ジャハンナへの道 2.荒野の旅

 テントに一歩入って、ビアンカは立ちすくんだ。
 大事な子供たちはテントの中で眠っている。藁束を伸べ、粗末な布を敷いただけの寝床に二人、向かい合うようにして横たわり、マントを上掛けにして、すやすやと寝息をたてていた。
 小さな薔薇色のほほの上に落ちてきそうなものがあった。長い銀色の髪である。いつのまにかテントの中に一人の男が入り込み、子供たちの上にかがみ込んでその寝顔をじっと見ていたのだった。
「あなたは」
それは、ピサロと名乗ったあの男だった。顔も上げずにピサロは言った。
「危害を加えるつもりはない」
ビアンカは最初の驚きから立ち直った。
「そのくらい、わかったわ。母親ですもの」
聞いているのかいないのか、ピサロは身じろぎもせず、じっとアイルの寝顔を見守っていた。
 先日彼と出くわした場所から、パーティはかなり移動している。あの魔の山をめざしているのだが、進んでも進んでも同じ風景を見るばかり、いっこうに近くならないのだった。
 今日のピサロは翼をもたず、軍団を引き連れてもいない。何をしに来たのか、ビアンカは判断に困った。
「あの、ピサロ?」
「なんだ」
「盗まれたものっていうのは、見つかったの?」
「いや」
「そう。もし忙しくないのなら、焚き火へ来ない?少し話をしたいの」
ピサロはゆっくりと体を起こした。
「人間の女の気まぐれにはだいぶ慣れたつもりだが……そなた、魔王に何の用がある」
「魔界は初めてですもの。いろいろと知りたいわ。それにルークがあなたと話してみたいって言ってた。こっちよ?どうぞ」
 意外なことに、ピサロはビアンカについてテントから出てきた。馬車で風を避け、テントの出入り口を護るようなところに、火を焚いて、ルークとプックルがすわっていた。ルークはピサロを見ると目を丸くしたが、すぐに声をかけた。
「こんばんは」
何も言わずにピサロは焚き火のそばに腰をおろした。魔界の荒野にただひとつの焚き火は小さく揺らぎ、美しい魔王の表情に陰影を加えた。ビアンカはピサロの正面にすわった。
「おまえは、純粋の天空人ではないようだな。ハーフか」
「ビアンカよ。あたしは、自分の産みの親のことは何も知らないの。拾われっこなのよ。天空人の血が流れている、って言われたけど、ハーフほど濃い血だとは思えないわ。遠い祖先かもしれない」
ピサロはふいにルークのほうを向いた。
「おまえが、夫か?」
ルークはちょっと照れくさそうに笑い、うなずいた。
「そして、あの子供らか。そうだな、ビアンカとやら。天空人の血は、おまえの中に細々と残っているだけらしい」
「ごめんなさいね、純血種でもハーフでもなくて」
ピサロは首を振った。
「天空人に近いほうが、苦しむことも多い」
ぱち、と音を立てて火の粉がはじけた。
「あたしはもともと、自分のことをずっと人間だと思ってきたもの。だから天空城へはじめて入ったとき、不思議な気がしたわ」
ルークが声をかけた。
「どんな感じ?なつかしい?」
「そう、それ!変でしょ?ルークも?」
「実はそうなんだ。始めて見たときは水浸しで人っ子一人いなかったけど」
「ちょっと待て」
ピサロが言った。
「何の話だ」
「ああ、ごめん。天空城のことなんだ。二つあるオーブのうちのひとつが落ちてしまったために、天空城が湖の底に墜落してしまって」
「ここにいるルークと子供たちが浮上させたのよ」
ピサロの表情が変わった。
「天空人たちは死んだのか?」
「いや、眠っていた。眠りながら浮上のときを待っていた、みたいな感じだった」
ピサロはしばらく無言だった。
「天空人のなかに、緑色の髪の若者は、いたか」
ルークとビアンカは顔を見合わせた。
「さあ。いなかったと思う」
「知り合い?」
ピサロは答えず、さらに確認してきた。
「おまえよりやや若く、あの子供よりは年上に見えるはずだ。髪は翡翠色、瞳は紫だった」
ルークは首を振った。
「いや、いなかった」
「そうか」
ピサロは沈痛な表情になった。
「その人は、友達?」
ピサロは苦笑した。
「勇者だ。おまえたちの子の、一代前の勇者だ」
「じゃ、あなたとは、敵同士のはずだ!」
「そうだ。あれとは、刃を交えたことがある。だが、全てが終わったあと、私は魔界に立ち戻った。あの若者は、天空城で暮らしているとばかり思っていたのだが」
「大昔のことでしょう?」
「天空人の寿命は長いのだ」
片手でピサロは額を支えた。
「あれは、天空ハーフだった。人間界では長く生きられない体だと聞いた。そして魔界に現れたようすもない。ならば、天界にいるはず、と思ったのに」
ビアンカは驚愕していた。魔王は哀しんでいるように見えた。
「だが、次の代の勇者が現に、いる。あれがいつも装備していた天空のかぶとを身につけて。ならば、あれは、もう」
ルークにもビアンカにも、かける言葉が無かった。
すっとピサロは立ち上がった。
「邪魔をした」
そのまま、去っていこうとした。
「待って、ピサロ!」
ルークはその背に向かって声をかけた。
「こんなふうに別れたくない。もう一度、来て下さい」
ピサロは首だけ、振り向けた。
「魔王を招くか。酔狂なことだ」
「僕たちの旅に、いっしょに来てくれませんか」
「なに?」
天性の魔物使いは武器を持たないまま、ただじっとその場に立ってピサロを見つめた。
 ビアンカは手をそっとグリンガムの鞭のほうへ伸ばした。魔に属する生き物に及ぼすルークの力は知っているが、相手は魔王。他のモンスターとは、格が違う。ルークの誘いを無礼と受け取ってピサロが攻撃してきたら、自分が割って入るつもりだった。
 息の詰まるような一瞬の後、ふいにピサロはつぶやいた。
「この私が、簡単になびくと思うなよ?」
鮮やかな白銀の残像を残して、ピサロは闇に溶けていった。
ふうっとビアンカは息を吐いた。
「ルーク……率直過ぎるんじゃない?」
「でも、言ってみないとわからないじゃないか?」
「けど、断られちゃったわね」
ルークはがくんと肩を落とした。
「あんなこと言われたの、初めてだ」
魔物使いのプライドが傷ついているらしい。
「また来てくれないかな」
「まだ口説くつもりなの?」
冗談で言ったのだが、うんっとルークはうなずいた。
「あんまりしつこいと嫌われるわよ?」
ビアンカはあきれてつぶやいた。

 それを見つけてきたのは、プックルだった。りんごほどの大きさの実で栗のようにイガに覆われている。この実をつけた木はあちこちにあるのだが、頭上から落ちてあたるとダメージを負いそうなので、最初は近寄らないようにしていた。
 が、プックルが、たまたま地に落ちて割れた実をビアンカのところへくわえてきた。イガの裂け目からうまい果汁がこぼれだし、やわらかい果肉が見えていた。
「やったわ!」
その夜は、ひさしぶりにたっぷりと果汁を飲み、おなかいっぱい果肉を食べることができた。
 そのせいでもないだろうが、翌日からときどき上空に渦巻く瘴気がわずかにうすれるようになった。空はあいかわらず暗く、雷鳴轟く不穏なようすなのだが、天の一角から太陽ではない、なにか不思議な光源が大地を照らす。黒雲の裂け目から魔界の大地と海原へ光が柱のように注ぐ眺めは、不毛で、邪悪で、奇怪で、そして胸を打つほど美しかった。
 ある日、パーティはそんな不思議な空の下をすすみ、道の分岐しているところに行き当たった。
 場所は相変わらず、荒野のど真ん中だった。分かれ道の片方は、荒れ果てた大地の上をはるかな岩山の方へ向かっている。石ころだらけであの栗のような果実のとれる木さえめったに生えていない道だった。
 もうひとつは、幅の広い街道になっている。行く先にはうっそうとした森が見えその木々の彼方にあの巨大な山がそびえていた。
ルークたちは馬車を停めて考え込んだ。
「どうしようか」
長い経験から、どんなに見込みのなさそうな細い道でもたどってみる価値がある、ということはわかっている。だが、食糧の心細さや攻撃してくるモンスターの強さなどから、悠長にしていられないことも身にしみていた。
「こっちの道にしよう」
ルークは街道の方を指した。
「ほら、この分かれ道に立つと、あの山が正面に見えるだろう?」
「まっすぐ続いているなら、こっちのほうがいいわね」
ビアンカがそう言ったときだった。低い声が異を唱えた。
「私は反対だ」
驚いて振り向いた。 雲の裂け目から荒野へとスポットライトのように光が降ってくる。その光の中へ銀の髪の魔王が騎獣を乗り入れてきた。
 戦闘用なのだろうか、ごつい馬鎧のようなものをつけたライバーンロードに彼は騎乗している。背後に似たような装備の翼竜が何頭かいて、それぞれに武将を乗せていた。
「ピサロ……!」
魔王は片手の甲で長い髪をすくい、首の後ろへまわした。
「この道は、途中で断崖絶壁となってとぎれている。それに対して」
ピサロは岩山の方を指差した。
「あちらの山の上には、町があるぞ」
「なんだって?!」
ルークは思わず、岩山の上をふりあおいだ。ピサロは肩をすくめた。
「信じるも信じないも、おまえたちの勝手だ。邪魔したな」
行くぞ、と部下たちに命じた。
「待って、ピサロ」
ルークが叫んだ。
「あなたはどこへ行くんですか」
魔王に従う武将の一人がぴく、と眉を動かした。
「呼び捨てにするでない、無礼者が」
「かまうな」
と当のピサロが言った。
「私が許した」
「しかし殿下」
ピサロはかるくあごを動かした。
「見ろ」
武将たちは視線をさまよわせ、やがてアイルに目を留めた。
「まさか!」
「勇者だ。天空の」
驚嘆のつぶやきが武将たちの間に広がった。
「あのう、ぼく」
視線を浴びせられて居心地悪そうにアイルがもじもじした。
「気にするな。私の部下たちだ。アンドレアル、ヘルバトラー、ギガデーモン。そして、ピサロナイト」
一人ひとり、小さく会釈を送ってくる。
「みな、先代の勇者を知っているのだ」
「あ……」
かえって恥ずかしそうにアイルは立ちすくんだ。
こほ、とルークは咳払いをした。
「町のことを話してましたね。そこへ行くんですか?」
ふん、とピサロはつぶやいた。
「私たちはこのところ、ずっと山狩りを行っていたのだが、成果がなかった。残るはいくつかの拠点のみだ。その最大のものが、あの町なのだ」
「そのことですが」
アンドレアルと呼ばれた男が言った。
「やはり大軍をもって一斉に捜索すべきではないでしょうか」
色白の青年武将である。だが、耳の部分が、アイルの装備している天空のかぶとの羽の装飾のように皮革質の翼の形になっていた。ドラゴン、とルークは直感した。