主ヘン十題 3.漆黒 前編

 ラインハット市の外壁を抜け、しばらく街道を行くと、小さな集落があった。その中に一軒、青い瓦葺の屋根の家が建っていた。
「ほら、あそこ!花がすごいだろ?」
街道から分かれた小道は、くねくねと曲がりながらその家につながっていた。小道の両側には斜面があり、うすい黄色の花がびっしりと生えている。まるで花畑の中に家を建てたように見えた。
 ルークは、花のひとつをしげしげとのぞきこんだ。
「かわいいね。なんていう花だろう」
 すらりと伸びた茎の、一本につき、花ひとつ。花は手のひらの半分ほどの大きさでオレンジ色の中心部から薄い黄色の細長い花弁が円を描くようにのびている。風変わりなひな菊といったかんじだった。
 花の草むらにうずもれそうな高さに、小さな看板が立っていた。
「お仕立物いたします。ベアトリス」
キリはドアに取り付けられたノッカーをたたいた。
「ベアトリスさん、いますか?かもめ亭から来ました」
ぱたぱたと足音がした。
「はい?」
 ドアが開いた。人のよさそうな丸顔の女が陰から顔をのぞかせた。ベアトリスだった。
「これ、かもめ亭のおかみさんからです」
「ああ、パイね?いつもありがとう!わるいわねぇ。キリ、あがってらっしゃい。おいしいのよ、これ」
キリは心が動いた。なんといっても、かもめ亭のおかみのパイは有名なのだ。
「ルークさん、ちょっと寄っていっても、かまわないかな」
ベアトリスはびっくりしたような顔をした。
「この方は?」
「あ、かもめ亭のお客で、ルークさん。ジュストさんが忙しいんで、代わりに小麦を持って一緒に来てくれたんだ」
ルークは微笑んだ。
「こんにちは。ご注文の、小麦一袋です。台所はどちらですか?」
ベアトリスは、ルークの笑顔にひきこまれたように笑った。
「まあ、すいません。男手がないもので、助かるわ。台所はつきあたりのドアを入って奥よ。ルークさんも、お茶を上がっていらしてくださいね」
というわけで、キリはルークと並んで、この一軒家の客間におさまった。
「ベアトリスさんてね、かもめ亭の常連さんだったんだってさ」
「へえ?」
「10年くらい前は羽振りがよくって、だんなさんと一緒にラインハットへ来ると、よく泊まっていってくれたんだって。だんなさんが有名な仕立て屋で、お金持ちのお屋敷やお城の奥まで御用をききにいった、っておかみさんが話してたよ」
「その、だんなさんは?」
「それが、亡くなったんだって。ずいぶんまえだよ。それで仕立て屋も廃業で、ベアトリスさんだけはお針子で細々やってるんだって」
「かもめ亭のおかみさん、ベアトリスさんと気が合うんだね」
「うん。この小麦だって、ある時払いの催促なしなんだよ。おまけにパイまで焼いてさ。もっと前は、おかみさん自分で焼き菓子を届けに来て、ずっとおしゃべりしてたんだって」
客間のドアが開いて、ベアトリスが盆を持ってでてきた。
「さあ、どうぞ、どうぞ」
香り草のお茶のポットの横には、おもたせのパイのほかに、果物やクリームがならんでいた。
「わ、豪華!」
「かえって申し訳ないです」
「いいんですよ。こんなぶっそうなご時世に、わざわざ来てくださったんだから」
こんなご時世、とおかみさんは言うのだが、キリにとっては何がどう違うのかわからなかった。なにせ、物心ついたときには、ラインハットはもう、今のラインハットだったのだ。
 えげつない傭兵たちが町を我が物顔でのし歩き、弱いものはとことん奪いつくされる。
 今日も、かもめ亭を出て町を歩くとき、道端に地方から出てきて路頭に迷ったらしい人々が、じっとうずくまっていた。そのなかを、パイのいい香りを漂わせたバスケットをさげて歩くのは、勇気が要った。
「このへんは静かなところだってずっと思ってたんですけど、このあたりまで柄の悪いのが出てくるようなりましてね」
ルークが眉をひそめた。
「一人暮らしじゃ、たいへんですね」
ベアトリスは、ティーカップにお茶を注ぎながらためいきをついた。
「これからさき、ラインハットはどうなるんでしょうねえ」
キリはなんとなく座りなおして、ルークの顔を横目で見た。ルークは、かすかに頭を振って見せた。
 キリが世話になっているかもめ亭には、ラインハットの人気旅籠だということのほかに、もうひとつ別の顔もあった。王国の現在の女主人、アデル太后の政権を覆そうという不穏な集団の本拠地、である。
 アデル太后にとっては、義理の息子にあたるヘンリー・オブ・ラインハットは、その集団の中心人物の一人だった。
 今回のおつかいも、最初はヘンリーが一緒に行こうかと言ったのだが、オレストがとめたのだった。
「外出はお控えください、殿下。今は大事なときですぞ」
顔の知られていないルークが代役を買って出たのは、そういうわけだった。キリはルークの顔を見て、ラインハットに第一王子が帰ってきたことは、秘密にしておくことにした。
「でも、死んだ夫が、安全対策にはかなり力を入れていましたので、泥棒はあまり心配していませんのよ」
「ご主人は、有名な仕立て屋さんだったとうかがいました」
「昔のことですけどね。なかなか高価な生地を扱ったりするので、戸締りには厳しい人でしたし。今でこそ客間ですけど、ここは以前、主人の仕事場だったんですよ」
「へえ」
「窓の近くに、大きな作業台を置いていましてね。よくあの前ではさみを使っていましたわ」
よく見ると、客間の窓にはどれも大きくて頑丈な鍵が取り付けられていた。
「でも、あっけないもんですねえ。強盗やら何やらをすごく怖がっていたのに、自分は結局、病気で死んだんですから」
「身体の弱い方だったんですか?」
「いえ、とんでもない。若いころは牛みたいに丈夫でしたよ。あれは流行病にかかったっていうものじゃなくて」
いいさしてベアトリスはためらった。
「怖い夢で死ぬことなんて、あるんでしょうか」