パステルワールド

   蛇口をひねると熱い湯がほとばしり出た。髪の中に指を入れてばしゃばしゃと洗い流し、シャンプーの人工的な香りが漂うのにまかせた。
 ぎゅ、と手で髪を絞り、シャワー室を出て、タオルを取った。等身大の鏡の前で、水気をふき取った。鏡に映る男の顔は、ごく当たり前の表情をしていた。
「慣れたよな……」
魔法のように出てくる湯にも、ものすごく大きなガラス板にも。本来の自分にとっては、たいへんな奇跡だというのに。
 風呂場から出てくると、ルームメイトが帰ってきていた。
「よお」
それだけ言って、冷蔵庫から冷えた缶ビール(ノンアルコール)を取り出し、リングを引いて口元にあてがった。
「ただいま」
ルークはおだやかにそういって、買ってきたものを広げた。
「おいしそうな魚があったから、今夜はなんかつくるからね」
「サラダは買ってあるぞ。パスタ入りのやつ」
「ああ。あれは好きだよ」
 二人でシェアしている2Kの部屋からは、ラインハット市の大通りを見下ろすことができた。さわやかな秋の一日が急速に暮れていこうとしている。通りを挟んで向かい側のアパートのガラスに、夕焼けが反射していた。
「おれ、ちょっと手紙書くよ」
「メールじゃないの?」
「マリアになんだ」
ルークが笑った。
「そうか。あっちには電子メールは送れないよね」
そうなのだ。この手紙は、数百年前に送ることになる。
 紙はコピー用紙、ペンは万年筆。羊皮紙と羽ペンと大差ないようだが、初めてこちらからあちらへ手紙を送ったときは、マリアはじめひどくびっくりしたらしい。
「愛しいマリア。そっちからの手紙届いたぞ。いろいろ心配かけてごめんな」
亭主が仕事を中断して別の世界へ……数百年後の未来へ行きたいと言いだして、即座に承知してくれる女房なんて、めったにいない。
「探索については、こないだの報告からあまり変化がないんだ。向こうからの接触を待つしかない。けどマリアが心配してるのはこっちの暮らしのことだろうから、ちょっと書いてみる。まず、金の心配はほとんどいらない。城の宝物庫から持ち出したブツは高く売れたよ」
ちょっとした宝石付きの装身具やエナメル細工の小物だったのだが、れっきとした本物だし、いい値がついた。ただひどく古風なデザインのわりにま新しいので“よくできたレプリカ”で通した。
「それと、手に入れた身分証明で俺もルークも仕事を見つけた。今までのところ、なんとかしっぽを出さないで済んでる。工事現場……大神殿に毛が生えたみたいなヤツな?を覚悟してたんだが、もうちっと楽な仕事があったんで助かった。おかげで家も借りたし、食い物も着る物も不自由してない」
 キッチンからいい匂いがし始めた。ルークが魚の下拵えをして、バターで焼き始めたらしかった。
「こんなに楽でいいのかと思うくらい楽だよ」
そこまで書いて、ヘンリーはペンを止めた。
 事情があって数百年後のラインハットで親友と二人暮らしをしている。その生活を伝えるのに、楽だ、なんて言葉でいいんだろうか、とヘンリーは思う。
 寝ても起きても一緒で、メシを作ってもらったり、掃除してやったり、二人で買い出しに行ったり。これは要するに、いわゆる、そのう、ど、同棲なんじゃねえ?
 こほ、と一人で照れて咳払いをしてみた。
「ソース、アンチョビでいいかい?」
「お、おう!」
いきなり言われて少々あせった。
「おまえの好きなんでいいぞ」
「わかったー」
もう一度咳払いをして、またペンを取った。
「よかったら、コリンズつれてこっちへ来るか?一晩くらいなら泊まれる」
そう書こうとして、ヘンリーはためらった。
――ごめん、マリア。
「こっちのラインハットで、いいもん見つけたんだ。手紙といっしょに送るよ」
スーパーにあった、ただのお菓子だった。中心にナッツを入れた小さな球形のチョコレート。ひとつひとつ違う色の紙で包んである。ベビーピンク、クリーム色、ミントグリーン、ラベンダー、薄いオレンジ。透明なフィルムバッグに入れて、真っ赤なリボンで上を結んであった。
「かわいいだろ?これでも食べて、ちょっと待っててくれ。今度一回帰るからな」
こちらの時間でひと月ほどたっている。一度戻ってデールに報告を入れないと、心配で鬱になり始めるだろう。
 食器のふれあう音がした。ルークが食事の準備をしているらしかった。
「ご飯できたよ」
 とりあえずおれはいい子にしている、とヘンリーは思った。いたってピュアで清潔なもんだ。誰も裏切ってない。うん、大丈夫。
「うまそうだな」
そう言って、ペンと手紙を脇にのけた。
 親分のメンツにかけて口元がにやつくのをヘンリーは抑えている。物見遊山で来たわけではないし、危険も不安も現にあるが、これはこれで無上の幸せ。世界中がパステル色のような、幸せなおままごとの二人暮らしだった。