主ヘン十題 4.翠緑 後篇

 おれは、見とれていた。体中、痛くてたまらないのに、現に腕も足も血だらけでずきずきしているのはわかってるのに、おれはその場にぺたんとすわりこんで、翼竜を見上げていた。
 翼竜は、岩棚のどこか横穴から、自分そっくりの小さな竜の仔を連れ出した。一頭じゃない、五、六人の兄弟ってところだ。やつら、初めて巣の外に出たんじゃないだろうか。でも、一頭残らず、まだ小さな翼を羽ばたいて、親竜の後について、飛んだ。
 そのころは東の空が明るくなって、空全体が真っ黒から明るい真珠色までのぼかしになった。その境を、あいつら、飛ぶんだぜ。一列になって、一斉に羽を翻して」
若者は口をつぐんだ。おそるおそる、ラディーニは聞いた。
「それで?」
「だから、相棒がおれを見つけて岩屋へ連れて行ってくれるまで、おれは翼竜が飛ぶ光景に見とれていたんだよ」
ふう、と若者はつぶやいた。
「きれいなもの、美しいものは、人の心をひきつける。無条件で、文句なしに、有無を言わせずに!それはやはり“力”だとおれは思うのさ。なにせ、おれの全身全霊をひきつけて、投身自殺をさせなかったんだからな。あんたのデザインだって、捨てたもんじゃない。特に、一番最後の」
ラディーニはあわてて羊皮紙の束をめくった。一番最後に綴じておいたのは、一番若いころにつくった、アデルの首飾りだった。
「見たこともない形だったし、石が、光の加減できらきらしてた」
「手に入る中で、一番いいエメラルドを使ったんだ。真ん中のヤツは、カットも工夫して」
言いかけてラディーニは、あれと思った。
「あんた、これの、本物を見たことがあるのか?」
「あ~」
若者はつぶやいた。
「実は、その」
頭の上の橋を誰かが走ってくる音で、声はかき消された。
「ヘンリー、いる?」
上から聞こえた声に、若者が応じた。
「おう、どうした?」
「あっちで傭兵が、女の人と男の子を襲ってる。行こう!」
「わかった!」
ヘンリーというらしい若者が、初めて動いた。機敏な動作でラディーニの横を走りぬけ、土手を駆け上がっていく。見かけはよくいる旅人と同じだったが、戦い慣れているらしい。走りながら、腰の長剣を抜いて構えていた。
「待ってくれ、それ、おれの女房とせがれなんじゃないか?」
「そう思うんならいっしょに来な!」
ヘンリーが振り向いて叫んだ。
 橋の下を一歩出ると、嵐のような激しい雨風だった。ヘンリーと、後から来たもう一人の若者は、ものともせずに突っ走っていく。このところ酒びたりだったラディーニは、たちまちあごが出てしまった。
 遠くから、金属のぶつかり合う音がした。息子のランドルをかばう女房の姿が目に浮かんで、ラディーニは必死に走った。
「おまえさん!」
角を曲がると、びしょぬれの地べたに、女房が座り込んでいるのが見えた。腕の中にしっかりランドルを抱えていた。ランドルが振り向いて、顔を輝かせた。
「父ちゃん、父ちゃんが来てくれた!」
母親の腕から飛び出して走ってくるランドルを、ラディーニは抱きしめた。
「父ちゃん、父ちゃん」
ラディーニは何も言えずにただ、抱きしめていた。
「おい」
気がつくと、ヘンリーがラディーニの肩をつついていた。
「奥さんは、雨宿りさせた。あんたも行けよ」
少し離れた建物の張り出した屋根の下に、女房と、ヘンリーの連れらしい男が立っていた。そのむこうに、傭兵らしい大男が二人、血を流して転がっていた。
「こ、殺したのか?」
女房がそっと言った。
「助けてくれたんだよ、この人たち」
ラディーニは女房のほうへ近寄った。
「無事で、よかった」
女房の近くにいた、紫のターバンの若い男が言った。
「あいつらは死んではいません。すぐ、気がつきます。逃げたほうがいいです」
ランドルが父親の顔を見上げた。
「あいつら、この袋を盗ろうとしたんだ」
それは、ラディーニが手渡した麻袋だった。カットも何もしていない、石系の素材の入った小袋である。
「父ちゃんにもらったから、渡したくなかったんだ」
ラディーニは黙って息子の頭をなでた。
「逃げんだろ、おまえさん?」
女房が言った。
「行こうよ、いっしょに。もう、死神に取りつかれちゃいないみたいだし」
「ああ」
とラディーニは言った。女房には、わかっていたようだった。ラディーニは苦笑した。
「この世に、ひきずりもどされたよ」
「おれの言ったとおりだろ?」
と、ヘンリーは言った。
「さあ、家族水入らずはけっこうだが、急げ。すぐにラインハットを出て、オラクルベリーへ行くといい」
「そうしようよ、おまえさん」
「そうだな」
ラディーニは、さきほどから気になっていたことを、言うかどうか、迷っていた。
「じゃあな」
ヘンリーと連れがそう言って、背を向けたとき、ラディーニの口から、その一言が出た。
「あんた、待ってくれ」
「ん?」
「ディントンの殿様の趣味は、なんていうか、ちょっと甘ったるくて、なよなよしすぎだと思ったんだ」
「それで?」
「おれがつくりたかったのは、もっと、単純で、すっきりした感じの……」
「『粋な』?」
「ああ。そんなもんだ」
 『アデルの首飾り』から10年経っている。だが、ラディーニは商売柄、自分の目には自信があった。パトロンだったディントン大公の容貌は覚えているし、その兄弟のエリオス六世も遠くから見たことがある。なにより、ヘンリーという名のこの若者に見覚えがあった。
「悪くないな」
雨に濡れてヘンリーの髪が額にはりついている。その髪をかきあげて、彼は笑った。
「いつか、見せてくれよ。あんたの力を」

「首飾り事件から10年後、突然ラディーニは復活しました。ガラスを使ったエナメル細工を請け負う工房をオラクルベリーに作ったのです。今度の顧客は、国王ほど高貴ではありませんでしたが、富を蓄えていた商人階級は、こぞって彼のエナメル細工を歓迎しました。
 得意の彫金にエナメルを取り入れた装身具は、当時爆発的に流行し、その美しい色彩で金細工よりも喜ばれたそうです。
 こちらが彼の作品群です。鮮やかなロイヤルブルー、輝くような黄色、迫力ある赤系統の色彩、数百年経った今日まで、どれも輝きを失っていません」
「エナメル細工と言うと、ランドルのほうが有名ですが」
「そうですね。ラインハットの黄金時代、コリンズ二世の治世は、ランドルのエナメル細工に彩られていると言ってもいいでしょう。ランドルは、ラディーニの息子で、この工房育ちなのです。
 これは、今回の『国宝工芸展』の目玉、『鳳(おおとり)の文箱』です。ランドルとラディーニ、二人の天才の合作と言われています」
「これは、全部エナメルですか?」
「黒檀の箱の上にエナメルの飾り板を貼ったものです。箱の部分はランドル、蓋をラディーニが細工しています。
 ランドルが選んだのは、風景ですね。箱の四面を使って森の中の泉を描いています。飾り板に彫った精密な描線もさることながら、美しい色彩が際立っています」
「蓋の部分は、その泉の中に立って、空を見上げた、という意匠でしょうか。鳥ですね」
「実際にはこんな大きな、しかも緑色の鳥はいませんが、御覧ください。巨大な鳥がまっすぐ伸ばした翼を大きく翻す瞬間です。風切羽の一枚一枚までが、彩度の高い、しかも品のある澄んだ翡緑です。これが、ラディーニがもっとも得意とした色、“ラディーニグリーン”です」
「ほんとうに、綺麗……でも、鳥のモチーフは珍しいんじゃないですか」
「ええ。デフォルメされた鷲ならグランバニアによく見られるモチーフですし、わが国でも小鳥はあるのですが、こんなに大きな鳥で、しかもこれほど動きを感じさせるポーズは、例がありません」
「しかし、写実的ですね。目が、生きてる」
「この鳥のモチーフのために、この作品は『鳳の文箱』と呼ばれています。ラディーニ工房はこれを、領主オラクルベリー大公に直接持ち込み、大公は即座に買い取りました。彼はいつも手元にこの文箱を置いて、終生愛用したそうです」