ジャハンナへの道 5.大水車の町

 カイが花のようだと言った部分は、リボンのような細い通路の終点の上にある大きな岩だった。その上に町があるようだった。
 下を眺めると満々と水をたたえた湖が見えた。大岩の都市の真下、海面から立ち上がる垂直の柱のてっぺんは、聖水の水盤のようになっているのだった。
そのためか、町に近づくにつれて濃密な魔界の邪気が少しづつ薄れていくような気がした。
 大岩の都市の入り口の急な上り坂をあがりきると、目の前に巨大なものが見えてきた。
「何か回ってるよ。水車?」
アイルが目ざとく見つけてそう言った。うむ、とスライムナイトのピエールがうなづいた。
「聖水を町の周囲に流す仕組みであろう」
「すごいや、どうやるんだろう、ね、ピエール?」
「下の湖から水車で聖水をくみ上げ、周囲の濠に循環させてから再び下へ流すと見た」
ビアンカとカイは馬車の中にいる。今はアイルのほかは、ルーク、ピエール、そしてピサロというフロントメンバーだった。
「スライムナイトよ」
とピサロは言った。
「奇怪なこともあるものだ。あの水車の動力を、なんと見る」
むむ、とピエールはうなった。
「風の力で回しているにしては強力すぎるである。人力を使う以外に手は考えられないである」
「一刻も休まずに力の限り回し続けるか。この町は奴隷を使役しているのかもしれんな」
当たり前のようにピサロが言う。だが、ルークが眉をひそめた。
「母さんの作った町でそんなことが……」
 あがりきったところは、小さな広場のようになっていた。町の門にあたるのは、大きな岩のアーチである。その向こうに聖水の濠と橋が見えていた。町につきもののざわめきがここからでも聞こえてきた。
「さあ、安いよ、安いよ!」
「今日あたり、ひと雨来るかねえ」
「くそっ、誰だこんなものおきっぱなしにしたのは!」
アイルはふうん、と思った。なんだか、普通の町みたい。故郷、グランバニアの町並みをアイルは思い出した。
広場の隅に、小さなスライムがいた。その横に、人間の少年が一人。
「お父さん、魔界の町に子供がいるよ」
とアイルが言った。
その声が聞こえたかのように、男の子はたったっと元気よくやってきた。
「こんちわ!」
だぶだぶの青いズボンをはいた子供で、目が大きく、くりくりしている。
「こんにちは。きみ、この町の子?」
「そうだよ。ね、まさか、オモテの世界から来たの?」
アイルは父の顔を見た。
「人間の世界のことをそう言ってるらしいね」
アイルは、その子にうなずいてみせた。
「うん、ぼくたち別の世界から来たんだ」
「じゃ、マーサ様を知ってる?」
アイルは目を見張った。
「ぼくのおばあちゃんだよ!」
ルークが一歩前に出た。
「君はエルヘブンのマーサを知っているのかい?彼女はどこにいるんだ?」
男の子は首を振った。
「ぼくは、マーサ様のお力で人間になれたんだ。でも、マーサ様は行っちゃった」
「どこへ」
「わかんない」
そうか、とルークはつぶやいた。
「あの、きみ、人間になる前は、何だったの?」
アイルがおずおずと聞いたが、こともなげに男の子は答えた。
「スライムだよ。友だちのスラタロウ君も、早く人間になれるといいなと思ってるんだ」
全員の視線を浴びて、隣にいたスライムは溶け出したいような顔になった。
「信じられない。魔物が人間になるなんて」
アイルは傍らにいたピサロを見上げた。
「ねえ?」
ピサロは首を振った。
「人間になったホイミスライムがいたという話は聞いたことがあるが。本当だとは思わなかった」
ぴょん、とピエールが前に出た。
「その話なら、スライムナイトの一族も知っている」
とピエールは言った。
「人間の戦士とともに旅に出て、人間になりたいと願っているうちに、やがて願いがかなった、という」
「へえ」
とアイルは言った。
「そのころも、マーサおばあさまみたいな人がいたのかな」
「かもしれぬ」
「ピエールは、人間になりたいと思う?」
誇り高きスライムナイトは首を振った。
「まっぴらごめんこうむる!」
「なんで」
ピエールは、自分のスライムを惚れ惚れと眺めた。
「二本の脚で歩くなど、騎士にふさわしくないである」
 岩のアーチをくぐったところは町の目抜き通りのようで、両側には店や家が立ち並ぶ、大きな通りだった。人々が往来し、時折立ち止まって話をしている。物売りの呼び声や、手押し車を押し合って道を争う風景など、アイルの眼にはありふれたものだった。
 空は嵐の前のような不穏な曇り空に見えた。それでも魔界の荒野に比べるとずいぶん明るく雷鳴は聞こえない。空気もさわやかに感じる。もちろん町の中から見上げるとまがまがしい暗黒の山が視界に入るのだが、視線をさげるとそこにあるのは、ごくあたりまえの、人間の町だった。
 一行は、大半が馬車から出て、辺りを見回しながら歩いた。しばらくは人ごみに流されるようにして町の中を進んでいった。
 メインストリートの終点は市場のようだった。ひときわ大きな店が立ち並ぶ広場である。一角には教会まであった。
「わあ!」
市場の真ん中に立って上を見上げると、あの水車が一段と大きく、視界一杯にせまっていた。
「どいてくれんかね!」
うしろからそういわれて、アイルはあわてて横へ寄った。
「ごめんなさい!」
手押し車に細長い木箱を積んだ商人がせかせかと歩いていく。
「あれ、剣だね」
とルークが言った。ピエールがうなずいた。
「うむ。しかも、一振り一振りがけっこうな品のようである。でなければあのような木箱を用意すまい。ルーク、武器屋へ立ち寄るのはどうだ」
アイルはくすっと笑った。ピエールは、新しい町に立ち寄ると、武器屋をのぞいてみずにはいられないいっぱしの“武器マニア”だった。
「うん、いいね。でも、パトリシアと馬車を連れたままじゃ、市場のご迷惑みたいだ。どこかでまず、休もう」

 市場から少しはなれたところに宿屋があった。ルークたちがチェックインをしようとしているとき、ピサロは話を切り出した。
「ここまでだな」
「はい?」
宿屋のフロントのカウンターの上に片手をついてピサロはルークのほうを見た。
「町へ入るまで同行すると言ったはずだ。ここからは、私は一人で動く」
ルークよりも早く、アイルとカイがえーっと声を上げた。
「ピサロ、どこか行っちゃうの?」
「どうして?いっしょに行きましょうよ。同じ町にいるのに」
ピサロは憮然とした。
「おまえたちはエルヘブンの女を捜しているのだろう。私の探し物はまた別なのだ」
「だって!」
アイルたちは駆け寄って、ぎゅ、とピサロの服を握り締めた。
「おい、父親!なんとかしろ」
ルークもしょんぼりしていた。
「ぼくも同じ気持ちです」
「あのな」
くすくすとビアンカが笑っていた。
「困ってるみたいね、魔王様」
ピサロはじろりと彼女をにらんだが、魔王にしては下出に出た。
「ビアンカ……助けろ」
はいはい、と彼女はいい、ぱんぱんと手をたたいた。
「アイル、カイ、ピサロさんから離れなさい」
アイルたちは訴える目で見上げた。
「ピサロも、ここでお別れとか言わないで。二手に別れて探せばいいわ。パーティの半分がマーサ様の情報を聞きまわって、残りがあなたの探し物を手伝うわ。聞き込みは人数が多いほうがいいでしょ?」
アイルはぎぅぅとピサロの上着を握り締めた。ルークもすがるような目つきをしている。
「わかった、わかったから離せ」
「わ!」
うれしくてにこにこしているアイルたち父子を、ピサロはあきれたような顔で眺めた。
「何がおもしろいのだ、おまえたちは」
「ピサロといっしょだもん」
「何度も言うが、私は魔族を束ねるものだ。なつくな」
「だってピサロはいい人でしょ?」
沽券にかかわる、とピサロは思った。
「よいか、私がその気になれば、あの水車などすぐに粉々になる。そうすればこの町は聖水の守りを失い、私の兵たちが勝手に蹂躙できるのだぞ」
ルークも小さな勇者もとまどった顔をするばかりだったが、カイだけはじっとピサロを見上げた。
「わかったのか?」
「いいのよ、ピサロ」
「水車を破壊してもいいのか」
「違うわ」
少女は真顔で魔王を見上げた。
「そんなことして気を引かなくたっていいの。あたし、ちゃんとピサロのこと好きだから。ね?」
ピサロは開いた口がふさがらなかった。アイルもひとつうなずいて見せた。
「ぼくもだよ。だから明日は、いっしょに町へ行こうね」
隣でルークがなんとなくうれしそうにしていた。
「うちのカイは最強だなっ、ね、ビアンカ」
ビアンカは胸を張った。
「あたしの娘ですもん」
「……勝手にしろ!」
ピサロは手荒く荷物をひっつかむとどすどすと宿の中へ入っていった。

 宿の女中は、二階の客室へ一行を案内してくれた。
「こちらから突き当りまでのお部屋をご自由にお使いください」
グランバニア一家、ピサロ、それにピエールやプックルなどが加わっての大所帯である。部屋はみっつほど取ることになった。
「あ、それから」
女中が振り向いた。
「あちらのお部屋のお客様は、ずっと具合がよくないんです。前を通るときはお静かにしていただけますとありがたいのですが」
ビアンカはまじめにうなずいた。
「はい、子供たちに言ってきかせます」
「おそれいります」
女中は会釈して問題の部屋の方を見た。
「病人さんは魔界の人じゃないんですよ。オモテの世界のさらに上の方から来られたお方なんですが、ひどいお怪我でねえ。ジャハンナへたどりついたからよかったものの、そうでなかったら命にかかわるところでしたよ」
「オモテの世界の上って、まさか、天空人なの?」
女中はあっさりとうなずいた。
「あの、天空城に住む人は、背中に羽根を持っているんでしょう?ぼろぼろに傷ついてますけど、あれ、羽毛だと思うんですよ」
「おい」
ピサロだった。真剣な顔をしていた。
「その天空人が迷い込んできたのは、いつごろだ」
「10年位前かしら」
答えを待たずにピサロは女中の脇をすり抜けて、天空人の部屋へ向かった。
「ピサロ、待って、手荒なことは」
大またに歩きながらピサロは答えた。
「その男が、私の探している盗人かもしれないのだ!」
遠慮なく扉を開け放った。清潔だがやや手狭な客室の寝台に、寝ている人影があった。年配の男性だが、戦士と言うには線が細く、学者めいた雰囲気だった。
「これは、ひどいわ」
あとから部屋に入ったビアンカは、思わずつぶやいた。左半身、顔の半分がひどく傷ついている。そして寝台のはしから見えているのは、まぎれもなく白い翼の、残骸だった。
「誰か、いるのか」
かすれた声で天空人はささやいた。
「ごめんなさい」
とビアンカは言った。
「旅の者です」
その声を聞いたとき、天空人は弱弱しく身じろぎした。
「きみは……、天空城から来たのかっ」
ビアンカは答えに迷った。この学者風の男は、ビアンカの血に流れる天空の血脈を声で感じ取ったのだろうか。
「もしそうなら、マスタードラゴン様にお伝えしてくれ。魔王ミルドラースの力が日に日に強くなっております……」
必死につむぐ言葉が痛々しかった。ビアンカはあわてて男のそばへ寄った。
「このままでは、いずれ、表の世界へ大魔王が出てきてしまいます、どうか、どうか……」
懇願は力なく口の中で消え、男はぐったりと力を抜いた。体力を使いすぎたようだった。ビアンカは彼の体にかけ布を引き上げてやった。
「やめてよ、ピサロ?」
そう念を押してビアンカは振り向いた。
「この人を手にかけたら、許さない」
後から部屋に入ってきたルーク、子供たち、モンスターの仲間たちが息を飲むのがわかった。一人、ピサロだけは冷静だった。
「誰に向かって口をきいている」
冷たく言い放った。一瞬、ビアンカとピサロはにらみあった。
いきなりピサロはきびすを返した。
「あ、あの、見逃してくれるの」
振り向きもせずにピサロは言った。
「見逃すも何も、その男は無関係だ」
「え」
「探している盗賊は、仮にも私の城で盗みを働いたのだ。この死にぞこないにできる仕事ではない」
言い捨てて部屋を出て行った。ビアンカは今頃どっと、冷や汗を感じていた。
「よかったね、ビアンカ」
ルークが言った。ビアンカはなんとか笑ってみせると、傷ついた天空人のほうへ振り向いた。
「待っててね。必ずあなたをマスタードラゴンのところへ連れて帰ってあげるわ」