ヘンリー20のお題 16.自分のせいで

 ネビルは居眠りをしている。コリンズは、足音を忍ばせて宰相執務室の控えの間を通り抜けた。
 父のヘンリーは、執務室で法案の原稿を書いているはずだった。コリンズは部屋をのぞきこんだ。
 ヘンリーはいなかった。
 ラインハットで一番忙しい男、ヘンリーの書斎は、解決のつかない諸問題が最後に持ち込まれるところでもある。壁を埋め尽くす書棚には、ぎっしりと書類がつまっていた。コリンズはきょろきょろした。
 そのとき、髪に微風が触れた。バルコニーへ出られる大きな窓が開いている。バルコニーにいるんだ、とコリンズは考えた。
 のぞいてみると、思ったとおり、背の高い人影がそこにあった。鉄細工のてすりを両手でつかんで、遠くを見ている。遅い午後の日差しが、ラインハット平野を華麗に彩っていた。
 執務室は城の正面の高いところにあった。バルコニーからは、城下町や、町のそばの湖、その向こうの森、平野、国境の川、そして今日のように天気のよい日には、はるかむこうの海がかすかにきらめくのまで見ることができた。
 コリンズのいるところからは、ヘンリーは、後ろ姿しか見えない。だが、手すりをつかんだ右手の人差し指があがり、こつこつとてすりをたたいた。
 父上は、疲れてるんだ、とコリンズは思った。ぼんやりと遠くを見て、指先で何かをたたく、それが疲れたときのヘンリーの癖だった。コリンズが来たのも、母のマリアに頼まれたからだった。もうずっとお仕事だから、父上のごようすを見てきてちょうだい、コリンズ……
 コリンズは声を掛けようとした。そのとき、誰かに肩をつかまれた。ぎょっとしてふりむいた。叔父のデールだった。
 デールは人差し指を唇に当てて、首を振った。そうして、コリンズを促して執務室の中へ入った。
「声を掛けてはだめですよ、コリンズ」
「どうして、叔父上?」
「コリンズの父上はね、今、心だけで、どこかへ飛んでいるのです。お邪魔をしては、いけません」
「心で?飛べるものなの?」
デールは、さびしそうに微笑んだ。
「兄上は本当に、飛んでいくこともできたのですよ。あのとき、何もかも見捨てて、自由に飛ぶことができたはずだ。あの方といっしょにね」
あの方、というのは誰のことなのか、とコリンズは思ったが、デールのつぶやくのをさえぎりはしなかった。
「でも、兄上は、自分の自由をもって私の命をあがなった。だからもう、飛べないのです」
デールはじっと、ヘンリーの背中を見詰めていた。
「わたしのせいだ」
「叔父上?」
デールはコリンズのほうを向いて、微笑んだ。
「だからせめて、兄上の心があの人を思って遠くをさまよっているときは、邪魔をしないで上げてください」
 ヘンリーの指が、鉄の手すりをリズミカルにたたく。なんだかさびしげに聞こえた。