エルフの時代 13.あなたの心にはエルフが棲む

 「行きなさい、アイル」
「お母さん!」 
振り向いてアイルが叫んだ。
「あなたは勇者よ。責任があるでしょう」
ビアンカは指を握り締め、歯を食いしばっていた。
「アイル、どこまでも愛してる。でも、もしそれが正しいと思うのなら、あなたは行きなさい」
「母さんの言うとおりだよ」
ルークは呼吸を整えて言った。
「おまえのするべきことをするんだ」
こわばった顔で、それでも笑ってみせた。
「我らに遠慮するな」
ランジュだった。
「サムルラーンの姫君を起してはならぬとマスタードラゴンが言われるならば、我らは太古の縁を持つ民として、天空城へ弓引くつもりだ。だが、おまえはあの姫とは話したこともなかろう。巻き込むつもりはない」
アイルは混乱した顔になった。
「ぼく、ぼくは!」
カイが手を伸ばして兄に触れた。
「お兄ちゃん!」
双子として生まれたカイは、じっとアイルを見ていた。
「あたしはいっしょに行く。みんなと戦うことになっても」
アイルは胸をつかれたように妹を見つめた。
「カイ、ぼく、」
アイルの視線は落ち着きなくさまよった。いきなり駆け出してピサロの前に立った。
「どうすればいい、ピサロ?」
ピサロはため息を着いた。
「以前にもお前は、同じことを聞いたな」
「ぼくが?」
「おまえではないおまえだ」
勇者ユーリルか、とルークは思った。ユーリルも天空と地上の間の板ばさみになって苦しんだことがあるのだろうか。
「あなたは、そのときになんて?」
「答えられようはずもない。おまえが決めることだ」
言葉は突き放すようだった。が、ピサロの視線は言葉を裏切っていた。アイルがためらいがちに魔王を見上げた。
 轟音が沈黙を破った。
「まいれ、勇者よ!二度は呼ばぬ。おまえは地上の希望だ。妖精、魔族、モンスターをはじめとする太古の生き物をすべて押しやり、地上を人間だけの世界にすることを、おまえは望まれているのだぞ」
アイルが振り向いた。
「いやだ!」
「否定してもむだだ。滅びは時の定めるところ」
「待ってよ!」
アイルは言い返した。
「マスタードラゴン、どうしてあなたは、ロザリーさんが目を覚ますのをそんなに嫌がるの?」
奇妙なことにマスタードラゴンは沈黙したままだった。
 ふと気づいてルークは叫んだ。
「まさか、あなたもやがて滅びてしまうんですか?マスタードラゴン」
傲然と竜は答えた。
「然り!」
ルークは愕然とした。
「そんな、まさか」
「それほど意外か?」
とピサロが言った。
「我ら太古の民の末裔の、最たるものだ、天の竜は。こやつ、己の滅びを見越して、ロザリーともども我らを巻き添えにする気だぞ」
「巻き添えと呼びたくば呼ぶがよい」
むしろ静かにマスタードラゴンは言った。
「おまえたちも、うすうす勘付いてはおろう。逃れられぬのよ。ただそれだけだ」
ルークはその場に立ちつくした。では、本当に彼らは行ってしまうのか。ピサロが、妖精の女王がどれほど逆らっても、時の流れに押し流されるのか。
「そんな」
ルークは首を振った。モンスターたちがすべて消え去った世界などというものを、ルークには想像できなかった。
「お父さん」
涙をたたえた眼でアイルが言った。
「ぼく、だめだよ」
「アイル」
「どうしようもないなんて。なんでぼくは勇者に生まれたの」
「アイル!」
だがルークにはそれに続く言葉がなかった。
ピサロ、女王をはじめとする妖精たち、ビアンカも、ただ黙っているだけだった。
「わかったようだな」
とマスタードラゴンは言った。
「いかんともしがたい。これは時の流れの定めるところだ」
そのときだった。細い声が答えた。
「いいえ」
ルークはふりむいた。
「滅びは訪れません」
女の声だった。
「私がいる限り」
 妖精たちがざわめいた。
 魔王が眼を見張った。
 花のコロセウムの中心に置かれた寝椅子の上に、ほっそりとしたエルフの乙女が上体を起こして坐っていた。くるぶしには繊細な衣がまとわりつき、豊かなストロベリーブロンドがゆらいだ。
 小さな足がそっと石の床を探り、彼女は寝椅子から身を起こして立ち上がった。
「ロザリー」
低い声で呼んだのはピサロだった。ためらうようにピサロは前に出て、手を差し伸べた。その手に、ほっそりとした白い手が載せられた。いとけない少女のようにあどけなく、女賢者のように叡智をたたえた瞳がピサロを見上げ、静かに微笑んだ。ピサロはかるく目を見張り、そしてうなずき返した。大きな手がきゃしゃな手をそっと握った。
 背の高い黒い衣の恋人にエスコートされて、太古のエルフの貴婦人はしっかりとした足取りでコロセウムの中央へ歩み出て、まっすぐに天空の竜の神を見上げた。
縦長の虹彩の金銀の瞳でマスタードラゴンは、吹けば飛ぶような細い華奢な人影を見下ろした。
「なぜ、目覚めた」
沈うつな声音だった。
「ずっと眠っていればよかったのだ」
「天空城の竜の神、あなた御自身がたてた誓いを思い出していただくために」
とロザリーは静かに語った。
 誓い?ルークは妖精の女王の方を見た。女王も妖精族の賢者たちもピサロも、不審そうな表情だった。どんな誓いなのか、と聞こうとしたとき、妙にあわただしくマスタードラゴンが言った。
「忘れたわけではない。だが、私が天空城でどれだけの歳月を過ごしてきたと思う。私は疲れた。飽いたと言ってもいい」
言い訳をするような口調だった。威厳のある頭部はエルフの乙女の前にうつむき、鱗に覆われた長い尾が揺れていた。
 ルークは思い出した。つい最近まで、マスタードラゴンは天空城の玉座を不在にしてプサンとして生きていたのではなかったか?もし魔王ミルドラースがこの世を脅かしたりしなかったら、そのまま人間として生活していたかもしれない(たとえトロッコの洞くつで回り続けていたとしても)
「マスタードラゴンのお言葉とも思えません」
ロザリーはしっかりと顔を上げた。その声は静かであり、その姿に例えばランジュのような威嚇的なところは何一つなかった。両手で軽く長いスカートをおさえ、足をそろえて立っているだけだった。が、ロザリーは大きく見えた。堂々と静かに、傍らに立つピサロさえ圧倒するほどに威厳と確信に満ちて、山のように彼女は存在していた。
 この人は“ロザリー”であって“ロザリー”じゃないんだ、とルークは思った。太古のエルフの一族の共有意識がこの乙女の口を借りて話しているのだろう。マスタードラゴンが彼女を目覚めさせたくなかった理由がルークにはちょっとわかったと思った。彼女は大昔の誓いの生き証人なのだった。
「エルフよ」
マスタードラゴンは首を振った。
「よしんば、太古の誓いが生きているとして、今のこの世をいかに見る?かつての時代の残骸ではないか。後から生まれた人間どもは、既に我々に想いを寄せることもしない。すべてが忘れ去られるのも時間の問題にすぎぬ。この現実を持って答えとなりはしないか」
マスタードラゴンは疲れたように目を閉じた。
「終わったのだ、エルフの時代は。我々も去っていこうではないか。遥か彼方、原初の空間へ」
ルークは思わずロザリーを見た。ピサロも黙ったまま美しい恋人の横顔を見つめている。女王をはじめ、妖精たちも息を呑んでロザリーの答えを待っていた。
「終わってはいませんわ」
確信を込めてロザリーは答えた。
「原初のエルフの誕生を思い返してくださいませ。エルフの最後の一人がこの地上を離れるまで、あなた様は人間も、太古の民も、等しく守る役目を負っておいでのはず。お忘れになりましたか」
そんな役目が、とルークは意外に思った。妖精の女王さえ、驚きに目を見開いている。
「くどいとは思わぬか、エルフよ」
マスタードラゴンの声はしわがれ、本当に疲れているようだった。
「思いません。何度でも申しましょう。見守ってくださいませ、この世を。人がエルフを忘れることはありません」
印象的な両眼を力なく閉じてマスタードラゴンは言った。
「そう言い切れるか」
ロザリーは微笑を浮かべた。薄い衣に包まれた両手が目に見えない何かをささげるように持ち上がった。
「長い年月が経ったとおっしゃいましたわ。そのとおり、その歳月の間にエルフが何をしてきたとお思いになりますか。私たちはずっと棲み続けてきたのですよ、人々の心の中に」
マスタードラゴンのまぶたが再び開いた。
「人の一生は短くても、人の心は強靭です。親から子へ、そしてその子へと世代の交代を繰り返す間、エルフは彼らの心の中を拓き、しっかりと居場所を定めてきたのです」
アイルとカイがおそるおそるロザリーに近寄った。
「本当?」
「私の心にも?」
乙女は子供たちに笑いかけた。
「目を閉じてごらんなさい」
双子はお互いの顔を見合わせ、それから言われたとおりに目を閉じた。
「そうしているだけであなたたちは、誰も知らない不思議な国や星の海のはるか彼方、時の最果てまでも自由に行くことができるはず。夢見る力のあるかぎり、あなたの心に私は棲んでいます」
閉じたまぶたの下から透明な涙があふれてきた。カイが目を開けた。
「ほんとだ……」
ぎゅっと力を入れてアイルはこぶしで目をぬぐった。
「うん、ぼくは、どこまでも空想できる!」
ちいさなざわめきが妖精たちのあいだからあがった。さきほどまでエルフたちはマスタードラゴンから非難され動揺し、破滅におびえていたのに、今は顔つきが違う。新たな自覚が視線までも変えてしまった。女王や四賢者にもその自覚は伝わったようだった。
「それがおまえたちの答えか」
妖精の女王は背筋を伸ばしてマスタードラゴンを見上げた。
「はい、竜の神。今生きているこの現在が、まさにエルフの時代です」
ルークが話しかけた。
「ぼくも人間の一人ですが、きっとあなたを忘れません。エルフや、魔族や、モンスターや、そういう不思議な生き物たちのことをずっと覚えていて、語り継ぐつもりです」
「おまえは特別だからな」
「こう見えても一国の王族なのよ」
ビアンカが言った。
「今日ただいまから、グランバニアじゃエルフの物語を語り続けることを国是にするわ」
マスタードラゴンは前足を重ねた上にまた大きな頭を預けた。ちらっとピサロのほうへ視線を飛ばした。
「私に期待するな」
無表情にピサロは言った。
「きさまがどうなろうと知ったことではない」
「ピサロ」
思わずルークが言った。
「魔族のことを語り継ぐ必要はないだろう。おまえたちが気を緩めれば、地上などいつでも制覇してやる。せいぜい、おびえろ」
「でも恋人を探しに押しかけて来た黒いドラゴンのことは話してもいいですか?」
そう言うと、ピサロはぷいっと顔を背けた。
 花のコロセウムの中に再び風が巻いた。マスタードラゴンはゆっくりと上体を起した。
「エルフよ、今はその言葉を信じよう」
縦長の虹彩の大きな目にロザリーが映りこんでいた。
「ありがとうございます」
竜は真顔になった。何か言いたそうにして口をつぐみ、それからまじめな顔でつぶやいた。
「エルフも、案外よいものかもしれんな」
目に見えない窓枠のようなものの縁を前足でつかむと、黄金の竜はぐっと体を引き込み、狭間の世界から姿を消してしまった。
 さあ、と女王が声を上げた。
「妖精城へ帰りましょう、みなさん」
あわてたようにエルフが一斉に動き始めた。楽器をはじめ、かたづけるものがたくさんあるらしい。妖精の兵士たちが、ロザリーの眠っていた長いすを運び去った。
「姫君」
と女王が言った。
「妖精城へとどまってくださるわけにはいかないのですか?」
ロザリーは恥ずかしそうに頬を染めた。マスタードラゴンを圧倒した威厳はどこかへ消え去り、華奢なエルフの乙女に戻っていた。
「女王様の優しいお気持ちだけ、いただきます。私は……」
ピサロに寄り添い、その手を預けている。そしてその表情がすべてを語っていた。
女王はためいきをついた。
「お停めすることはできそうにありませんのね。でも、妖精城はいつでもサムルラーンの姫君を歓迎いたします。いつかきっとおいでくださいませ」
「はい、かならず」
そしてピサロにエスコートされて、花のコロセウムから立ち去ろうとした。
 ふと黒いブーツの歩みが止まった。ピサロは少しだけ振り向いて妖精の女王の方を見た。
「何か、魔族の王?」
「……世話になった」
女王がぎょっとした顔になった。
「感謝すると言っているのだ。それだけだ」
ランジュが、アルノーが、女王の背後で目を丸くしている。ビアンカとルークも顔を見合わせた。
「珍しいこともあるわよね」
「うん」
そのときだった。アイルがたったっと二人のところへ走ってきた。
「ぼくを覚えている、ロザリー?」
ロザリーはぱっと笑顔になった。
「まあ、おなつかしいですわ、勇者様」
あは、と勇者ユーリルは、アイルの顔で笑った。
「変わらないね!今でも美人だ」
「ありがとうございます。あのときから今まで、ずっと幸せに暮らしていますの。全部ユーリル様のおかげ」
「ぼくは」
ユーリルは口をつぐんだ。ロザリーはすっと笑顔をひそめ、まじめな顔で少年のやわらかなほほを撫でた。
「ユーリル様」
ユーリルは軽く唇をとがらせて視線をそらせた。
「謝ったりしたら怒るって、ぼく言ったよね」
と、低い声で少年が言った。
「でも、世界樹の花はただひとつ」
「もう、いいんだ。ぼく、偶然だったけれど、あの羽帽子でシンシアの最後の時を共有できたんだよ。シンシアは」
声が小さくなっていく。少年の肩が震えた。
「怖い、夢でした」
静かにロザリーが言った。
「うん、でも」
ビアンカがルークの腕をつかんだ。
「ルーク、何のことか分からないけど」
心配そうな青い瞳が見上げている。行こうと言いかけたとき、その脇から飛び出した者があった。
「カイ?」
すたすたと少女はアイル/ユーリルのところへ歩いていくと、両腕を回してその体を抱きしめた。
「まだ泣き虫のままなの?ユーリル」
少年の体が凍りついた。
「君は……?」
「魔法でカエルにされたお姫様よ」
カイの顔をした少女が微笑んだ。
「その先はまだ考えてないの」
「シンシア?シンシアなの?」
少年は声を上げて飛びついた。ふふっと少女は大人びた笑顔を見せた。
「あの夢を見たんでしょう」
「うん」
「私、怖がっていた?嫌がっていた?憎んでいた?」
「え、ううん、それよりも、むしろ」
「私は喜んでいた。ユーリルを守りきれるとわかって安心してた。そうでしょう?」
アイルの青い瞳から、涙があふれてこぼれだした。
「ほら、お背中とんとんしてあげる」
ほとんど身長の変わらない少女が、少年の背に手を回し、年上の姉のようになだめている。不思議な光景だった。
「シンシア、ぼくは」
「ずっと、いっしょよ。そう言ったでしょう。あの村じゃない。村の人たちもいない。でも、いつか願ったとおり、ずっと、いっしょよ」
「ずっと?これからも?」
「ええ、そうよ、大人になっても」
少年は甘えるように頭を少女の肩におしつけて、ぐしぐしと目のあたりをこすった。
「ずっとそこにいたんだね」
か細い声でユーリルが聞いた。シンシアが答えた。
「ええ。あなたがそこにいたようにね」
シンシアは頭をあげてエルフの貴婦人を見上げた。
「あなたが“ロザリー”?」
「ええ。あなたが“シンシア”ね」
「あなたは私ね?」
「私はあなたよ」
少女の細い指が、乙女の指にからみついた。ロザリーはその手をきゅっと握った。そのまま二人は沈黙し、動かなくなった。
 ルークはビアンカといっしょに子供たちのところへ歩いてきた。
「あの、カイは何をしてるんですか?」
そばにいたピサロがつぶやいた。
「私も初めて見るが、記憶を同期させているらしい」
「そんなことができるんですか?」
「おまえたちの息子の中にユーリルがいたように、娘の中にシンシアというエルフの娘がいた、ということだ」
「そんなことが……」
ビアンカが声を上げた。
「うちの子たち、元に戻るのかしら」
「おそらく」
とピサロは言った。
「私やロザリーがそばにいないかぎり、子供達には別人格がよみがえることはなかろう。もっとも」
ピサロは言葉を切った。彼らの目の前で、カイの姿をした少女はもう片方の手を伸ばし、ユーリルの片手を握っている。
「お前の子供たちとその子孫は、普通の人間よりは敏感になるだろう。妖精たちの存在に気付きやすく、なかには長じてからも妖精を見ることができる者もいるかもしらん」
ようやくカイがロザリーの手を離した。実際のカイよりもずっと大人びた不思議な表情で少女はエルフの貴婦人を見上げた。
「では、お別れね」
「いいえ、私に会いたかったら、眼をつぶってちょうだい」
ロザリーがほほ笑んだ。
「あなたの心にも私は棲んでいるわ」