エルフの時代 11.望郷の歌

 

可憐な草花を生じる不思議な土台石を踏んでルークは妖精城へ駆け込んだ。
「女王様!いらっしゃいますか!」
玉座の間に高位のエルフは誰もいなかった。が、控えていた女官たちがわらわらとやってきた。
「こちらへ!お連れの皆様もごいっしょにおいでください」
真剣な目つきでせきたてた。ルークとグランバニア一家、それにピサロはエルフの女官に導かれて歩き出した。
 妖精城全体がひどく騒然としている。兵士が大きな荷物を抱えて右往左往しているのだ。まるで引越しのど真ん中に訪問してしまったようだった。
「どこかへ移動するんですか?」
エルフの女官は緊張した顔つきでうなずいた。
「女王様のご命令です。我ら一同、マスタードラゴンのお怒りを避けるためにこの湖を離れることになりました」
「お怒りっていうことは、何があったか女王様はご存知なんですね?」
「そのように拝察いたします。さ、こちらへ」
 女官はルークたちを地下へ連れてきた。宝物庫のさらに奥にある扉を抜けると、巨大なホールになっていた。中央に台座があり、その上に青みがかった透明な結晶体が安置されていた。
「これ、大きい!」
カイが足を止めて結晶体を見上げた。
「全部、時の砂だわ!」
「ちがうな」
とピサロが言った。
「この結晶を粉末にしたものが時の砂と呼ばれるのだ」
「さようでございます」
と女官が答えた。
「女王様、そしてポワン様をはじめ賢者の皆様はすでにお渡りになりました。皆様もお願いします」
「どこにつながっているの?」
「妖精にしか行かれない特別な世界です。それはこの世界と重なっておりますが、マスタードラゴンの目にさえ、定かには見えぬ場所。ロザリー姫を目覚めに誘う楽の音を奏でることができるのは、そこしかありません」
黒いブーツがホールの床に踏み出した。
「私は行く」
ピサロの背にルークは呼びかけた。
「待って、ぼくたちも行きます」
ルーク一家と魔王は時の結晶の前に立って、心を開いた。
 周囲の空間がくしゃっとゆがんだかと思うと、ルークたちは光の渦の中に投げ出されるのを感じた。この感覚をぼくは知っている……そうルークが思った瞬間、いきなり世界が開けた。
「ここは!」
 さきほどまでの騒然とした雰囲気がうそのように、そこは静まり返っていた。一行が立っているのは、澄んだ泉の中心にあるほこらの前だった。周辺には濃い緑が広がっている。林間の泉に彼らはいるのだった。ルークは神の塔へ通じる旅の扉をくぐったときのことを思い出した。到着地点の祠のあたりとなんとなく似ている。だが、こちらのほうが圧倒的に神聖な雰囲気があった。
「どうぞこちらへ」
 いつのまにか妖精城の兵士たちが先導に来ていた。彼らが導いたのは、樹木が作り上げるトンネルだった。枝がからみあって、まっすぐな一本道の天井になっているのだった。兵士について一行は緑陰のトンネルを進んだ。
 しばらくするとざわめきが聞こえてきた。妖精の女王たちのところへ着いたらしい。そう思ったとき、いきなりトンネルの出口に来た。
 大空から降り注ぐ光は、トンネルの薄暗さに慣れた目にはまばゆいほどだった。ルークは一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた。
 ルークたちは樹木で出来た巨大なすり鉢の底に立っているようだった。
「コロセウム?」
とピサロがつぶやいた。もしこの場所が円形闘技場だとしたら、観客はすべて花だった。周辺360度、仰角は水平から60度まで、すべてが花で埋め尽くされている。しかも咲く季節の違う種類の花々がいっしょに開いていた。
「お待ちしていましたわ」
 すり鉢の底には石でできた円形の舞台、そしてその中央に妖精の女王と季節をつかさどる四人の妖精が立っていた。どこから吹くのか、花のコロセウムの内部には風が絶えない。そのたびに香りが漂い、花びらが舞いあがって妖精の貴人たちを飾った。
「『秋空のヴィオラ』です」
ルークとビアンカは、やっと手に入れた神器を掲げた。秋のアルノーがいそいそと取りに来た。
「ありがとう、ありがとう!ああ、戻ってきたんだ」
ぎゅっと抱きしめてうれしそうに頬ずりした。
「楽しみにしてください。最高の演奏になりますよ」
女王が進み出た。
「申し訳ありませんが、時間が惜しいのです。マスタードラゴンのお怒りがここまで届かぬうちに、始めましょう」
女王は片手を振って指示を出した。兵士や女官たちが一斉に動き始めた。
「ここはどういうところなんですか?」
「“狭間の世界”というものをご存知ですか」
ルークとビアンカは顔を見合わせたが、ピサロはぽつりとつぶやいた。
「夢の世界と現実の世界の隙間に存在したと言われる空間だ。もう残ってはいないと思っていたが」
「では、忘れてください」
にべもなく女王は言った。
「よりによって、この世界の存在を魔族に知られるとは。でも、ロザリー姫のためです。しかたありません。さあ、みなさん」
 女王と四妖精は退いた。彼らの背後には大きな寝椅子が置かれ、その上にロザリーが眠っていた。舞台の上にいるのは、ルーク一家とピサロのほかは、眠るロザリーだけになった。
 そのとき、花のコロセウムの中でひときわ強い風が巻き起こった。薔薇の紅、桔梗の青、百合の朱色にすみれの紫。黄菊、白菊、茜菊。いっせいに宙を舞う色とりどりの花びらのカーテンの向こうから、立ち現れた者たちがいた。妖精たちだった。ルークたちはきょろきょろした。前後左右、すべての方向から彼らは立ち上がった。
「今まで気配なんてなかったのに」
とビアンカがつぶやいた。
「なんて数なの」
カイがつぶやいた。
「見て、みんな、楽器を持ってる」
妖精たちはみな大事そうにそれぞれの楽器を抱え、パートごとに集まってきた。
 フルートやオーボエ、ファゴットなどの笛を携えて来た妖精たちは淡い紅色の薄衣をまとっていた。先頭に立つのはベラだった。彼女の胸には春風のフルートが抱えられている。木管楽器の隣に、ホルンやトランペットなどの金管楽器の一団がいた。直線的なデザインの黒い衣やクロヴィスに通じる峻厳な雰囲気から、たぶん冬の妖精たちだとルークは思った。冬の妖精の中には、ルークには名前の分からない、不思議な形の金属製の笛を抱えている妖精もいた。
 木管楽器と金管楽器のグループはそれぞれ十数人で、ルークたちの正面に並んでいる。その隣に白い衣の夏の妖精たちが颯爽と現れた。その数は少数精鋭、4名。先頭の若者があの戦いのドラムを持ち、二人がティンパニを抱えている。最後の一人は鈴のように見えるかわいらしい楽器などをいくつか担当するようだった。
 ルークたちから見て左に打楽器、正面から右に管楽器が並ぶ。それは舞台の縁に沿って弧を描いて並んでいるのだが、その前にアルノーを先頭にした秋の妖精たちがやってきて、内側の弧を描いてみせた。
 秋の妖精たちは青みがかった紫色の衣装をそろって身につけ、かなりの大集団だった。ベラたち春の妖精の倍はいるだろう。バイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスと、大きさごとに分かれて並んでいる。ヴィオラのパートの真ん中にはアルノーがいて、うれしそうに頬を上気させていた。
 花のコロセウムの底、円形舞台の上、中央の眠り姫を囲むように二重の弧ができている。その中から妖精の女王が前に進み出て、ロザリーを見下ろした。
「いにしえの王国の姫君。私たちの心を載せて、森の音色をあなたの夢の中へ届けましょう」
そうつぶやくと、妖精たちのほうへ向かって静かにうなずいた。
 それまで試し吹きや音あわせなどをしていた妖精たちは静まり返り、女王に注目した。それは、派手な動作ではなかった。両手を胸の前であわせて合掌する形である。女王が両手をあわせてまた開いた。その手の間にできた空間に何か輝くものがあった。透明のオーブのように見えた。がそのオーブの中心から煙のようなものがふわりと立ち上がった。女王がその場 からそっとどいてもオーブはその場にとどまった。煙はふわりと空中に立ち上り、やがて風に巻かれたかのようにねじれ、そしてはじけた。
 静まり返ったコロシアムの中にそのとき小鳥の声がした、とルークは思った。ルークの服の袖をぎゅっとカイがつかんだ。
 小鳥ではない。春の妖精たちの間からベラが一歩前に出ている。唇には春風のフルート。翼を開いて輝かしい世界への憧れを歌う小鳥のような調べは、ベラが生み出していた。
 透明のオーブから立ち上る煙は、どうやら指揮者であるらしい。ベラの演奏はその煙の動きを追っていた。
 きらきらと輝く音色が空中へ伸び上がっていく。歯切れ良くとまったかと思うと、信じられないほど長いフレーズを一気に広げてみせる。
 ベラはなかば目を閉じて体をゆすっていた。調べにあわせて噴きあがる喜びに耐え切れないかのように、足はほとんど踊っている。
 他の楽器がフルートを追い始めた。次第に豊かな流れになってベラのフルートにからむ。いくつもの楽器が主旋律を引き受けて歌い出した。
「……」
声にならないためいきをカイがもらした。ルークは衣を握り締める小さな手をそっとたたいた。カイは微笑んでルークを見上げた。
(うれしいのね?)
(うん、これはよろこびなんだ)
父娘は目で会話した。
 世界が生まれた時はこんな感じだったのだろうか。なにものにも汚されていない、まっさらな世界の朝は。とてつもない希望、すべてが造りたての新鮮さ。湧き上がるほどの喜び。
 小鳥の鳴き声が旋律の大河へ流れ込んでいく。そのとき、他の音色が突然現れた。
 びくんとカイがふるえた。
 腕をむき出しにした妖精の若者が、バチをかまえて大きな太鼓をたたき始めたのだ。どん……どん……という音が花のコロセウムに響き渡った。ルークは巨人の足音を連想した。ものすごく大きな重いものが行進してくるような音だった。
 金管楽器が勇壮なメロディを開始した。輝くパイプが大小あわせて10本以上、喨々と旋律を繰り広げていく。それは胸の躍るような音楽だった。
 いつのまにかビアンカとアイルもそばへやってきていた。口を開くことなど思いも寄らない。ルークはビアンカと指をからめあわせた。耳から流れ込む刺激は圧倒的だった。耳と言うよりも、全身全霊が音楽にからめとられ、ともに疾走している。
(単純な喜びじゃないんだ。自信?)
 一歩間違えれば驕り高ぶりにも似た強烈な自負が音楽からあふれ出す。だが、それは快かった。トランペットが無邪気なまでの名誉心を高々と歌い上げていた。
 再び音楽が変わった。秋のアルノーともう一人の妖精が、それぞれヴィオラとバイオリンを手にして物悲しげな旋律を奏でている。ヴィオラが歌い、バイオリンが答える。バイオリンが嘆き、ヴィオラがすすり泣いた。アルノーにはもう、軟弱な優男や道化めいた雰囲気はなかった。真剣な表情で己の楽器と向かい合い、魂のふるえるような調べを導き出していた。
(こんなことって)
ビアンカのほほに透明な涙が流れていくのをルークは見た。
 妖精たちの歴史なんだ、とルークは思った。世界の朝に生まれ、一度は世界を席巻し、そして今、ゆっくりと滅びに向かっている。
 大量の管楽器が一斉に透明な悲しみを歌いだした。秋の妖精たちの中に混じった背の高い婦人が、大きなハープの弦を弾いた。その一音、一音が、妖精たちの涙だった。
(知っているんだね)
(そうね)
(滅びるんだ)
(ええ、人間たちを置いて、行ってしまうんだわ)
あふれていく悲しみに打楽器が抵抗を試みる。だがすぐに途絶えて嘆きの調べに道を譲った。
(怒ってないのね。受け入れてるんだわ)
(あきらめてる?そうなのか?)
あやうく自己憐憫のどす黒さに染まりそうで染まらないぎりぎりの縁をメロディは漂っている。
 冬の妖精の一人が立ち上がり、青いホルンを唇にあてがった。柔らかな調べが湧き上がった。それは、花のコロセウム全体に響き渡った。帰ろう、とそれは呼びかけていた。エルフの民が生まれたところ、始原の地、人の世から離れて遠くにあるその生誕の地へ帰ろう、と。
 管楽器のトーンが変化した。ホルンにつられたように、哀しみの調べに何か違ったものが入り込む。
(これは希望なの?)
(彼らは、貴重でかけがえのないものを思い出したんだ。これは、そうだ……)
何種類もの楽器が同じメロディを繰り返している。ルークはその音が呼び覚ます感情にやっと名づけることができた。それは、「望郷」だった。
 家へ帰りたい。矢も盾もたまらぬほどの激しい憧れだった。
(行ってしまうんだ)
(世界と世界の狭間へ)
(ああ)
 そのとき、視界の隅で黒いものが動いた。ルークたちはいっしょにふりむいた。動いたのはピサロの黒いマントだった。
 音楽が始まって以来、ピサロは黙って背後に立っていたのだった。その彼がロザリーのほうへ動いている。
 魔族にはどうなのだろう、とルークはふと思った。彼らもまた滅びに向かう種族なのだろうか。魔界と言う隔絶された領土を持っていても、次第に数を減らし、人間の記憶からも薄れ、滅亡するのが運命なのだろうか。長い銀の髪に横顔が隠れ、彼の感情は読めなかった。