大穴30倍 1.おちこぼれ

 ひときわ高く、ファンファーレが鳴った。
 すると、スロットマシンの前から、格闘場の予想屋の店先から、ステージのかぶりつきから、カジノ中の客が一方向へ向かって動き出した。
 ステージ横のバーで飲んでいた客の一団から、つぶやきがあがった。
「何か、始まるのかね?」
後ろから、物静かな声がした。
「お客様方、カジノは、はじめてですか?」
 ウェイターの制服を着た若い男が、片手の指先で真鍮のトレイを肩の高さに支えて立っていた。するりとトレイを差し出す。
「あのファンファーレは、スライムレースが始まる合図です」
客の一人がトレイからグラスを取った。
「ああ、オラクルベリーの名物なんだってね」
ウェイターは、唇の端にほのかな笑いを浮かべた。空のトレイを小脇に抱えて、彼はささやいた。
「話の種に、いかがですか」
 慇懃な態度と姿勢の良さ、優雅な身のこなしは、さすが天下のオラクルベリーのカジノで働くウェイターにふさわしい。が、彼の瞳は誘うような輝きを帯びていた。客は、つい、ふらふらとした。
「みんな、行ってみないか?」
 スライムレース場は特別な場所だった。カジノの経営者の意向で、ステージやバー、スロットマシンのあるあたりは、床や壁をえんじのビロウドで覆い、金の飾り金具をふんだんに使って、俗っぽいほどの高級感を演出している。だが、レース場の周辺は磨きあげた石の床で、その場に集うのは勝負師たちだった。独特の緊張感が漂っている。
 案内のウェイターがささやいた。
「大丈夫、どなたでも賭けに参加できます」
「あ、ああ。コースは、どこかね」
「部屋の中央に、大きな楕円形の台がございますね。あの上がスライムレースのコースとなっております」
客は台についた手すりにもたれて、中を覗き込んだ。かなり大きなトラックがそこにつくられていた。一ヶ所にスターティングゲートがあり、すぐそばに係員が待機している。
「スライムってのは、このカジノで飼ってるのかい?」
「はい。スライムの訓練所からレース係が選りすぐってきたものが、ここでレーススライムとして走る、と聞いております」
音楽がかわった。熱気のこもったざわめきがあたりにこだまする。
「よし、ひとつ、やってみるか。君、賭けはどこでやってる?」
ウェイターは、片手を上げて親指をぱちりと鳴らした。もう一人のウェイターが、気がついて壁際を離れてやってきた。
「お手持ちのカジノ用コインで、勝ちスライム投票券をお求めください。あちらの窓口です。彼がご案内します」
そして、新しく来たウェイターに、小声で言った。
「ルーク、窓口へお連れしてくれ」
「わかった。お客様、どうぞ」

 第4レースは、今始まったところだった。コースを見下ろすような高いところにアナウンス席が作られている。レース係が慣れた調子でレースの様子を説明していた。
「各スライム、いっせいにスタートしました。団子状態で最初の直線をあがっていきます!」
 上からだと平坦に見えるスライムレース場だが、実際のコースはかなりでこぼこしていて、左右にゆるやかな蛇行がある。あちこちにわざと大き目のこぶが残され、レーススライムはときどきそのこぶにひっかかって、転んでしまうのだ。
「先頭集団から青が飛びだしました。5コースですが……これはいれこみすぎですね。2コースのピンク、いいラインだ、こぶを上手く避けていきます。青、あせる、あせる、興奮しています」
行け、行け、いけっ!レース場のあちこちから、すさまじい歓声があがる。
「なにしてやがるっ、おれは最後の1ゴールドまできさまにつっこんでんだぞっ」
「緑行け、どんどん行け、そこだぁ、抜け!」
「休むなぁっ、きさま、本命だろうがっ、根性だせっ」
「大穴来ますように……青ちゃ~ん、がんばってくれよ。100倍近いんだぞ」
だが、無常な声が響く。
「おっと、転倒だぁ。青すっ転びました。こぶのすぐ前の穴にひっかかって、ばったりです。その横を黄色が、緑が、どんどん抜いていきます。青、完全、気絶です」
「ばかやろーっ」
「けっ、しょせん、大穴狙いなんて、こんなもんか」
青いレーススライムは、まだ起き上がれなかった。すっかり目を回している。ときおり、ぴくっ、ぴくっと痙攣した。どのくらいそうしていただろうか。ゲートから、レース係の助手がずかずかとコースへ入ってきた。ごみでも拾うように青スライムをつまみあげ、ゴールの方へ乱暴に放り出した。青は、さすがに気づいてきょろきょろした。
 レースは終わっていた。客も、カジノのスタッフも、他のスライムも、青に目をくれる者はいなかった。連勝複式、配当を告げるアナウンスが響き渡る。歓声、泣き声、周囲は悲喜こもごもである。
 ぽてっ、ぽてっ、と青のスライムは動き出した。あのピンクのスライムが、一位のご褒美に燻製肉をもらっているのを横目で見ると、青のスライムはとぼとぼと自分の住処である、せまい檻へ戻っていった。

 腰の曲がった掃除女は重そうなバケツをさげて、ぶつぶつと文句をいった。
「あたしだって、昔は踊り子だったんだ。ちょっとは売れてたんだよ。それをなんだい、今になって、スライムにエサをやれってのかいっ」
 華やかなカジノの地下は、壁から地下水の染み出すような、じめじめして薄暗いところだった。壁にくくりつけたわずかな灯りが、かえっていじましかった。
廊下の突き当たりの部屋の扉を、レース係の助手が、大きな鍵をまわして開けた。
「しょうがないだろ?いつもの世話係が休んでんだから。あんまりぶつくさ言うとグールドさんがうるさいぜ?ばあさん、お情けで仕事もらってんだろうが」
「おまえさんこそ、いい若い者だろう!スライムの世話ぐらい自分でやったらどうなんだよ」
「気持ちが悪いんだよ、おれ」
「誰だってそうさね」
扉の奥は、狭くて湿気があり、奇妙なにおいがしていた。その中に檻がいくつも並んでいる。エサの香りを嗅ぎつけて、スライムたちが興奮してわめいていた。
「やっぱり、いやだよぅ。おまえさん、行っておくれ。日当の割増はいらないからさ」
 このカジノの経営者は、サイクスという商人だった。掃除婦や下働きは、このサイクスに時給ではなく、一日いくらで雇われている。もちろん、早出に、サービス残業だった。支配人はグールドという名の男で、人事コストにはとりわけうるさいたちである。
「おれかぁ?あいつさえいなきゃ、行ってもいいんだけどさ」
「青かい?」
「ああ。今日も転んだんだよ。またふてくされてるぜ。やつにもエサはやらにゃならないし。けど、あいつ、扱いにくいしな。ばあさん、行けよ」
「やなこった」
「じゃ、どうするんだよ」
 そのとき、声をかけた者がいた。
「ぼくが、行きます」
掃除女と助手は、いっしょにふりむいた。声をかけたのは、アルバイトのウェイターだった。
「あんた、ええと、ルークって言ったっけ?」
ルークは、はいと言って、掃除女の手からエサのバケツを手に取った。
「じゃ、じゃあ、頼んだよ」
「はい」
 ルークは、掃除女の方を見て、ふっと笑った。ウェイターの制服に、黒髪を後ろでひとつに束ねただけの、飾り気のないかっこうだったが、その涼しい目が印象的だった。
 掃除女はとまどった顔になった。
「にいちゃん、その、青いのには気をつけなよ。特に今日はふてくされてるからさ。檻の間からエサをつっこんでやればいいんだよ」
ルークはスライム部屋へ入ると、次々と檻をあけていった。腹をすかせたレーススライムたちが飛びだしてきた。
「何やってんだ?青も開けちゃったぜ。あのにいちゃん、無事だといいがな」
誰かがクックッと笑った。
「じゃ、賭けるかい?」
いつのまにか、彼らのそばに、もう一人のウェイターが来ていた。
 助手はあきれたように言った。
「ヘンリー、おまえ、ウェイターがあんまり地下へ来るなよ」
「相棒がどうしてもって言うからさ。けど、ルークなら、どんな問題スライムでもおとなしくなるぞ。賭けてもいい」
相手がどこの誰であろうとも、レース係の助手は、賭けに目がなかった。特に、勝てそうな賭けには。
「よっしゃ、乗った。青がルークに逆らったら、5ゴールドいただくぞ?」