大都市の片隅で 第二話

 古めかしいジャズ、しかもレコードの音色が、低く流れていた。クールなブルーノートは、店長の趣味らしかった。暗めの照明、余計な飾りのない店の中で、大人の男女がカクテルを手に、ささやき交わしていた。
 奥まったテーブルのひとつにも、そんなカップルが座っていた。だが、ほかと比べて、どことなく、雲行きが怪しかった。
「うそだ!」
そのテーブルから、突然男の声がした。同時に椅子の倒れる音、女の悲鳴、グラスが床に落ちて割れる音……
「課長」
「しっ」
グレイは、しぶしぶ腰を椅子へもどした。
 ボーイが、あわててカウンタに寄った。
「ルークさん、どうしましょう。店長、さっき出かけちゃったんですよ」
肩にかかる黒髪を後ろで束ね、白いシャツに蝶ネクタイの若いバーテンは、たった今作ったオールドファッションを客の前に出して、失礼します、と言った。そのままカウンタの端をはねあげて、店内へ出てきた。
 グレイは思わずつばを飲んだ。手を伸ばせば触れられそうなところを、彼が、無造作に歩いていく。
「遊びだったってのか!考え直せよ、おれは……ばかにしやがって!」
客は大声で叫んでいたが、いきなり興奮したように片手を挙ふりあげ、連れの女の顔を打とうとした。
「お客様」
振り下ろした手は動かなかった。ルークの手が客の手首をしっかりととらえていた。
「じゃまするなっ」
空いた手で客はルークを突き飛ばそうとした。その手もルークは、難なく抑えた。じたばたする男に向かって、ルークは静かに言った。
「その人が、泣いています」
男は動きを止めた。おびえて泣く女と目があった。男はうなだれ、涙ぐんだ。
「本当に、おしまいなのか……」
ルークは男の手を放し、そっとカウンタの方へ押し出した。
「何か、おつくりします。僕でよければ、お話をうかがいますから」
男はそれ以上逆らうこともなく、疲れたようすでカウンタの前に腰掛けた。ボーイがさっと女に近寄り、隠すように出口へ連れて行くのが見えた。
 隣で課長が息を吐いた。
「そう。人間にも、彼の聖なる力は働くということね」
「モンスターと心が通うなら、酔っ払いぐらい、なんでもない、ですかね」

 11時をまわったころ、ヘンリーが店にやってきた。カウンタにすわると、何も聞かずにルークがカクテルをよこした。
「ほら、きみのスペシャル」
「ありがとよ」
あまりうれしくなさそうに受け取って、ヘンリーはくちびるを付けた。
「今度のベースはなんだ?」
ははっと小さくルークは笑った。
「ジンジャーエールにリンゴジュースをまぜてみた。でもグラスの縁にオレンジをつけたから、お酒みたいに見えるだろう?」
「お気遣い、感謝するよ」
ぶすっとした口調でヘンリーが言った。
「なんでおまえは飲めるのに、おれはだめなんだろうな」
「最近読んだ本には、体質だって書いてあったよ?」
「へいへい」
「ごはん、まだかい?なにか作る?」
「パスタがいいな」
「うん。待ってて」
カウンタの隅で用意をする彼に、ヘンリーが声をかけた。
「お互い、バイトをいろいろやっててよかったな?」
「芸は身をたすけるね」
さきほどふられた男は、酒をすすりながら長い打ち明け話をしていたのだが、ルークが辛抱強く聞いてやっているうちに気がおさまったのか、今はカウンターにうつぶせて、眠り込んでいるようだった。
 課長は小さく頭を振った。 
「接触するわよ」
「店の中でいいですか?」
課長はためらった。
「とにかく、あたりをつけてみるわ。逮捕は、彼らが店を出てからにしましょう。人けのないところへ誘導します。抵抗するようなら」
課長はくちびるを引き結んだ。
「武器の使用を認めます」
課長とグレイは、そろってカウンタへ席を移した。酔っ払いをはさんで、ヘンリーのとなりという位置だった。
「いらっしゃいませ。なにをさしあげましょうか?」
「ソルティ・ドッグを」
「はい」
グラスを選び、酒をそそぐ手つきが堂に入っていた。
「聞き上手なのね?」
と課長が言った。小さな微笑がバーテンの口元に浮かんだ。
「人の話を聞くのもぼくの仕事です」
「じゃ、あなたのことを聞かせて?」
ルークは顔を上げた。
「だめかしら?」
「自分のことを話せといわれたのは、初めてなので」
「いいから。お生まれはどこ?」
ルークはカクテルを紙のコースターに乗せて課長の前に置いた。
「生まれはグランバニアです。母は早くから別居でしたので、子供のころは父といっしょにあちこち旅行していました。そこにいる彼とは、そのころラインハットで知り合って、それ以来」
にや、とヘンリーが笑った。
「腐れ縁だよな」
「ぼくは、友だちだって言おうとしたんだよ?」
「ああ。いっしょにくさい飯食った仲だ」
「きみが言うと、みもふたもないね」
課長は、向きを変えてヘンリーのほうを見た。
「あなたは?」
「おれはこいつと幼なじみで、バイト仲間かな。こいつの結婚式では付き添いもつとめたことがある」
「仲がいいのね」
「そりゃあもう。今はこの近くで、家賃を分け合っておれたち二人とペットで住んでるよ」
ヘンリーはため息をついた。
「どこかにペットフードの安いスーパーないかな?こいつがペット好きなんで、エサ代だけで一苦労なんだ」
「何を飼ってるの?」
ヘンリーはカウンターの方を向いて話し掛けた。
「爬虫類かな、あいつ?」
「シーザーのこと?うん、たぶんね。あの子は今度、帰すよ。もっと小さな方がやっぱりいいみたいだから」
「クックルにしてくれよ。小鳥のえさでいいんだから」
グレイはひそかにうなった。二人とも、一言もウソをついていないのだが、本当のことを言ってもいなかった。
 グラスの中で、氷がふれあう音がした。ルークは飾り気のないグラスをグレイの前に差し出していた。
「水割りです。どうぞ」
「あ、どうも」
課長は、酔ったような口調で自分のグラスを掲げた。
「乾杯しない?」
グレイはあわてて自分のグラスを手にとって、ソルティドッグにふれあわせた。かちん、と音がした。
「ヘンリーも」
どうやらジンジャーエールらしいグラスを、ヘンリーはかかげた。
「サングラスの似合う貴女に、乾杯!」
「あら、ありがとう」
「パスタができたよ」
ルークはきれいな色のソースをからめたスパゲティをヘンリーの前に置いた。
「いただきまーす」

 午前1時、店長が帰ってきて、ルークと交代した。それを機にヘンリーも店を出た。ブラウンたちも店を出て、このバーの裏口を監視できる位置へうつった。
「来たわ」
ヘンリーとルークは、なにか小声で話しながら、深夜のラインハット市を歩いていく。ブラウンは真後ろから、グレイは少し先行して、2人を追った。課長は少し離れたところに止めた車から、無線で指示を送ってくる。
 大通りは湖岸通りへぶつかった。右へ行けばラインハット国立美術館(元のラインハット王宮)、左へ曲がればラインハット大学の首都キャンパスである。湖の上を首都高速が横切っているので、橋の上の灯りが宝石のように見える。湖面に映る明かりとあわせて、大きな首飾りのようだった。闇の中に、古い伝統をもつキングデールズ・カレッジの尖塔が、ほのかに浮かび上がっていた。

(以下、未完)