ジャハンナへの道 1.魔王登場

 暗黒世界の中央に巨大な山が屹立していた。裾野を取り巻くのは、暗く濃密な黒雲である。中に時おり、稲妻が走った。
 小さな王女の手が、父の衣をぎゅ、とつかんだ。
「これが、魔界なのね」
海の神殿の中にある扉を抜けた先は高い岸壁の突端だった。馬車を背にして家族は、声もなく魔界の風景に見入っていた。王子は身震いした。
「おばあさまが、ここにいるんだ」
 岸壁の下は、波頭だけが白く泡立つ紫色の海だった。水平線の上まで暗く雲が垂れ込めている。風が鋭い。馬車を引くパトリシアの背を、ビアンカはなだめるようにそっとたたいた。だが、彼女の視線は魔の山に吸い寄せられて動かなかった。
「きっと手がかりは、あるわ」
岸壁はゆるいくだり坂となっている。視界中央にどっしりと立ちはだかる山岳の手前には荒野が広がっていた。ところどころに森が見えるが、木はどれも見たことのない奇怪な形をしていた。
 とん、と杖の先を大地について、ルークは魔界を一望した。猛るでもなく、おびえるでもなく、彼は踏破すべき大地を目測している。そして、静かに告げた。
「行こう、みんな!」
変わらぬ勇気が、パーティを支えている。子供たちの顔に生気が戻ってきた。子供たちにビアンカは優しく微笑みかけた。静かな決意がみなぎってきた。
 そのときだった。ルークの表情が険しくなった。
「何か、来る」
ビアンカは押し殺した声で言った。
「アイル、カイ、馬車の中に入って」
「お母さん!」
「ようすがわかるまで、出てほしくないの。いいわね?」
あわただしく子供たちを馬車に押し込むと、ビアンカは鞭を手にしてゆだんなく身構えた。
「来るよ、ビアンカ」
押し殺した声でルークが告げた。子供たちと入れ替わりに、キラーパンサーが馬車から音もなく滑り出し、主人の隣に位置を占めた。そのあとにスライムナイトが続く。すでに抜刀していた。
「さすがは魔界である。殺気が違う。ビアンカ殿、油断してくださるな」
「わかったわ」
それは、遠目には集団で移動する動物の大群のように見えた。ただでさえ暗い、不穏な地平を、さらに黒々と染めて大群は接近してくる。
「大きい!」
ルークがつぶやいた。巨大な馬の体に人の上半身をもった怪物が、鎧をまとい、大槍を構えて続々と進軍してくる。一糸乱れぬ統制は、彼らがただの群れではなく、組織だった軍隊であることを示していた。
 ケンタウロス軍の後ろから、地響きをたてて巨人型モンスターがやってきた。その隙間を縫うように、鋭い爪と牙を持つ大型猫族が足並みをそろえてくる。そして屈強な竜人族の一群が、二足歩行し、手に巨大な棍棒を抱えて両脇を固めていた。
 ビアンカの額に冷汗が浮かんだ。
「グリンガムの鞭でどこまでいけるかしら…」
ドラゴンの杖を握りなおして、ルークはじっとモンスター軍団と向き合った。
「少し待ってて。まず、ぼくが話してみるよ」
 わざとゆっくりと呼吸すると、ルークは杖を片手に進み出た。パワー系モンスターの大軍は、ぴたりと足をとめて半円形に展開した。円の中心にはパーティ、その後ろは、小さな祠以外は海だった。
 巨大な翼が風を切る音がした。ルークは視線を上げた。黒い翼を広げて、人型の魔族が舞い降りてくるところだった。
 ケンタウロスや巨人にくらべるとほっそりした姿だった。だが、強大な怪物の一軍を率いているのがこの魔族であることは明白だった。恐れ敬う態度でひざまづく怪物たちの前に、その魔族は黒い衣に身を包み、美しい黒鳥の翼をゆっくりはばたかせて降りてくる。長い銀の髪がたなびいた。
 太陽とは縁のないせいか、抜けるような色白である。ただサッシュと薄い唇、そして瞳が、血のような真紅だった。
 ルークはひそかに舌を巻いた。人であれ魔族であれ、これほど凄艶な存在をルークは見たことがなかった。ビアンカの生き生きした輝きとも、フローラの可憐な愛らしさとも違う。強いて言えばテルパドールの巫女王アイシスの、黒髪に縁取られた白い面の繊細な美貌と共通点があるだろうか。
 ただ、その男は……体格からみて男性に間違いないと思われるのだが、はるかにまがまがしい威圧感を持っていた。
 アイシスが夜空に煌く星ならば、この男は滅亡を告げるために現れる、長く尾をひいた壮大な流星だった。
 腕組みした姿勢のまま、男は地上に降り立った。双翼が肩にたたまれた。同時にただならぬ妖気魔力がルークを圧迫した。
「名乗れ、人間よ」
朗々と魔族は告げた。
「グランバニアのルーク」
気おされそうになるのをこらえて、そう名乗った。魔族は冷静な表情でじっと目を細め、視線を隣に移した。
「女、よもや、天空の血を引く者か」
ビアンカは真正面から美貌の魔族を見据えた。
「そうらしいわ。でもあたし、自分は人間だと思って育った。どこまでも、あたしは人間よ」
ふん、と黒翼を持つ男はつぶやいた。ルークに視線を戻した。
「きさまも、完全な“人”ではないな」
ルークはビアンカによりそった。
「ぼくたちは少なくとも人の子であろうと心を決めている者だ。軍の長よ、あなたは誰だ」
男は、尊大なしぐさであごをあげた。腕は先ほどから一度も解いていない。
「魔王、デスピサロ」
と男は言った。
ごく、とビアンカの喉が鳴った。魔王の名乗りは、こけおどしではない、とルークは思った。凄まじいまでの力の気配がこの男から漂ってくるのだった。ルークは質問をするのに、勇気を奮い起こさなくてはならなかった。
「エルヘブンのマーサを、知っているか」
魔王は軽く首をかしげた。
「知らぬ」
ルークは息を吐き出した。
「ぼくは、マーサの息子だ。この世界へは、母を連れ戻しに来た。断りなく侵入したことは謝る。そちらが攻撃しなければ、戦うつもりはない。ただ、人を探したいだけだ」
ルークの脇からピエールが飛び出した。
「お初にお目にかかる、魔界の王」
魔王はスライムナイトを一瞥した。
「名乗りを許す」
「それがしはピエールと申す者。これなるルークとその一家とは旧知の間柄にて、その人となりは保証いたす。けしてむやみと魔族を狩る者ではない。捜索をお許しありたい」
魔王は冷笑した。
「スライムナイトは誇り高き一族と聞くが、すっかり手なづけられたか」
ピエールは剣を握り締めた。
「それがしは、それがしの信念の元に、ルークに味方しているである。もし、ここで押し包んで討ち取らんとなさるなら、騎士ピエール、及ばずながら、お手向かいもうしあげる」
「ほう……」
魔王は組んでいた腕を解き、片手を軽く腰に当てた。
ピエールのそばに、キラーパンサーの成獣が足を運んだ。しなやかな前足から、爪が顔をのぞかせている。
「きさまもか?」
プックルはうなった。全身の毛が逆立っている。“地獄の殺し屋”が、おびえた猫のようなありさまだった。
 突然、馬車のほろがぱっと上がった。
「ぼくたちもいるぞっ」
がまんができなくなったのだろう。カイ、カイリファ王女と、アイル、アイトヘル王子が飛び出してきた。
「凄く、凄くがんばって、やっとここまで来たんだっ」
「マーサおばあさまを探すまでは、帰りません」
妖精の剣と天空の剣が、そろって魔王に向けられた。ざわ、と背後のモンスター軍団が立ち上がった。
「静まれ」
魔王は片手で一軍を制した。そのままじっと、黙っていた。彼の視線が注がれているのは、天空の剣だった。
 幼い王子は、ほほを紅潮させ、闘志をたたえて魔王を見上げている。白い不思議な金属に緑と金の意匠を施した美しい鎧が、りりしい顔立ちの少年によく似合っていた。
 少年の装備と、母親譲りの青い瞳を交互に魔王は見つめていた。
「おまえは、勇者か」
ぽつりと彼は言った。アイトヘルは、まっすぐ魔王を見上げた。
「うん」
赤い瞳には、不思議な表情が浮かんでいた。憎しみ、であるはずの感情が、なぜか感じられない。大きな感動をともなう何か強い記憶が、彼の中で反芻されているようだった。瞳がゆらめいた。
小さく彼はつぶやいた。
「……おまえのような、子供が……」
それは誰か、別の相手にむかって話しているような口調だった。
 アイルは天空の剣の切っ先を下げた。
「あなたは、おばあさまやお母さんをさらったり、赤ん坊だったぼくと妹を殺そうとしたりした人じゃないね」
皮肉な笑みが魔王の口元を飾った。
「ああ。おまえには、何もした覚えはないな」
「あなたのほかにも魔王がいるの?」
「知らぬ。魔界は広く刻々と拡大しているのだ。私の王国は魔界の中心部にある。ここは辺境だ。あるものを盗み出した盗賊を追ってここまで来たが、本来我が版図ではない」
魔王は、横顔を背後の高山へ向けた。
「だが、あの山の内部に、このところ強い力をもった者が存在しているようだ」
ルークと家族たちは、顔を見合わせた。
「これって、手がかりじゃない?」
「手がかりさ!とにかく、あそこへ向かおう」
ルークは、魔王を見上げた。
「通してもらえませんか」
しばらく魔王は沈黙していた。が、やがて片手をあげた。
「……引き上げだ」
粛々とモンスター軍団が後退していく。アイルはほっとした。
「ありがとう、魔王さん。ええと、デスピサロ」
美しい魔王はその声にふりむいた。
「“ピサロ”でいい。私はそう呼ばれていた」
そう告げると、背中に負った翼を広げふわりと空中へ舞い上がり、行ってしまった。
「ピサロ、か」
アイルは口の中でその名前をつぶやいてみた。カイが言った。
「あの人なんだか、お兄ちゃんのこと知っていたみたい」
「初めて会ったよ?」
「そのはずなんだけど」
ルークはそっと子供たちの頭に触れた。
「今度会ったら、聞いてみたら?」
「ピサロにまた会えると思う、お父さん?」
ルークはうなずいた。
「会えると思うよ。なんだか、仲間になりたそうな目をしていたんだ」
くすくすとビアンカは笑った。
「悪い癖ね!見たこともない魔物を見かけると、すぐこれなんだから」
ルークは赤くなった。
「だって、強そうだったじゃないか。いっしょに来てくれたら、きっと助かるよ?そう思わないかい、ピエール?」
スライムナイトは、剣を鞘におさめたところだった。
「確かにあのお方は強いである。だが、よほど物好きでなければ、ヒトとパーティを組むことなど思い至るまい」
「そんなものかな」
ピエールは考え込んでいるようだった。
「もっとも、魔界へ迷い込んだ人間を見逃すというのも、魔王にすれば酔狂もはなはだしいのであるがな」