主ヘン十題 7.恐れ 後篇

 穴の壁には大勢の奴隷の鉱夫がとりついてつるはしを振り上げ、振り下ろし、黙々と壁を掘っていた。
 かきだされた土や尖った鉱石を、地べたに這いつくばりむきだしの指で集めてバケツへ運び入れる女や子供の奴隷たち。指先は傷つき、かさぶたとなり、それがはがれて、鮮血をしたたらせている。 よたよたとバケツをさげて運んでいく間にも、せめて背骨をのばすことさえ許されない。
 そうして掘りあげられた空間には、コロを敷き、そのうえに巨大な石を載せて綱で引いていく。
 さらに足場を組んで、巨石を運び上げて石組みとする。
 どの奴隷も、顔を真っ赤にして踏ん張るのだが、ついに縄が切れ、巨石の角が奴隷たちを押しつぶした。
「うわぁぁっっ」
 阿鼻叫喚が沸きあがる。流血の惨事だった。が、監督たちは舌打ちすると、重傷の奴隷たちを乱暴にひきずりだし、別の奴隷たちに運び上げるように言った。
 逆らうものもいなかった。綱が新しくかけなおされ、作業は何事もなかったように続く。
 朝なのか、昼なのか、春なのか、秋なのか、一体どれだけの時間がたっているのか、奴隷たちにはまったくわからなかった。ただ“これ以上は無理だ、限界だ”と思いながら、目もくらむような思いでひたすらに働き続け、時間が過ぎていく。
 足を引きずる音。しわがれた咳。
 はっ、はっ、と聞こえる荒い呼吸。
 振り上げたつるはしが岩に食いこみ、砂礫が飛び散る。
 もう一度振り上げるが、つるはしの先は力なく岩の上をすべる。
 奴隷監督の怒鳴り声。
 絶え間なく上がる悲鳴。
 歯車のきしみ。
 どこか下のほうで、地獄の大釜のように煮えたぎるるつぼ。
 溶けた鉄が鋳型へ流されるすさまじい音。
 そして、奴隷たちの声にならない怨嗟の声が、大穴いっぱいにどよもして、坩堝からあがる汚い煙といっしょに上空へ向かっていく。
 それは地獄のような光景だった。
 別の悲鳴があがった。
「遅れているぞっ、またキサマかっ」
きんきんとした声が響いた。
床には一人の奴隷の男がはいつくばっていた。
「もう腕があがらなくて……」
男のそばにはつるはしが転がっている。やせ細った腕には、重すぎたらしい。
「疲れただと?何様のつもりだっ」
 鞭男は手にした鞭を奴隷の背中に容赦なくふりおろした。粗末な衣が裂け、鮮血が飛び散った。
 突然、鞭が動かなくなった。別の手が、鞭をつかんで、引いているのだった。ルークだった。
「それ以上やったら、死んでしまう」
 自分も奴隷の身だった。身につけているものは、片方の肩がむきだしになったあらむしろのような奴隷の服だけ。柔らかかったほほは荒れて黒ずみ、手も足も傷だらけだった。どこから見ても、薄汚い奴隷だった。ただ、目だけは、無気力な奴隷の目とはまったくの別物だった。
 殴られていた男は、息を詰めてルークを見上げた。
「いまだ。こっちこい」
 その男はふりむいた。ヘンリーが岩陰からのぞいて、手で招いていた。奴隷は足をひきずりながら隠れにいった。
「でも、いいんですかい、ルークの兄貴が」
 男は、以前にもルークに助けられたことがあった。ここはまだ、来てから数ヶ月にしかならない。こんなところでもう10年近く暮らしているというルークを、尊敬していた。
「大丈夫だ。あの鞭男は、おれとルークが初めてここへ来たときに、焼印を持ってきたやつだ。あいつ、どうやらカンがいいらしいからな」
「へ?」
「何が起きるか、見てな」
ルークは鞭をつかんで放さない。鞭男はやっきになって引っ張ったり、怒鳴ったりしている。
「でも、あのままじゃあ」
突然ルークが鞭を放した。鞭男は自分の引く力で地面にしりもちをついた。
「このっ」
ルークはただ立ちつくして、自分よりも小柄な鞭男を見下ろした。
「ひっ」
と鞭男は喉を鳴らした。冷や汗をかいているようだった。
 奴隷の男は首をひねった。奴隷監督が、丸腰の奴隷一人を、怖がっているというのだろうか。
「あいつ、カンがいいんだよ。カンがよすぎて、ルークの本当の姿が見えちまうらしい」
「本当のってなんです?」
「おれはその手のカンは、特にいいほうじゃないから、正確なところはわからないけど、たぶん、ドラゴンか何かだ」
「えっ?」
ヘンリーは、岩陰から頭がのぞかないように低くすわりこんでいた。重労働でぼろぼろになった親指の先で、肩越しにルークと鞭男を指差した。
 たいていの場合は、従順な奴隷の表情を装っているが、こんなとき、ヘンリーの目は、青みを帯びた緑色の輝きを取り戻し、黒ずんだ顔のなかで異様に底光りしている。
「あの鞭男にとっちゃ、はるかに格上の超大物の黒竜が、爪をむき出し牙を光らせて、眼の前であいつをにらみつけている、そんなふうに見えるらしいぜ」
「う、うそでしょう。ルークの兄貴は、人間ですぜ?」
ヘンリーはちょっと眉をしかめたような、奇妙な笑い方をした。
「おまえは見てないからな」
「何をです」
「あいつが人間らしい感情を全部内側に閉じ込めちまうと、どうなるかを、さ」
「なんのおはなしで?」
「初めてあいつがここへ来たときの目だよ。あれは……」
ヘンリーは両腕で自分の体を抱くようにした。
「怖かった」
 ヘンリーのこんな表情を、めったに見ない、と男は思った。どんな凶悪な奴隷監督が相手でも怖がるふり以外はしたことのないヘンリーが、うそ寒いような顔でだまりこんでいる。しかも相手は、奴隷仲間でも目立つほどなかのいい、“まぶだち”のルークだった。
「あのルークさんがですか?」
 岩の陰から見ていると、鞭男はその場に鞭を取り落とし、手と足で後ずさって逃げていった。ルークは、岩床に転がっていたつるはしを拾い上げ、黙って働き出した。
「あいつは人間だ。けど、あいつの心は、人間とモンスターの間の、すごく細い線の上に乗っかってるんだ」
ヘンリーは、よっこらしょ、と立ち上がった。
「あ、あの」
「ほとぼりがさめたら、現場へ出な」
ルークの働いている方へ歩きだした。
「ルークの兄貴のこと、怖いんじゃないんですか?」
ヘンリーは振り向いた。
「怖いさ。けど、あいつを細い線のこっちがわへ引き止めておけるのは、いまのところ、おれだけだし」
そして、照れくさそうにつけくわえた。
「人間でも、そうじゃなくても、おれの子分だしな」