主ヘン十題 3.漆黒 後篇

「は?」
「主人のことですけど。ある日、お出入り先から帰ってきたと思ったら、この仕事場へ閉じこもっちゃったんです。あたしがどうしたのって聞きましたら、ぶるぶる震えてこういうんですよ。“おっかねえものがくる”って、ね。その晩は窓から戸口から全部締め切って、ここの床の上で寝たんですけど、次の朝、呼んでも返事がなくて、人に頼んで開けてもらったときにはもう、いけませんでしたわ」
ベアトリスの声は、話しながら小さく、かすかになっていった。
「ねえ、ベアトリスさん」
「あっ、はい?」
キリが声を掛けると、ベアトリスはわれに返ったようだった。
「おっかねえものって、何?」
「それが、わからないのよねぇ。でも、そういえば」
「なに、なに?」
「あの日、帰ってきたとき、真っ青な顔でこんなことを言ってたのよ。『一人の人間が、まるまるひとり、入れ替わっちまうなんてこと、信じられるか?』って」
「どういう意味です?」
「あたしは勘違いだと思いました。よくあることなんですよ」
ルークはめんくらったようだった。
「なにが?」
「主人は仕立て屋でしたでしょう。ご婦人のドレスを作るときは、最初に寸法を測るんですよ。その寸法を元に布を裁って仮縫いをします。それを注文主さんに着てもらって、細かいところを直すんです」
「はあ」
「主人が言うには、最初に寸法を採った体と、仮縫いを着た体が、ぜんぜん違うって。採寸と仮縫いの間に、その女性が、そっくりの別人とすりかわった、って言うんです。いえ、寸法を測りまちがったに決まってますわ。お笑いでしょう」
ルークは笑っていなかった。
「ご主人はその日、どちらへお仕事にいらしてたんですか?」
こともなげにベアトリスは答えた。
「ラインハットのお城ですわ。アデルさまのドレスを作りに」
「ルークさん!」
キリは思わず立ち上がった。ルークは、片手で抑えた。
「もう少し、詳しく教えていただけませんか」
ベアトリスは、不思議そうな顔をしていた。
「詳しく、と言われても、おぼえているのはそれくらい、ああ!」
ぱん、とベアトリスは、手をたたいた。
「あの人ったら、たぶんあたしを脅かそうとしたんでしょう。こんなことを言ってました。『注文主を鏡の前に立たせて、仮縫いのぐあいを見ていたんだ。そうしたら……ほくろが……なくなってんだよ、首の後ろから』って。『おれは気がついて固まっちまった。そうしたら、あの、あれが、ふりむきもしないで、鏡の中からおれのほうを見て言ったんだ。“誰にも言うんじゃないよ”って。おれは怖ぇよ、ベティ。おっかねえもんが、来るよ』」
キリは息を呑んだ。
「それで、どうしたんです?」
「あたしは、村の教会の神父さんに相談に行こうと思いました。神父さんなら、とにかくうちの人を落ち着かせてくれると思ったんです。それで教会へ行く間の気休めに、仕事場に花をいけて、たしかこんなふうに言いました。『これはニフラミアっていう花で、ちょっと特別なの。魔物が来ると、これの花びらが濃い暗い色に変わるから、よく見ていてよ。魔物が来たら逃げるのよ』って」
ベアトリスは、片手を窓の外の、玄関前の斜面のほうへ向けて、ひらひらとふった。
「ほら、あそこにたくさん咲いている、あれです」
「ニフラミアって言うんですか?見たことないが」
「あたしも、実家の周りでしか見ませんね。色が変わるっていうのも、伝説だと思います」
「その、ご主人のなくなったとき、花は色が変わったんですか?」
「どうだったかしら。気が動転していましたから。覚えていないんです」

 かもめ亭に帰ってくると、ルークはすぐにヘンリーを探しに行った。
「ベアトリスさんのご主人は、たぶん、アデルのすりかえを一番最初に気がついた人なんだ」
「“誰にも言うんじゃないよ”と、言われたのに、奥さんにしゃべっちゃったんだな?」
「そうだよ、たぶん。だから、ベアトリスさん自身も危ない」
「おい!」
「いっしょにかもめ亭へ来てくれって頼んだんだけど、急ぎの仕事を抱えているから困るって言って、来てくれなかった。でも、今日中には終わらせるって言ってたから、ヘンリー、二人で迎えに行こうよ」
「そうだな。アデルすり替えの秘密を知っている女性なんて、あいつらには目障りでしょうがないはずだ。第一、貴重な証人じゃないか」
 ルークは、旅人の服とマントに身を隠したヘンリーと一緒に、ラインハットの市外へ急いだ。昨日と同じ道をたどっていったのだが、今朝はようすが違っていた。
「ヘンリー、見て!」
街道から緩やかな斜面がたちあがり、なだらかな丘となっている。ベアトリスの家は、その上にあった。家の前にはくねくねした小道。両側にはニフラミアの群生。
「伝説じゃ、なかったのか」
 ニフラミアの花は、明るい薄黄色から、濃い茶色に変わっていた。なかでも、ベアトリスの家へ向かう小道の両側の花は、茶色を通り越して黒に変化していた。
 花は手のひらの半分ほど。深紅の中心部から、漆黒の花びらが円を描くように出ている。魔界に咲く花のようだった。
 一陣の突風が吹いた。死霊の目のようなニフラミアがいっせいにたなびいた。もろくなった黒い花びらが、茎を離れて宙に舞う。黒い雪がふりしきる斜面を、ルークとヘンリーは無言で登っていった。
 昨日はきちんと戸締りをされていたドアが、今は半分開いて風に揺れている。案内も請わずに客間へ向かった。だが、客間の入り口でもう、遅かったことが知れた。
 ベアトリスは、昨日家を辞したときと同じいすに腰掛け、放心したような表情で死んでいた。冷えたお茶と、食べかけのパイがテーブルにならんでいる。その上に、細い花瓶。一輪のニフラミアがさしてあった。
 ヘンリーののどが、苦しそうな音を立てた。
「昨日、この家の中を、魔が通り過ぎた……!」
無意識にヘンリーと背中合わせに立ち、ルークは息を殺した。
 “魔”に感じて色を変える不思議な花、ニフラミアは、今は黒薔薇よりもつややかに、ビロウドのような手触りを期待させて、色あせた客間の中、漆黒の花弁を誇らかに飾り、してやったり、とルークたちを見返しているのだった。