主ヘン十題 2.傷跡 後編

「失礼」
こほんと咳払いをしてネビルは室内へ入った。誰もいなかった。以前に来た時と比べて、調度品は減っていたが、書類の山ができていた。
 壁の奥に掛けられたタペストリの裏から、人の声が聞こえてきた。
「早く着替えてください。午後から会議室で打ち合わせがあります」
声の主らしい若い男が、タペストリを片手でよけて奥から出てきた。手に薄汚れた布を抱えている。よく見ると、元は白い麻布らしかった。誰かが無謀にも、高価な生地を雑巾にしたらしい。
「私は八代目セルジオの甥で、ネビルというものだが」
話しかけると、若い男は笑顔になった。
「ああ、セルジオ商会の坊ちゃん。おれはジュスト。従棒仲間だ。よろしく」
そう言って手を差し出した。その手がほこりで汚れていた。ネビルは思わず眉をひそめ、軽く手をふった。
「きみきみ、従僕というものは」
ネビルの忠告は、聞き覚えのある声にさえぎられた。
「ジュスト、着替えがないぞ」
ジュストはタペストリに向かってどなった。
「今、メルダさんのところへいって、一枚もらってきます!まったくこんなにするんだから、何枚あってもたりゃしないっ」
ジュストはいまいましそうに、抱えたぼろをふってみせた。
「それ、シャツなのか?」
「昼まではそうだったよ。ヘンリー様はコレを着て、倉庫の床下を這い回ったらしい」
タペストリの陰から、うわさの主が返事をした。
「ゴーネンの隠し金を見つけたんだ。コストがシャツ一枚なら差し引きでいい稼ぎだろ?」
緑色の頭髪がゆれ、ヘンリーがひょいと顔を出した。細かい刺繍入りのドレッシングガウンをゆったりと着ていた。
「よお、ネビル」
「殿下、お召しにより参上……」
「さっそくだが、ジュストを手伝ってやってくれ」
ネビルは頭を高く上げ、自分の鼻先を見つめるように視線を保った。
「おそれながら、わたくしはそのような雑用のためにはせ参じてはおりません」
視界の隅で、ジュストがむっとしたような顔をしたのが見えた。が、ヘンリーはニヤニヤしていた。
「おう、言う言う」
たのむよ、ジュスト、とヘンリーが声を掛けると、ジュストは呆れ顔でぼろを抱えて部屋を出て行った。
 気さくな調子でヘンリーは言った。
「入れよ、ネビル。こっちが宰相の休憩室だ」
「失礼いたします」
執務室はともかく、休憩室は初めて入るところだった。執務室と共通したトーンの、重厚な調度品が置かれている。奥に、天蓋付のベッドがあった。
「ラインハットではジュストに、オラクルベリーの家じゃおまえに、主に面倒見てもらうつもりだったんだが、こっちがけっこう忙しくて二人に来てもらうことにしたんだ。この城の中じゃ、とりあえずここがおれの家ってことになるかな」
てきぱきと話しながら、ヘンリーは片手を執務室のほうへ振った。
「あっちの部屋の前の控えの間から従僕用の寝室へ行かれる。二つあるから、ジュストと話し合って部屋決めをしてくれ」
こほんと、ネビルはまた、咳払いをした。
「恐れながらおたずねいたします。あのジュストと申す者は、どちらでお召抱えになりましたので?」
「ん、ん、ラインハットだ。『かもめ亭』っていう宿屋のせがれだ」
「ほう」
どうりで、と、付け加えたいところだった。ジュストさんならなんでもわかる、が聞いてあきれる。宮廷作法に関しては、ネビルがしつけてやらなくてはならないだろう。やれやれ、とネビルは頭を振った。
「ご心配なく、殿下。手のかかりそうな者ですが、なんとかやってみましょう」
どういうわけか、にまあ、とヘンリーの唇の端が持ち上がった。
「お前には苦労を掛けるな、ネビル」
そうそう、そうこなくちゃ。ネビルは貴族的な表情をつくった。
「ジュストのやつは、軍を任せているオレストの姉の息子なんだ。軍とのつきあいは大切にしたいから、ジュストもそばにおきたいと思っている」
コネがらみの人事というわけだった。ネビルは重々しくうなずいた。同時に、しびれるような興奮があった。ああ、宮廷という、得体の知れぬ巨大なもののなかへ、ついに自分はわけいったのだ……!
 ヘンリーは声をひそめた。
「いいか、あいつをあまり、興奮させるな」
共犯者の視線で、ネビルは主人を見た。
「と、おっしゃいますと?」
「誰にも言うなよ?実はあいつ、ちょっと凶暴なんだ」
ネビルは、(ひそかに練習してきた)貴族的なためいきをついた。
「宿屋の息子では、粗暴な振る舞いもやむを得ませんな」
「いやいや」
ヘンリーはひらひらと手をふった。
「粗暴じゃない。凶暴なんだ」
妙に強調する。ネビルは聞き返した。
「あの、凶暴な従僕と申しますと」
「ほれ」
 いつも顔の脇に長めにかかる翠緑の髪を、ヘンリーは片手でかきあげてみせた。首筋と耳があらわになった。
 形のいいあごの線が、小さめの耳たぶに続いている。だが、その上を見て、ネビルは硬直した。
 鋭い爪でちぎりとられたかのように、耳がぎざぎざになっていた。
「うわわっ」
冷静沈着な貴族ぶりっこを忘れて、ネビルは口走った。
 背後でドアが開いた。
「お待たせしました」
ネビルはだだっと壁に身を寄せた。ジュストが帰ってきたのだった。
「あ?ネビル、どうした?」
はふっ、はふっという情けない音が自分の口からもれるのをネビルは聞いた。快活にヘンリーが答えた。
「お前の話をしてたんだ」
「はあ?おれが、何か」
ジュストは、ヘンリーにまっさらな麻のシャツを手渡した。
「おまえ、さっき、おれに噛み付いただろう?」
恐怖の塊がネビルの胃のあたりに集まってきた。
「ああ、あのことですか。はい」
こともなげにジュストが答えた時、ネビルの恐怖は口元へせりあがってきた。
「な?聞いたか、ネビル?」
ネビルは身動きとれなかった。なんて恐ろしいヤツが、従僕仲間なんだ……
まだなにかヘンリーたちが話していたが、自分自身の心臓の鼓動にじゃまされて、まったく耳に入らなかった。
「打ち合わせだったな。着替えとくか」
しゅる、と音を立てて腰紐を解き、ヘンリーがガウンを脱いだ。日に焼けて浅黒い背中がむきだしになった。ひどい傷だらけだった。
「ひいいっ」
ネビルは思わず悲鳴を上げ、一目散に出口を目指して駆け出した。

 ジュストはわけもわからずにつっ立っていた。新しい従僕は必死で逃げていくし、主人は笑い転げている。
「あ、あいつ、信じやがったーっ」
「ヘンリーさま?」
「あんなにおもしろいオモチャも、ちょっといないな」
まだクックッと笑いながら、ヘンリーは言った。
「おまえ、シャツのことでおれにさんざん文句を言ったろ?」
「はい。ああ、ちゃんとした従僕は、主人に噛み付いたりしちゃいけないんですかね」
「そうさ。“噛み付く”には、“大声で文句を言う”って意味もあるよな。でもネビルのヤツ、おまえがおれの耳に噛み付いて、食いちぎったと思いやがったぜ?この背中の傷も。しばらくびくついているだろうよ。あいつがいばりくさったら、ちょっと脅かしてやれよ、おもしろいから!」
 あわれなネビル坊ちゃん、とジュストは思った。ヘンリー様の中で、おまえは“からかいがいのあるおもちゃ”に決定したみたいだ。がんばれよ、と真剣にジュストは祈った。