エルフの時代 5.あの日、狂魔王の前で

 妖精のお城はいつも夢のように綺麗だとカイは思っていた。グランバニア城は黒灰色の岩を切り出して造られているが、妖精城はしっとりした土をそのまま固めたような不思議な物質でできている。城の壁や床から直接草花が生え、咲き乱れているのだ。この城の屋上は森そのものになっているのもカイは知っている。そして繊細なレリーフを彫った金の飾り板で城全体を飾り、優美できゃしゃで、どこかはかなげな美しさがあった。
 だが、その日の妖精たちは城の壁のあちこちに身を潜め、恐怖と嫌悪の目でこちらを眺めているだけで、話しかけようとしても逃げるばかりだった。
「なんか、哀しくなっちゃう」
カイはつぶやいた。その手を隣に居たアイルがそっとさぐってきゅっと握った。カイが兄の顔を見ると、アイルはそっと首を横に振った。
 アイルの視線の先にはピサロが居た。妖精たちの白い目の中心にピサロはいる。いつものように無表情で、悪びれたようすもなかった。カイの父と母がそれなりに女王に敬意を表しているのに、ピサロは傲然と腕を組み、目の前の玉座の主をことさら無視する態度だった。
 玉座の間の中央、緑の布を張った柔らかそうな長椅子の上にロザリーは寝かされていた。赤みがかった金の豊かな髪が深い緑の布の上にふわふわと広がっている。妖精たちはピサロへ向けるのとはまったく別の視線を彼女へ注いでいた。それは強いて言うなら、憧れ、とも言うべきものだった。
「人の一生は短く、人の命は儚いもの」
と妖精の女王はつぶやいた。
「私たち妖精は、人に比べてはるかに長い歳月を生きてきました。しかしその私たちでさえ、おぼろげにしか覚えていない太古の過去がありました。一族の遠つ祖、ナルウィック王の治めるサムルラーンの都。この方がその最後のお一人ならば、荒々しい地上でただ一人、なんと長い歳月を過ごしてこられたことか」
 なぜか女王も妖精たちも、ロザリーが古代のエルフの姫君だということを少しも疑っていない、とカイは思った。何か妖精たちにはわかるようなしるしがあるのかもしれない。
 女王は不承不承という態度でピサロへ視線を向けた。
「魔族よ、なぜこの姫をおまえが連れてきたのか?」
じろりとピサロは女王を見た。
「口のきき方に気をつけるがいい。我が名はピサロ、魔界の王である。私が誰を伴おうが、きさまの詮索することではない」
妖精の女官たちがびくっとして身を引いたほど敵意のこもる、冷たい言い方だった。
「ナルゴスの孫、と名乗ったか」
「いかにも」
「ならばこの姫にとって、おまえは仇のかたわれではないか」
女王は痛いところに触れたようだった。短気でかっとなりやすい気性を隠そうともせず、ピサロはぐいとあごをあげて女王をにらみつけた。
「奪い、戦い、傷つけるのが魔族の本性!誰が何を恨もうと私の知ったことではない」
くす、と誰かが笑った。すぐそばにいるアイルだった。
「強がりを言っちゃって。あいかわらずだな、ピサロは」
お兄ちゃん、といいかけて、カイは悟った。
「ユーリルさん?」
「うん。ごめん、ちょっと体を借りるよ」
勇者は女王の玉座の前に進み出た。
「初めてお目にかかります、女王様。どうしてピサロがロザリーを保護することになったのか、僕からお話させてください」
女王は驚いたような顔をした。
「勇者殿?そう、あなたも……わかりました。うかがいましょう」
アイルの体を借りたユーリルが話しはじめた。
「僕が見たのは、幻です。狂った魔王の前にエルフの乙女が飛び出してルビーの涙を流したときに、僕と仲間たちはそれを見ました」
少年の声は夢を見ているようだった。カイと両親、妖精たちは、息を呑んで聞き入った。ピサロだけは腕を組んで、よそをむいている。
「一本の樹以外身を隠すものもない草原を、この人は逃げていきました。後ろから人間の男たちが追ってきました。エルフの涙はルビーと化す、欲深な人間はそれが目当てだったのです。
 今にも捕まりそうになったとき、魔法力で人間たちは滅ぼされました。気まぐれからエルフの乙女を救ったのが、ピサロでした」
「なんと……」
妖精の女王はとまどっているようだった。
「それ以来ずっとエルフの乙女は“ロザリー”として人間界にとどまり、ピサロは常に彼女を保護してきたのです」
「そのくらいにしておけ」
ぶすっとした口調でピサロが言った。
「恩に着せたくてしたことではない」
「ああ、わかってるよ。あなたはいつもそうだね。今だって、ロザリーが行方不明になって死ぬほどあわてたくせに、かっこつけちゃって」
「うるさいぞ」
「そういえば、ピサロナイトはどうした?」
ピサロは首を振った。
「ラリホーマをかけてすまきにして塔へほうりこんだままだ」
「なんで!」
「ロザリーが消えたとき、責任を取って死ぬの生きるのとうるさかったのでな」
「出して上げなよ。ロザリーが夢に囚われたのは、ピサロナイトのせいじゃないだろう?」
不機嫌な表情でピサロは片眉をつりあげた。
「あやつは私の下僕だ。きさまの指図は受けん」
こほ、とルークが咳払いをした。
「女王様、ピサロのことはひとまず置いておいていただけませんか。ロザリーさんと言う人を目覚めさせる方法をご存知でしたら教えてください」
女王はためいきをついた。
「知恵が必要です。私たちの一族に伝わる伝承や故智を集めなければ。さきほど伝令を発して、一族の賢者に集まるように言いました。明日もう一度この方を助ける方法を話し合いましょう」

 家庭生活のほとんどは馬車の中であるにもかかわらず、ビアンカはれっきとした主婦だった。どっちかと言えば、ドレスをまとって宮廷を主宰するグランバニア城の生活より、野宿と戦闘に精を出す馬車生活のほうがビアンカの本領発揮だった。
「今夜は女王様の御好意でこのお城に泊めていただけるみたいよ。ベッドは丁寧に使いましょうね」 
は~い、と双子はいい返事をした。
「ピサロもお泊りなの?」
案内された部屋のベッドを整えながらビアンカは答えた。
「ええ、そうらしいわ」
 最初女王はピサロを締め出したいようすを露骨にしたのだが、ピサロを追い出すと勇者のパーティも出て行く、という覚悟をルークが優しく、しかしきっぱり見せた結果、ピサロもまた、城の中にとどまることになったのだった。
 女王はパーティにいくつも寝台のある大きな部屋を提供してくれた。部屋は湖の上に張り出した小塔の最上階だった。窓の外に露台があり、そこから湖を眺めることができる。ピサロはルークといっしょにその窓のところにいた。
「余計な世話をしたものだ!」
ピサロはあまりうれしそうではなかった。
「でも、仕方ないと思います」
とルークはやんわりと抗議した。
「この城はエルフ臭くてかなわん」
「ロザリーさんと引き離してあなたを城の外へ放り出したら、また黒いドラゴンに変化して襲ってくるでしょう?」
むっとした顔でピサロは黙り込んでしまった。
ビアンカは微笑んだ。
「さあ、二人ともお父さんに『おやすみなさい』を言いにいこうね」
双子は素直についてきた。うちもいろいろあったけど、とひそかにビアンカは思った。子どもたちはいい子に育ったわよね?双子はビアンカの誇りだった。
「お父さん、おやすみなさい」
「ああ、お休み、アイル、カイ」
アイルは黒衣の魔王のほうをふりむいた。
「ピサロもお休み」
ピサロは小さくうなずいた。
「よく眠れ」
アイルは無邪気な目で魔王を見上げた。
「ねえ、昔、勇者と旅をしたときも、おやすみなさいしたの?」
「まあな。おまえたち人間は朝晩に挨拶するし、ひっきりなしに話しかける。何がおもしろいのかわからん」
「おもしろいよ。仲良しだもん」
「ふん」
「じゃあもう一回、『お休み』。これはユーリルさんの分」
ピサロはあきれたような顔になった。
「では私からあれへの挨拶をおまえから伝えてくれ」
「うん、いいよ!なに?なに?」
「『亡者はあの世でおとなしくしていろ』!」
くすくすとアイルは笑った。
「じゃあ、ほんとに寝るね。カイもピサロにお休みしなよ」
カイはつんとした。
「知らないわ」
 ビアンカはちょっと意外だった。以前旅をしたとき、カイがピサロになついていたのを知っていたのだった。今回の旅では、カイは前ほどピサロにまとわりついていない。どちらかというと終始冷ややかな態度をとっていた。そして今は眉をひそめ、すこしふくれている。
 突然ピサロを見上げてカイは言った。
「きれいな人ね、ロザリーさんて」
「森のエルフはあんなものだ」
特別考えたようすもなく、ピサロは答えた。
「あらそう!」
カイの眉がぴくりと動いた。
「つまりあたしとのことは、遊びだったってことね?」
 部屋の雰囲気が一気に凍りついた。ルークもビアンカも何も言えない。アイルはきょとんとし、そしてピサロは愕然としていた。
「おまえとのことだと?」
「申し込んだでしょ、結婚を!」
「あれは……!」
と言ったまま魔王は絶句した。
 ビアンカはその場に居合わせなかったのだが、ルークの話によると魔界の町ジャハンナでたわむれにピサロがカイに「嫁に来い」と言ったことがあるらしい。カイはその場で断ったのだというが、生まれてはじめてのプロポーズがウソだったという事実がカイのプライドを傷つけていたようだった。
「ねえ、カイ……」
 ビアンカは後ろからそっと娘の腕に触れた。そのとたんカイはビアンカにしがみつき、顔を押し付け、声を出さずに震えだした。ビアンカはそっと娘の髪を撫でた。アイルよりずっと大人びてしっかりしていると思っていたカイが、こんなに怒るなんて。ビアンカはむしろほほえましかった。
「カイリファ・オブ・グランバニア」
低い声でピサロが言った。
「……悪かった」
カイの嗚咽がとまった。ビアンカの胸に顔を押し付け、ぐしぐしっとこすった。
「……許します」
蚊の泣くような声でカイは言った。そしてぱっとビアンカの腕を離れ、自分のベッドまで走っていった。
 掛け布をめくりあげてもぐりこむ直前、カイの声が届いた。
「ロザリーさんと、お幸せに」
「あ、ああ」
魔王と勇者と国王夫妻は、気を呑まれたままそれ以上何も言えなかった。