ジャハンナへの道 4.「地獄の帝王」

 王子と王女は、岩場にしゃがみこんで何か見つけたようだった。きゃっきゃっという無邪気な声がひっきりなしに聞こえてくる。ふわ、とプックルが猫族特有のあくびをして、前足の上に頭を載せた。
 そのときだった。ピサロの聴覚が、異常を捕らえた。
「おまえたちっ」
ピサロの声に、小さな勇者が顔を上げた。
「え、なに?」
「伏せろ!」
叫んでピサロは飛び出した。
 低い姿勢のまま片手を岩場につき、空中から飛来してきたものをブーツで蹴り飛ばした。明るい緑色の体液が岩に飛び散った。
 ブン、とうなりをあげて、それは再び襲い掛かってきた。翼を持つ赤紫色の類人猿型モンスター、バズズである。醜い口からよだれをたらしながら、バズズは大きく伸び上がり、真っ赤なカギ爪をむきだしにしてつかみかかってきた。
 ピサロの腰に、剣はない。草地の上に置いたままだった。やむをえず腰を落とし正拳をバズズの腹へぶちこんだ。ぐぅえ!とおめき、大猿はたおれこんだ。腹を抱えて苦しんでいる。
「早く、こちらへ!」
子供たちは心得たようすでピサロの方へ走ってきた。
 だが、森の向こうからさらに飛来する影があった。バズズ数頭に加え、青い羽毛の猛禽が群れを成して接近してくる。ホークブリザードだった。
「あいつら、ザラキ使うよ!」
背後でアイルが叫んだ。鞘から剣が滑り出す音がした。子供たちと、そしてその後ろからプックルが戦列に加わったようだった。
「数が多いわ!」
少女がつぶやき、詠唱に入った。
「イオナズンか。よい選択だ」
カイは一心不乱に複雑な呪文を構築している。この年齢にしてはたいした使い手だった。
「来るぞ」

 血相を変えたルークが必死で走っていく。ビアンカも負けじと後を追った。
「今の、イオナズンだわ!」
ルークがうめいた。
「なんてことだ……カイ!」
食糧を集めるために、子供たちだけ残していたのだった。だが、異常な物音やモンスターの悲鳴、剣のぶつかる音などが聞こえてくる。エンカウントがあったにまちがいない。
「あそこだっ」
ルークが叫んで、ドラゴンの杖を高くかまえた。
 そのときだった。背の高い人影がモンスターの群れの中へ飛び込んだ。いきなりふところまで接近されて、大猿がきょとんとする。その顔面めがけて、膝蹴りが炸裂した。バズズの頭を踏み台にして飛び上がり、回し蹴りを放つ。金属的な光沢の青い羽毛がいっぱいに飛び散った。ホークブリザードが数羽、地べたに転がった。
「ピサロ!」
一瞬、子供たちに危険が迫っていることすら、ビアンカは忘れた。それは武術というより、華麗な舞踏のようだった。
 銀の髪が長くなびく。そのたびにバズズが血反吐を吐き、ホークブリザードが叩き落された。
「あの人、丸腰であんなに強いんだわ……」
最後の一頭が逃げ腰になった。ルークなら、こういうときには武器を引いて、わざと見逃してやるのだが、ピサロは冷たく笑い、利き手の二指をそろえて先端をつきつけた。あまりの速さに詠唱を確認できない。青い光が一閃したかと思うと大猿は魔力の炎に燃え上がり、苦悶の表情を浮かべてすぐに焼き尽くされた。
「すごい」
ルークがうなった。
「お父さん、お母さん!」
子供たちが武器を手に走ってきた。
「大丈夫だった!?」
ビアンカは両手を広げて二人を抱きしめた。
「平気!ピサロがいてくれたから」
ビアンカは何も言わずにただぎゅっと腕に力をこめた。
「ありがとう、ピサロ」
ルークが言っていた。
「プックルもね。やっぱりこのあたりは、油断できないな」
「そうでもない」
とピサロは言って、草地の上から剣を取り上げようとした。が、さきほどホークブリザードの吐く息を浴びたのだろう。完全に凍結して、柄をつかんだとたん、砕け散った。ピサロは軽く首を振った。
「なかなか使うようだな。おまえの子供たちは」
ビアンカの腕の中から子供たちが出てきて、小走りにピサロの両側にまわった。
「ぼくたち、強い?」
「まあまあだ」
「ピサロ、手、つないで?」
「私は子守ではないぞ」
だがカイが自分の指をピサロの手にすべりこませると、ためいきまじりに軽く握ってくれた。
「なついてるみたいだね」
ルークがうれしそうに言う。ビアンカはちょっとくびをかしげた。
「そんなことって、あるものなのね」
「彼が、子供たちの命を助けてくれたこと?」
「ううん、魔王様があんなに子守が上手だってことよ」

 荒野は突然に途切れ、巨大な大穴となっていた。はるか何千丈の穴の底には紫色の海があるが、そこから湧き上がる白いもやのせいでほとんど水面は見えない。ルーク一行は、壮大な円筒型空洞の縁に立っているのだった。
 道は続いている。支えるものもない細い橋となって、円筒状の穴の上を横断している。橋は他にもあり、それは上となり下となりからみあって、巨大なリボンのように見えた。
「あれは、お花?」
カイが言った。
 空洞の中央に、細長い柱とも岩山とも見えるものが海面から垂直に立ちあがっている。それが茎だとしたら、頂点にはたしかにほころびかけた花の蕾のように膨らんだ部分があった。遠くから見たとき、山に見えたのはその部分だったらしい。
「町だ」
とピサロが言った。
「不思議なところにあるのね」
カイはあれからときどき、ピサロのそばによりそって、手を繋いでもらっている。アイルがやっかみ半分に“コリンズ君に言うからねっ”とおどしても、少女は離れようとしなかった。
「だって、ピサロはとても綺麗だもの」
アイルはそんなとき、反対側にくっついて離れない。魔王の周辺は常ににぎやかだった。
一番前を行くルークが声をかけた。
「ここからは、一列で行こう」
リボン状の空中回廊は細く、馬車一台がかろうじて進めるくらいの幅だった。
「いい子だね、パトリシア。ゆっくり進むよ。車輪をはずしたら大変だから」
一行は空中へと足を踏み出した。ビアンカは、思わず足元に視線を落とした。ブーツが踏みしめるのは細い道だったが、支えは何一つなく、はるか下には魔界の海が広がっている。気が遠くなりそうなほど高いところにいるのだった。強い突風が横から吹きつけた。思わず足がすくんでしまった。
「落ちたら、おぼれ死んじゃうわよね」
激しい恐怖を冗談にしようとビアンカは言ってみた。ピサロが答えた。
「あれは魔界の海だ。おぼれるよりも前に、おまえの体が溶け出すだろう」
「……そういうものなの?」
「あれは、魔族の命を生み出した物質でできているのだ。天空の血とは相反するもの」
先頭のルークが、ふりむいた。
「あの、ピサロ?」
「なんだ」
「魔物の命は、人間よりもよほどいろいろな形をしているでしょう。でも、元はあの海から生まれたのかな」
ピサロはしばらく考えていたが、ぽつりぽつりと説明し始めた。
「魔族の標準で言ってさえ長い、気の遠くなるような時間をかけて、少しづつあの海は生き物を生み出してきた。もっとも、それは天界の竜の計画には入っていないことだったらしい。魔界の命は誰にも顧みられず、それでも着々と進化し続けてきた。その中で力のある者が突出し、魔界に覇を唱えると、神竜は使いを送りこんで傘下に従えようとした」
「マスタードラゴンのことですね。あの方は“世界を見守るもの”だから」
「見守られる方にも選ぶ権利はあるのでな」
にべもなくピサロは言った。
「魔界の生命体のいくつかは、天の竜に抗い、自分たちの中に王を立てた。マスタードラゴンの覇権を認めないということは、自然に己を、天界に対して魔界の長とすることを意味する」
挑むようにピサロは天を見上げた。
「己のほかに恃むものなく、永遠に孤高の光を放つもの。昇る太陽に抗って、最後まで夜空に輝く、明けの明星、ルシファー。すなわち、魔王」
彼の横顔は、息を呑むほど美しかった。
「そうだ。魔界に現れた最初の魔王こそ、自ら『地獄の帝王』と号したエスターク様だった」
「エス……」
アルカパで聞いた話をルークは思い出した。
「しかし、それは」
「何か知っているのか」
ルークは首を振った。
「いえ。完全な名前も今わかったくらいです。でも、その人は勇者に倒されたと聞きました」
「それはかなり後のことだ。当時、神竜と覇を争う必要上、エスターク様は力を求めた。そして……」
ピサロは小さくうつむいた。
「狂われたのだ」
「なぜ!」
「詳細は言えない。あの狂気は恐ろしいものだ。確かに攻撃力は激増するが、記憶も知性もすべて失い、底なしの闘争心と凶暴な怒りに支配される。エスターク様は一度は天竜によって封印されてしまった」
ピサロは立ち止まり、なぜかじっと、地平線にそびえる暗黒の山のほうへ視線を注いだ。
「だが、時は移り、エスターク様を再び蘇らせようとする運動が起こった。その中心にあったのは、私の祖父にあたる者だった」
ピサロは首を振った。
「祖父は知らなかったのだろう、帝王の狂気のありさまを。私は祖父の非願を継いでエスターク様の再生を目指した。が、勇者たちが阻止したために、結局それはかなわなかった。おまえが聞いたのはそのときの話だろう」
ヒョオヒョオと風が鳴り、はるか足元で波濤の砕ける音が繰り返し響いていた。
小さな声でルークは話しかけた。
「そのエスタークと言う人は、今は?」
「魔界の溶岩の海に憩っておられる。誰にも手の届かぬところにおいでだ」
「ねえ」
とアイルは言った。
「その人、もう元に戻れないの?かわいそうだよ」
ピサロはつぶやいた。
「あの状態から元に戻ることができたのは、天地開闢以来、一人だけだ」