主ヘン十題 2.傷跡 前編

 煙出しと明り採りを兼ねた小さな窓から、柔らかな光線が入りこんでくる。修道院の台所は石造りだった。赤茶色の筋の入った石を同じ大きさの方形に切って床に敷き詰めてある。壁にも同じ石材がきちんと組まれ、天井近くには太い木の梁も通っていた。
 シスターたちやここで世話になっている寡婦、孤児はなかなか多く、かまどは大きかった。赤々と火が燃え、その上の大鍋では、ぐつぐつとお湯が沸いていた。
 石の床の上に木の浴槽を運び込み、朝から沸かしたお湯を次々とその浴槽へ注ぎいれ、外の井戸からも水をくみ上げて温度を調節し、そこで初めて、風呂に入れるのだった。
 その贅沢さ。
 豊かな湯気が立ち上り、窓から入る光をくっきりととらえている。ルークは服を脱いで、台の上においた。
「入るか?」
浴槽の中からヘンリーが聞いた。風呂桶はかなり大きいのだが、そのふちから手足をにょっきりとつきだし、頭を乗せている。朝から風呂の準備でがんばってようやく湯につかったところだった。
 ヘンリーが体を起こすと、透明なお湯が波になってあふれた。
「まだいいよ。ぼくも石鹸を使うから」
三本足がガタつく小さな木のいすにすわり、手桶ですくってお湯を浴びると、ぺたぺたしたものが皮膚から洗い流されていくようで、ひどく気持ちがよかった。ざあ、という音を立ててお湯が流れていく。手桶を床に置くと、かぽん、と響いた。修道院は、静かだった。
 修道院の女性たちは、彼ら二人の入浴のために、その日の午後、台所をあけわたして使わせてくれたのだった。
「おれは川でいいって言ったんだけどな」
「本当に、熱いお風呂なんてすごい贅沢だよ」
「まあね」
ヘンリーは浴槽のふちに腕を組み、そのうえにあごを乗せた。
「ひさしぶりだ」
泡立ちの悪い石鹸をこすりながら、ルークは友達のほうを見た。組んだ腕にも、鎖骨の下にも、傷跡が残っていた。ルーク自身も大きなことは言えない。教団の焼印をはじめ、この10年、新しく傷を作らなかった日はほとんどなかった。
「ほらよ」
ヘンリーは手桶にお湯をすくって、背中にかけてくれた。ルークはその手桶を取って、石鹸の泡を洗い流した。
「じゃ、交代な。おれも髪を洗うよ」
そういってヘンリーが風呂桶からでてきた。かわりにルークが、豊かなお湯の中に身体を沈めた。手足に気持ちのいいしびれがやってくる。たちのぼる湯気が首筋をくすぐっていく。台所の窓から、ふと、いい風がはいってきて、ほてったようなほほをかすめた。
「寒くない、ヘンリー?」
「おれはのぼせてんだ」
木のいすにすわり、手際よく石鹸を泡立てて、ヘンリーは髪を洗い始めた。ルークは、目の前のむき出しの背中をつくづくとながめた。
「だいぶ残っちゃったね、傷」
「んん?」
ヘンリーは鼻唄を歌いながら両腕を上げ、長い指で髪をかきまわしている。肩甲骨が動く。その上にも、十字型の大きな傷があった。
「これ、あのときのだろ?君が僕に覆いかぶさって、代わりに兵士の刀を受けてくれたときの」
「さあて、どうだったかな」
「命を助けてくれたじゃないか。ぼく、全部覚えてるよ」
鼻唄がとまった。ヘンリーの手が手桶を探り当て、湯を汲み上げ、自分の頭に一気に浴びせた。
「おれは、全部忘れた」
「そんな」
と、ルークは言った。
「人一倍、ものおぼえがいいくせに」
「しつこいぞ」
ヘンリーはもう一度湯を汲み、頭を傾けて耳の上を洗い流した。
 こういうときのヘンリーは絶対にとりあってくれないので、ルークは黙って風呂桶のふちにあごを乗せた。ヘンリーは反対側の耳をふさいで、髪をすすごうとしていた。
 その指が耳に触れた。一瞬、動きがとまった。ヘンリーの指が、自分の耳の形を確かめるようになぞっていく。ルークは息を詰めた。
 狂った奴隷監督。
 あるものは指を。
 あるものは鼻を。
 労働力があまりにも消耗するという理由でその監督が辞めさせられるまで、ルークたちは恐怖の日々を過ごしたのだった。
 全部忘れたなんて、ウソだ。ルークはそう思った。だが、何と言えばいいのかわからなかった。ルークは濡れた手を伸ばし、そっとその、変形した耳を、お湯が入らないようにおさえてやった。
「ありがとな」
ヘンリーはそういうと、もう一度勢いよくお湯をかぶった。
「なあ、気にするなよ」
下を向いたままヘンリーが言った。髪の先からお湯がしたたっていた。
「でも」
「けっこう気に入ってるんだ、これ」
ヘンリーは勢いをつけてあごをふりあげ、雫を飛ばした。
「ワイルドでいいだろ?」

 ネビルがラインハット城の入り口を入ると、なんとなく騒がしかった。
 ネビルは、セルジオ商会の、年に一度の棚卸しの日を思い出した。ラインハットの政変が起こって以来、この国は一国丸ごと、棚卸しをやっているらしい。
それにしても、王城たるもの、もう少し威厳がなくては。いくら忙しいとはいえ、顔パスで出入りする者が多すぎる。
「ああ、きみ?」
 三、四人の兵士が集まっているところに話しかけると、一人が顔を上げた。妙にうれしそうな笑顔だった。
「ラインハットへ用こそ。何か御用で?」
ネビルは胸をそらせた。
「私は、今日から、王国宰相にしてオラクルベリー大公である、ヘンリー殿下に従僕としてお仕えすることになった者だ。殿下はどちらにおいでか」
兵士たちは顔を見合わせた。
「おれたちも、ここの部署、今日からなもんで」
「殿下は夕べも遅くまで会議とかやってたなあ?」
「さきほど台所でごはんを食べていらしたぞ」
ネビルは耳を疑った。
「なんだと?」
兵士は肩をすくめた。
「時間が惜しいし、さめるとおいしくなくなる、とおっしゃって」
「あ、飯の後でたしか、タンズベールの伯爵さまといっしょに、倉庫へお入りになったのを見たな」
ネビルは、自分が侮辱されたような気がした。
「宰相御自ら、か?!」
「いや、なんでも自分でやるって言ってきかないんだ、あの人」
「まあ、いいじゃないか。ヘンリー様がチェックすると、なんかしら見つかるんだから」
「あの人、背中にも目がついてるらしいぜ」
「まじか」
あはは~と声を上げて、兵士たちは笑い出した。
「“あはは~”じゃないっ」
ネビルは声を高くした。
「それでも宮廷か!もっとちゃんとしろっ。私はどうすればいいのだ!」
一人の兵士が、笑顔のままで即答した。
「ジュストさんに聞くといい」
「ああ?なんだそれは」
「ヘンリー様の従僕だ。ジュストさんなら、ヘンリー様の予定から何から、全部把握してるからな」
「そうだ、そうだ。ジュストさんに聞きな」
兵士の一人が、入り口ホールの奥にある大階段を指差した。
「あれを上っていくと、奥に宰相執務室がある。そこにいつもいるよ」
ネビルは返事もせずに階段に向かった。
 ジュストさんならなんでもわかる、というのが、ネビルにはなんとなくおもしろくなかた。先輩従僕というものらしい。ふん、とネビルはつぶやいた。先輩が、なんぼのもんだ。こっちはオラクルベリー一の金持ち、セルジオ商会の主人の甥なんだぞ。
 やんごとない身分の大貴族に仕える従僕らしく、ネビルは新調の従僕服を見せびらかすようにして堂々と大階段の真ん中を上っていった。政変後、人事が刷新されたらしく、どこの部署でも新入りや未経験者がうろうろしているらしい。忙しそうだった。
「なにやってんだよ、早く通っておくれよ」
「ジャマ、ジャマ!」
などという声が聞こえるが、ネビルは無視した。この城に礼儀のなんたるかをネビルが教えてやらなくてはならないだろう。一に格調、二に威厳、三、四がなくて、五に礼儀。
宰相執務室はすぐに見つかった。兵士に教えられるまでもない、この部屋なら前の宰相ゴーネンのときに、来たことがあった。扉は半分、開いていた。