主ヘン十題 9.無言 後篇

 若い方の男が真っ青になった。うつむいて前髪で顔を隠すようにしている。中年が舌打ちした。
「なんだ、あんた、いちゃもんつけに来たのか?」
もう広い額の片隅に太い血管が浮いている。
「あんたらのせいで夕べの仕事はだいなしになったんだぞ。このうえまだアヤつけようってのか!」
もしかしたら、やむにやまれぬ事情があったのかも、というルークの期待はあっさりと裏切られた。腕の中で猫がにんまりしているようだった。
「わかった、ヘンリーの勝ちだよ……もともと詐欺だったんですね」
ぽつりと言うと、若者がひっとつぶやいて泣き始めた。
「すいません、すいません!」
中年のほうはあせったようだった。
「おい、黙ってろ!」
だが若者はこらえきれないようにくどくどと言い訳を始めた。
「あんなことしたくなかったんだけど、本当に親父は病気で女房はお腹が大きくて、それなのに俺はこの人に借金してて、それで言うとおりにすれば金になるからって……」
「何をしゃべくってんだ、おめえは!」
中年の詐欺師は若者を殴りつけようとして手を止め、辺りを見回した。
「夕べの緑の髪のは?来てないのか?」
ルークは答えに詰まった。
「来てないような、来てるような」
腕の中で黒猫は油断なく詐欺師を見つめている。
「おい、河岸を変えるぞ」
詐欺師は若者の腕を乱暴につかんで歩き出した。
「待ってください」
ルークは男の前に回りこんだ。
「もうやめてください」
「人の商売にケチつけるんじゃねえ」
「商売じゃない、犯罪だ」
ちっと詐欺師は舌打ちをしてルークに背を向けた。
 そのとき、まるで待っていたかのように、いきなり黒猫が中年の詐欺師に襲い掛かった。
「この畜生!何しやがる!」
捕まえようと手を伸ばしてくるのを黒猫はきれいに避け、逆に男の頭に飛び上がった。肉球から爪を最大限にむき出して男の顔にも頭にも爪を立てる。ばりばりばり……!
「ぎゃあっ、誰か取ってくれ!殺される!」
市場の人々が悲鳴を上げて遠巻きにする。中年男の広い額には筋状の傷ができ、そこから盛大に血が滴っていた。詐欺師はひぃひぃ叫びながらむちゃくちゃに頭をふりたてている。
「ヘンリー、ヘンリー!」
ルークは駆け寄った。
「もういい、やりすぎだよ君は!」
「ぎゃ!」
針のような牙をむいて猫は威嚇した。ルークは言い聞かせた。
「この人、こんな傷じゃあ当分詐欺はできないよ。もういいから、降りて」
「ふぎゃー!」
 猫はルークの静止など耳に入らないようだった。中年男は市場の地べたをころげまわっている。何とか猫の注意を引けるものはないか、とルークは服の隠し(ポケット)あわてて探った。役に立つようなものは何も出てこない。が、何かが手にした包みからあふれていた。大きめの緑の葉と実のついたつる草だった。
「これ、デイジーに頼まれてさっき市場で買った、たしか……」
ルークはつる草を長めに持ち、猫の鼻面へ突き出した。
 猫は最初、猫パンチでつる草を振り払った。が、急に態度がかわった。いそいそと長いつるに近寄ると、鼻を突き出すようにして匂いをかいだ。目を細め、うっとりした表情にかわっていく。
 ルークはもう一方の手を上に伸ばし、悲鳴をあげる詐欺師の頭上から慎重に猫の腹をすくいあげた。猫は両前足でつる草にしがみつくかっこうのまま、ルークの胸に抱かれた。どうやら、気づいていないようだった。血まみれの中年はようやく立ち上がり、市場の人ごみを乱暴にかきわけて急いで逃げていく。
若い男はその場に残った。
「あの……」
ルークはヘンリー猫をかかえたまま向き直った。
「あなたは、じゃあ、本当にお金に困っていたんですか?」
若者はうつむいた。
「情けないです」
そしてそのまま、市場の片隅にしゃがみこむと、頭を抱えてしまった。しかたなくルークも隣に座り込んだ。
「みゃ、みゃ」
猫はルークのひざの上で甘えるような声を上げ、頭をすりすりとつると葉にこすりつけた。それだけでは足らず、はむはむと葉にくいつき、腹をこすりつけ、ついには無防備にも腹部を空へ向けて身体をくねらせた。
 黒い背中と対照的な、白い腹がまぶしいほどだった。大きな目をすっかり細め、目がまるで線のようになっている。四肢を泳がせ後ろ足を交互に振るので、まるで空中を逆さに歩いているようだった。ルークは指で、そのお腹をくすぐってやった。
「み~」
今朝は油断のなさそうだった目が、今はなんだか潤んでいるようだった。
「きみは、猫のときでも酔っちゃうんだね」
「みゃう~」
「またたびは、きくなあ」
猫がわずかに目を開いた。どことなく、ばつがわるそうな表情に見えた。“おまえがやったんじゃないか”、と言いたそうな雰囲気だった。
「いつもこうだと、扱いやすくていいんだけどね。きみったら、ぼくがとめるのなんか、きかないだろう?」
猫は、またたびの上にはらばいになった。葉から実までいとしげにしっかりと抱きしめ、長い尻尾までからめて、はふ、はふ、と息をしている。
「強がったって、だめだよ。あ~あ、すっかりできあがっちゃって」
猫はなんとか前足を踏ん張って立ち上がろうとした。が、腰が砕けて、どっとルークのひざの上に崩れ落ちた。
「みゃ」
「いいから、ぼくのひざに乗ってて。詐欺師のことは忘れるんだよ?もうちょっかい出しちゃだめだからね。そうしないと、もう一回またたびの刑にするよ?」
猫はつやつやした黒い毛並みの頭をルークに押し付け、情けなさそうな顔になった。
「わかったら、返事は?」
「みゃう」
不承不承といった声だった。
 しばらく猫は、またたびにじゃれついていたが、だんだん動きが少なくなり、丸くなってしまった。ルークはその背中をそっと撫でた。
「だいじょうぶかい?ごめんよ。ちょっと休んでいるといい。あるみら亭まではぼくが抱えて行くから」
猫は目を閉じた。ルークは腕の中に猫を包み込んだ。人間とは違う心臓の鼓動は、ひどく早く、あたたかかった。
「なんで猫になっっちゃのかわからないけど、早く、元に戻ってよ」
みゃあ、だけでは寂しい。友だちが自分に理解のできない言葉でしゃべるのはつらい。
「黙ってないで、何か言ってくれ。いつも君は兄貴ぶって親分ぶってるけど、それでも君の憎まれ口がききたいよ」
顔の高さまで抱き上げて、じっと顔を覗き込む。猫は薄く目を開けた。ルークは猫を、自分の肩にそっとおしつけた。猫の小さな前足が、ルークの服の肩にかかり、爪がたよりなげに布をつかむのを感じた。
 急に、猫がぴくっとした。
「どうしたの?」
猫はあわてたようにあたりを見回し、ルークの肩から飛び降りた。さきほどまで陶然としていたとは思えないほどの速さで、猫は樽に飛び乗り、家の屋根へジャンプした。
「待って、ヘンリー」
そう言ったとき、なじみのある声が返事をした。
「おれは、ここだぜ?」
「え?」
 ルークは振り向いた。通りを、一人の兵士が歩いてくる。兵士は歩きながら兜をはずした。ヘンリーだった。
 ルークはぱっと後ろを向いた。が、黒い長い尻尾が屋根の上でひらりとしたように見えたが、錯覚だったかもしれない。目をこすってまた開けたときには猫はいなくなっていた。
「なにやってんだ、町ん中で」
それは、まちがいなく、いつものヘンリー、一筋縄ではいかない性格の、人間の若い男のヘンリーだった。
「デイジーに市場で買い物を頼まれたんだ。ええと、仕事?」
「ああ」
ヘンリーは脇のほうを向いた。
「隊長、おれ、あがるよ」
遠くのほうから、太い声が聞こえてきた。
「おう。ご苦労さん」
ヘンリーは自分の首を軽くもんだ。
「臨時雇いで市場の警備をやってたんだ。ああ、肩こった」
「そういえば、夕べそう言ってたっけ。遅番じゃないって」
ふああ、とヘンリーはあくびをして、ふとルークの傍らにうずくまっている若い男の方を見た。
「おまえ、昨日の詐欺師の片割れじゃないか?」
若い男はぎくりとして逃げ腰になった。
「ヘンリー」
ルークは割って入った
「この人は、ほんとにお金に困ってたんだって。あの中年のほうに借金があって手伝わされただけなんだ。許してやってよ」
ルークはどきどきしていた。ヘンリーはちょっと唇をゆがめた。
「だまされたのはそもそもおまえなんだぞ」
「でもお金は君が取り返してくれただろう」
ちっとヘンリーはつぶやいた。兵士の鎧の下をさぐり、ごそごそやって何か取り出した。
「夕べの金だけど」
若い男は上目遣いにヘンリーを見ていた。
「相棒の出した金は回収させてもらったからな。あとのは、やる」
そう言って若い男に金の入った袋を突き出した。
「えっ、いいんですか?」
ヘンリーはいやそうにうなずいた。
「まあ、あのとき見てたやつら、ほんとにお前に同情してくれたわけだからな」
男はうれしそうに金を受け取った。
「これで借金が返せます。ありがとう、ありがとう、ごめんなさい!」
「勘違いするなよ?けちくさい詐欺の片棒かついだわけじゃないからな。それから」
ちょっと横を向いてヘンリーは付け加えた。
「働き口が必要なら、下町のあるみら亭っていう店へ行ってみな」
若い男はまだぺこぺこしながら小走りに帰っていった。
「ヘンリー、いいのかい?」
「あるみら亭のことか?いいだろ?おれたちもそろそろオラクルベリーを出てあちこち行くつもりなんだし、そうしたらあるみら亭の男手がなくなるからな」
「そうじゃないよ。怒ってたじゃないか、夕べは」
「まだ怒ってるぞ」
とヘンリーは言った。
「おまえはほんとに脳みそぽやぽやの甘ちゃん野郎だ」
「そこまで言わなくても」
「だから、おまえはおまえのままでいろ。おれがフォローするから」
ルークはぽかんとした。
「言ってることが矛盾してるよ」
「質問はなしだ。さ、帰るぞ。夜はまたカジノで仕事だ」
とっとと歩き出したヘンリーに、ルークはあとから追いついた。
「なんだ君だって、相当甘いじゃないか」
と口に出しかけて、言わないことにした。なんだかにやにやしてしまう。ヘンリーはそんなルークのことをことさら無視するように大またで歩いていた。
 ふと思い出してルークは別のことを聞いてみた。
「あ、待って、猫を知らない?」
ヘンリーが振り向いた。
「猫?」
「背中が黒くて、お腹の白い猫。で、かたっぽの耳がぎざぎざなんだ」
ヘンリーは特別反応しないで、ただ、ふうんと言った。
「オラクルベリーの猫は縄張り意識が強いらしいな。よくケンカしてるよ。ぎざ耳の猫も、あっちこっちで見かけるぞ」
「あ、そう?はは」
うわあ、どうしよう、とルークは考えていた。赤の他猫を、またたびでいじめちゃったよ。
「その猫、どうかしのか?」
「いや、なんでもないんだ。帰ろう」
そうだな、とつぶやいてヘンリーは2、3歩先へ行った。それからふいにふりむくと、いきなり、鳴いた。
「みゃあ!」
えっ、とルークは言って立ち止まった。
 にやりとヘンリーは笑い、いたずらそうに輝く目でルークを一瞬見据えたと思うと、さっと前を向いてまた歩き出した。
「待って、今の何だよ!?」
「なんでもないって」
あはは、と笑いながらヘンリーは歩いていく。
「でも、今、君が……ひょっとして本当は……」
歩き方や後姿、飄々としているようで油断のない、そんなところがどうにも猫っぽく見えるのだ。
 ルークはためいきをついた。長い付き合いである。猫のことを問いただしてもヘンリーは絶対に口を割らないだろうとルークにはわかっていたし、実際そのとおりだった。