泣き虫親分 7.おひるね

 ラインハット城最上階、国王のプライベートエリアの入り口で、警備兵は無愛想にうなずいて、通ってよし、と言った。
 オレストは緊張していた。自分の兵装をざっと点検して、気合を入れ、セイラという侍女について扉をくぐった。
 広々として贅沢な部屋だった。壁際に大きなソファがあり、フランク老人がこしかけている。その横にヘンリーがいた。セイラから聞いたときは半信半疑だったが、実物を見てほっとしたあまり、オレストは全身の力が抜けそうになった。
「ヘンリー様、生きて……」
「しっ、警備兵殿」
フランク老人が小声で言った。
「ヘンリー様は眠っておられるよ」
近づいてみると、ヘンリーは寝息を立てていた。こ憎たらしい表情が消え、いかにもあどけない、子どもの顔になっている。横顔の輪郭が愛らしい曲線を描いてふっくらとし、やわらかいほほにそばかすが散っている。ピンク色の上唇の真ん中がちょっと突き出されてとがって見えるのが、乳飲み子そのままだった。
 フランク老人は目を細めた。
「隣に座っておられたのだが、エリオス様のおいでをお待ちしているうちに寝入ってしまわれたのじゃ」
「今日は、はしゃいでおられましたから」
オレストが言ったとき、誰かが、クックッと笑った。
「ただ、はしゃいでいただけ、と言うのか、あれが?」
 エリオス王だった。どうやら着替えてきたらしく、庭園で着ていたのとは違う服を着ていた。肩から背中にかけて広がる大きめのケープは深い青の絹地、光沢のある茶色の糸で花々と小鳥が重なり合うような意匠の刺繍がほどこしてある。上着のカフスは同じ地色に金茶色の刺繍そこからレースの袖口がのぞいていた。
「たちの悪いいたずら、の間違いであろう」
オレストはあわてて最敬礼した。エリオスは軽く手を振ると、高い背もたれのついた大きな椅子に悠々とすわった。
「エリオス様!」
フランク老人が言った。
「若様はこのじいを牢から出そうとしていろいろと悪さをしなさっただけじゃ。どうか、若様をひどくお叱りにならんでくだされ」
「そんなことは、わかっている」
と、エリオスは言った。
「じいを助けたいなら、余に一言、頼めばよいものを。まったく、かわいげのないことだ。じいも、昔はもっときびしかったぞ?ヘンリーには甘すぎる」
フランク老人は、歯の抜けた顔で笑った。
「じいめも、年をとりました」
しわのよった指で、そっとヘンリーの頭を撫でた。
「ふん」
と、エリオス王はつぶやいた。
「この子の死んだ母親は、もっと思いやりのある優しい女だったのに、まったく誰に似たのやら。そう思わないか、そなた、ええと、オレストであったか?」
いきなり名前を呼ばれてオレストは驚いた。
「は、はあ」
「忘れたわけではあるまい?タンズベールからヘレナが輿入れしたとき、警備に当たった兵士の一人であったろう、そなた」
 オレストは絶句した。剣技をかわれて一般兵士から、王族警護のための警備隊へ昇格しての、それは初仕事だった。
「おそれいります」
はは、とエリオスは笑った。
「覚えているか?ヘレナは、清楚な娘だった。かわいらしくて、何事につけて余を頼る風情なのが愛しかった……仕事で外国へ行かなくてはならなかったとき、あれを残していったのが痛恨事だ。さぞ、心細かっただろうよ」
エリオスはためいきをついた。
「身重の身で、海千山千の宮廷でひとりぼっちでは、な」
オレストは、とまどっていた。ラインハットで最も高貴な位にあるこの男は、たいそうものうげで、また孤独に見えた。
「ヘレナが逝ったとき悲しみはあふれるほどだったが、ほっとしたのも本当だ。あれの父親はタンズベール伯爵だったからな」
オレストは恐る恐る口をはさんだ。
「恐れながら陛下、タンズベールのお殿様は、私心のない立派なお方です」
「ただの頑固親父だ」
にべもなくエリオスは言った。
「自分が正しいと信じている男は始末が悪い、まったく。よかれと思って、余に政策を押し付けてくる。余の知る限り、自分が正しいと思ってなおかつ、押し付けがましくない男は一人だけだ」
エリオスは、手であごを支え、視線を窓の外へ流した。
「懐かしいな。あのころただ一度ラインハットを出てグランバニアへ赴いた。余が、王位に着いた後、本当に生きていた、と思えるのは、あの数ヶ月だけだったのだ……」
 下町の職人なら居酒屋でくだを巻くところなのだろう、とオレストは思った。王ともなると、皮肉に包まなければ愚痴さえ言えないらしかった。
「お会いになりたいのですか、その方に?」
エリオスは、頬杖をはずしてオレストを見上げた。オレストは赤面した。
「お許しください、立ち入ったことを申しました」
「いや、よい。そうだ、会いたいな。あの男に……信念を曲げぬ、誇り高き男。国民の安全のためだからといって、城の中に町を作ってしまったのだよ、彼は。余がそんなことをやったら、クレメンスなりタンズベールなりが大騒ぎするだろう、“前例がございません”と、な」
フランク老人が言った。
「皆様は、陛下のためを思っておっしゃったのですぞ?」
「そうだろう、そうだろうよ」
上の空でエリオスは答えた。
「だがあの男は、どんな反対も意に介さなかった。己の信じるところを貫いた」
「そういうのは、頑固、というのではないのでしょうか?」
オレストが言うと、エリオスはくっくっと笑った。
「そうさ。石頭だろう?もう、口を開けば、民が、国が、そればかりだったよ。それほど大事なものを、あいつはとある乙女のために捨て去って省みなかったんだ。それでこそ男だと思ったね」
「その御婦人は、お美しい方だったのですか?」
「不思議な瞳の美少女だったよ。あいつも、彼女も、出会った瞬間からお互いを見つめて動かなかった。ほっておいたら朝までつっ立ってたんじゃないかな。絵に描いたようなひとめぼれだ。すぐそばに、余がいたのだぞ?だが、ラインハット一の伊達男もかたなし、まったくお呼びじゃなかった」
 エリオス王は、懐かしい思い出に微笑んだ。一瞬、物憂げな様子が消え、目に生き生きとした輝きが宿った。が、それはすぐに消えた。
「オレスト、今日のことだが、あまり角を立てたくないのだ。ヘンリーはおまえが捕まえた、ということにしておいてほしい。フランクじいも、胸一つに収めてくれるか?」
「ようございます」
「承知いたしました。しかし、レンフォードの若君は、どういたしましょう」