泣き虫親分 8.十数年後

「あの子は今、どうしている?」
オレストはにやりとした。セイラが咳払いをした
「少々、お粗相のことがありましたので、城内でお着替えになっておられます」
尊大なふくれっつらのランスは驚きと恐怖のあまり、ちびってしまったらしい。
「レンフォードの家のものには、口どめしておいてくれ」
「かしこまりました」
 フランクじいのひざの横で、ヘンリーが寝返りをうった。むにゅむにゅ、と何かつぶやいたようでもあった。
 エリオス王はいたずら坊主の顔を覗き込んだ。
「何を話し掛けても、“はい、父上”くらいしか言わないのだからな。かわいげのないやつよ。余よりも、フランクじいに、なついているらしい」
何気ない口調だった。が、オレストは王の表情を見て、はっとした。

 ヘンリーはケープを首からはずすと、片手の指で肩からひっかけた。
「そうだった、ランスの野郎、あのときすっかりびびってやがったんだ。会議でごちゃごちゃ言ったら、ちくちくいじめてやるか」
エリオス王にそっくりの、だが、はるかに生気に満ちたやんちゃな顔だった。
「ヘンリー様、お手柔らかに」
オレストが言うと、ヘンリーは向き直って言った。
「トムから聞いた。フランクじいとばあやは、おれがさらわれてからすぐ、亡くなったんだってな」
「はい」
ヘンリーが誘拐され、城が大騒ぎになった時期、二人は相次いで病死した。二人とも、ヘンリーは帰ってくると最後まで信じていた。
「おまえが弔いの世話をすべてやってくれたと聞いた。あらためて礼を言うぞ」
「二人とも、今はさぞ、安らかでしょう。当時の悪童ども、ヘンリー様の子分たちが、今も墓を守ってくれています」
オレストが何人かの名前をあげると、それまで黙っていたユージンが言った。
「ああ、それで。ヘンリー様の子分だったのですね?みんな、信頼できる働き者ばかりですよ」
「そうだろう?ユージン、目をかけてやってくれよ」
ヘンリーは少し笑った。
「オレスト、おまえと一緒に追いかけてきたあの、チャーリーとか言う兵士はどうした?」
「ディントンの反乱と呼ばれている事件のときに戦場で負傷しまして。今はラインハットの下町で酒場のおやじをやっています。時々、呑みに行きますよ」
「そうか。生きているなら何よりだ。ついでに聞くが、あいつら、マックスとテディは、今何をしてるんだろうな?」
ユージンがすらすらと答えた。
「マクシミリアン殿の不祥事続きが原因で、トレヴィル家は廃絶されています。当主のマクシミリアン殿は行方知れずです。ハイゲイト家は、経済的な原因で領地のほとんどをグレイブルグのユリア様に売却したはずですが、ご一家は少しだけ残った領地で細々とお暮らしとうかがいました」
「あいつらじゃしょうがないか。貴族なんて名がつくほうが、浮き沈みがすごいよな。アドリアン叔父、オーリン叔父……」
エリオス王亡き後、一人は反逆に問われて刑死、一人は病死だが、毒殺とも言われている。ややうつむいたヘンリーに、オレストは気をそらせるように話しかけた。
「あとはあの、侍女殿ですが、エリオス様がお亡くなりになったあと、おひまをもらったそうです」
セイラと呼ばれていた、生真面目でかわいらしい侍女をオレストはよくおぼえていた。あれから城内ですれちがったりしたことはあったが、話らしい話をしたことはない。が、城内の侍女たちにはない、どこまでも誠実なその気性が印象的だった。
 デール王即位の直後に暇を出されて実家へ帰り、結婚した、と聞いとき、オレストの胸が不思議な痛みを覚えたのだった。
「セイラなら、最近会ったぞ」
「え」
「義母上の侍女のセイラだろう?義母上の離宮にいたぞ。結婚して、旦那さんがなくなって、また勤めに出たらしいな」
「そ、そうですか」
「今でも美人だよな?」
ちら、とヘンリーが横目で見た。オレストは危険を悟って明後日の方を向いた。
「小官はまことに無骨者にて、婦人の美を鑑賞する能力には欠けるものが」
「何を緊張しているんだ、あ?そのうち離宮へ行くときに供をしてくれ」
「わ、わたくしは」
「申し付けたぞ」
すっかりにやにやしていた。オレストは、こほん、と咳払いをした。
「なぜ、お聞きにならないのですか」
「なにを」
「エリオス様のことです」
けっ、というような声を出して、ヘンリーはくるりとむきをかえた。
「あんなやつ、知ったことか!」
「お父上でしょうに」
ヘンリーは、フロアの一角に飾られたエリオス王の肖像画につかつかと近寄った。絵の中の父に面と向かって、ヘンリーは憤懣をぶちまけた。
「ああ、そうだよ。だが、父親としても夫としてもまったく無能だ。家庭内のごたごたを全部デールにおっつけやがって!ついでに国王としては怠け者だ。反対されるから何もやらない?それでよく王冠をかぶってられたもんだ!パパス王の爪の垢でも煎じて飲みゃあよかったんだ。こんな絵、はずしちまえ!」
「ヘンリー様!」
「……くわえて、親父は鈍感だった。おれが、フランクじいのほうになついていると信じてたんだから」
最後のほうは口の中にこもって消えた。
「エリオス様がそうおっしゃるのを、聞いていたのですか?」
「ああ。あのときな、寝たふりをしていただけだ」
オレストは、ためいきをついた。
「目をあけていらっしゃればよかったのです」
「親父の顔なんか、見たくなかったんだ」
ちょっと唇をかみ、叱られたいたずら坊主のような表情でヘンリーは顔をそむけた。
「エリオス様は、微笑んでおられました。その表情を、つい最近、拝見しましたよ、ヘンリー様。コリンズ様を腕に抱いておられたとき、あなた様の、顔に」
ヘンリーは顔をあげた。何か言いかけて、口をつぐんだ。ヘンリーが愛妃マリアの産んだコリンズ公子を親馬鹿なまでに溺愛していることを、周囲の人間はよく知っていた。
 オレストに背を向けるようにして、ヘンリーは肖像画を見上げ、つぶやいた。
「なんで言わなかったんだろう、おれも、あんたも。”本当は愛しい”と……」
オレストは声をかけようとしてためらった。オレストの位置から、ヘンリーの横顔がわずかに見える。
 絵を見上げるヘンリーの瞳からそのとき、透明な涙があふれ出て、頬にそい、音もなく流れ落ちていった。