性はあります」
女王は玉座に身を預けた。
「サムルラーンの王家の姫ならば、往古の音色を聞かせれば、夢の中へ届くかもしれません。それをたよりにこちらの世界へもどってくることができるかもしれない」
「古代の音楽ということですか?」
「音楽は妖精の天生の技術です。古代に演奏された曲目もほとんど記録があり再生は可能です。ただ、楽器に難があります。忠実な再現のためには、古代の楽器が欲しいのです。特に当時から神器と呼ばれた四つの品が必要です」
ピサロが割り込んだ。
「何をもってこいと言うのだ」
女王はつん、と顔を背けた。
「魔界に巣食う者どもにはわかりますまい。それは美しい世界に四季を順番どおりにめぐらせるための神器。ポワン?」
妖精の貴婦人は柔らかく微笑んだ。
「春風のフルートは、ルーク殿がお持ちですのよ」
ルークとビアンカは顔を見合わせた。ビアンカは袋を探り、アイテムを取り出した。
 かつて幼いルークがベラとプックルといっしょに冒険の末に取り返してきた春のフルートは、薔薇色の笛だった。フルートは本来木管楽器である。だが、春風のフルートは薄紅のクリスタルでできているように見えた。同じ色合いのクリスタルを溶かしてリボンにし、吹き口から笛の本体へかけて、巻きつけてあるように見える。ときどきそのリボンの中に金色のスパークが生まれ、きらきらとはじけていく。美しい楽器だった。
 ルークは無言でフルートをささげた。ポワンはその手からフルートを受け取り女王の目の前に持ってきた。
「ええ、これですわ」
妖精城の住人はうっとりと春の神器を見守った。音楽を愛する民なんだ、と改めてルークは思った。女王の侍女たちが優美な献台を運んできた。その銀色のなめらかな天板にポワンはフルートを置いた。
「では、ランジュ」
ランジュはさっと赤面した。
「申し訳ありません、女王様。あれは、夏の海のドラムはずっと以前に盗賊が持ち去ってしまったのです」
「なんですって?」
「しかたなく夏の妖精たちは、別の方法で季節をめぐらせて来ました」
早口にランジュは説明した。
「言い訳をするつもりはないのですが、きっとどこかの魔族が盗み出して隠しているのではないかと」
ピサロが冷笑した。
「何かと思えば笑わせるではないか」
「魔族、何がおかしい!」
「夏の海のドラムと言ったか?ルーク、出してやれ」
「え?」
わけが判らなくてルークは間の抜けた声を立てた。
「袋の中のそれのことだ。無限ループダンジョンから、おまえ持ち出しただろう」
 ルークは荷物を探り、沼地のダンジョンの落とし穴で手に入れた戦いのドラムを取り出した。
 それはあめ色の胴に白い皮を張ったドラムだった。優雅に膨らんだ胴体には赤と金色と茶色でおおらかな模様が描かれている。いくつか金属の留め具がつけられ、そこに糸を巻きつけて、てっぺんの皮をきつくはりつめていた。聞く者の心に火をつける、不思議なドラムだった。
ランジュが叫んだ。
「きさま、それをどこで!」
「ダンジョンで見つけたんです。もともとあなたの物ならお返しします」
「あたりまえだ、盗人たけだけしい!」
ルークが言い返そうとしたとき、ビアンカが一歩前に出た。
「ずいぶん失礼な人ね」
豊かな胸の前で腕を組んでいる。
「自分でなくしておいてその言い方は何なの?この“闘いのドラム”を私たちがダンジョンの深いところから持ってこなかったら、ずっと行方不明だったのよ?きちんと管理できない人に持ち主だという権利はないわ」
「なんだと?この下衆が」
美女二人はにらみあった。
 くっくっくっとピサロは笑った。
「よく言った、天空の女」
奇妙ににやにやしていた。
「とりあえず、教えておいてやろう。そのドラムは、妖精の一人が抱えてダンジョンへ迷い込んできたのだ。何がしたかったのか私にもわからん。ドラムはここ百年ばかりその迷子が行き倒れた場所にずっとあった」
ランジュはエルフイヤーの先端まで真っ赤になった。
「もうよいでしょう」
と女王は言った。
「ドラムを受け取っていらっしゃい、ランジュ。それからビアンカ殿を下衆よばわりすることは許しません。天空人の流れを汲むお方ですよ」
ぎくしゃくとランジュは歩いてドラムを受けとり、やや乱暴に献台へ乗せた。