主ヘン十題 1.国家

 外国からの使節が訪問に来ると、コリンズは王太子の義務でラインハット城内にある謁見の間に出向き、叔父のデール王と並んで挨拶を受けなくてはならない。
 挨拶そのものはめんどうくさいし、うざったいし、おもしろくもなんともない。だが、たいてい王の傍らに控えている王国宰相、コリンズの父のヘンリーが下すしんらつなコメントは、ちょっと楽しみだった。
 その日の使節は、西レヌール王国という国から来た、と言った。
「レヌール王国なんて、まだ在ったの?」
使節の帰ったあと、コリンズは従僕を従えて玉座のそばへ行った。父と叔父は地図を見ながら、なにごとか話し合っていた。
「もう、名前だけのようですね」
と、デールは言った。ヘンリーは地図の上に指を走らせた。
「内乱の余波が、まだ小規模でもくすぶっているようだな。小さな派閥同士が争って、まとめようとする者がいない」
「それでも、国なんじゃないの?」
コリンズが聞くと、ヘンリーが地図から顔を上げた。
 普通、40歳あたりで就任する宰相の地位に十代でついたため、今年でもう勤続10年に近い。外国からの使者が来た時は特に、宰相の権威を表現するため質のいい生地をたっぷり使って仕立てさせた衣装を身につけている。ヘンリーは、つや消しの深緑の上着にかかる臙脂色の剣帯に指をかけ、かるく直した。
「一つの国家が在るには、何人の人間が必要か、知ってるか?」
「一人」
コリンズはすぐに言った。
「誰かが、“おれは王様だ!”って言えば、それで国家だ。それを認めるか認めないかは、他人の問題だもん」
「おまえらしいよ」
ヘンリーは笑った。
「けど、正解じゃない」
「じゃあ、何人要るの?」

 ぼくはまだ、生きている。ルークはぼんやりとそう思った。うれしいというより、恐ろしい。まだ、苦しまなくてはならないのだ。
 上空からしゃがれた鳴き声が聞こえてくる。奴隷の一群が死にきるのを、ハゲタカが待っている。
 それでもルークは、自分がまだ生きているのを知った。その証拠に、痛い。身体が痛い。身じろぎをすると、ごつごつした岩肌が背中にあたった。肉が落ちて背骨の出たような身体にはひどくこたえる。ルークはほかの奴隷たちといっしょに、この岩棚へたたきつけられたのだ。ルークの腰と、足の一部が、岩でないものに乗っている。人の体だ。皮膚の感触がある。だが、それはもう、冷たくなっていた。
 気が付くと、先ほどまで聞こえてきたうめき声がまったく沈黙していた。みんな死んだのか。乾いたような風の音がルークの耳元を吹きすぎて、なけなしの体温を奪っていく。
 世界一高い岩の峰の、谷底へむかって突き出した岩棚で、無残な死骸の折り重なった小山の上、ルークはあおむけのまま、大の字にころがって、静かに涙を流した。
 涙を拭こうとして手を動かしかけ、思わずうめいた。指先からひじのあたりまで火線が駆けぬけるような痛みが走った。
「くっ……」
そのとき、何かが指に触れた。ルークはびくっとした。それはぎこちなく動き、ルークの指を見つけると、そっと握ってきた。
「ヘンリー?」
ルークが聞くと、か細い声で聞き返してきた。
「生きてるか?」
「どうやら、そうらしいね。死んだら、楽なのに」
言わなくてもいいことが、つい、口から出てしまった。ヘンリーは黙っていた。
「ほら、ハゲタカがぼくたちをねらってる。もう少しだから待ってなよ、きみたち」
いきなり口の中に、何かがこみ上げてきた。痛い首をなんとかひねって、吐き出した。血の塊だった。げほ、げほ、とルークはしばらくむせた。
「ルーク」
か細い声でヘンリーが声をかけてきた。声はルークの、頭の上のほうから聞こえた。すぐそばに、ヘンリーも横たわっているらしかった。
「なに?」
「一つの国家が在るには、何人の人間が必要か、知ってるか?」
ルークはめんくらった。
「なんだい、いったい?」
「いいから、答えろ。何人だと思う?」
「わかんないよ、そんなの。だいいち、関係ないじゃないか」
「じゃあ、何が関係あるんだよ。ハゲタカか?」
 目の上を殴られたらしい。半分しか開かない目で、ルークは空を見上げた。草木のかけらもみあたらない、荒涼とした岩肌、寒々とした霧。世界は、明るい灰色の中に沈んでいた。
「ハゲタカ……の話なんか、したくないな」
「じゃあ、おれの聞いたことに、答えてみろよ。一つの国家が在るには、何人の人間が必要だ?一番小さい国家は、何人でできる?」
「ええと、そうだね。2人、かな」
ヘンリーは、はは、と笑ったようだった。
「なんだ、知ってたのか」
「なんのこと?」
「昔、家庭教師のクソじじいが言ってたんだ。王が一人、民が一人。それで国家ができるって。民は王に忠誠を与え、王は民に庇護を与える。それが国家の基本だ」
「知らなかったよ」
「ほんとか?おまえときどき、とんでもないこと知ってるじゃないか」
「国家の基本は知らなかったよ、ほんとに。でも、一人きりじゃさみしいだろ。人が一人いて、思いやりとか、愛情とか、そんなものを与える相手がいて、そしてその相手も、そんなものを返す。だから、2人。そう思ったんだ」
ルークは痛まないようにそろそろと指先に力をこめて、ヘンリーの指を握った。ヘンリーは、そっと握り返してくれた。
何かが額にあたった。雨粒だった。そういえば、霧がわいていた、とルークは思った。

 デール王は苦笑いした。
「コリンズの家庭教師に、少しきつく言っておかなくては。国家の基本は、哲学科で最初に学ぶことですよ」
「おれ、哲学、嫌い」
コリンズはふくれた。
「なあ、国家って、何人要るの、父上?」
「2人だよ。王と民が、最低一人づつ必要なんだ」
ヘンリーは指で地図をたたいた。
「だが、この国は王がいない。王という名の信頼の象徴を失っているんだ。みんな自分の属する狭い集団のことしか考えていない。だから、国家とはいえない」
「誰かが、“おい、みんな、仲間割れやってる場合じゃないぞ”って言えばいいんだな?」
「コリンズの言うとおりです」
デール王は微笑んだ。
「わが国の王太子は、なかなか見所があるのではないですか、兄上?」
「まだまださ」
ヘンリーは肩をすくめ、視線をどこか遠いところへめぐらせた。
「あのときあいつは、コリンズよりずっと小さかったのに、ちゃんと知ってた。そうだ、国家というものは、信頼の交換でなりたっているんだ。そして」

 雨粒は、やがて、ぱらぱらと顔の上に落ちてきた。ハゲタカは退散したようだった。ルークは舌で口の周りの水滴をなめた。吐いた血のねばねばが落ちて、気持ちがよかった。
「ねえ、国家って、2人いればできるって言ったよね?」
ルークは言った。
「ああ」
「じゃあ、今このときだって、国を作れるね、ぼくと、きみで」
「なんだって?」
「ヤマノウエ王国。それとも、ハゲタカ王国?セナカゴツゴツ王国かな」
ヘンリーは答えなかった。
「ヘンリー?」
ルークの指先を握る手に、ぎゅっと力が入る。それは、細かく震えていた。
「おれと、おまえの、くに?」
「うん。そうだよ」
 小さな嗚咽が聞こえた。ヘンリーが泣いていた。 世界一高い岩の峰の、谷底へむかって突き出した岩棚で、無残な死骸の折り重なった小山の上、ルークはあおむけのまま、大の字にころがって、雨に打たれていた。自分のものといえるものは、なにひとつない。ただ片手に、親友の信頼を握りしめるだけだった。
「約束だよ。ぼくときみの、2人だけの王国」