泣き虫親分 1.猫いじめ

 国境の河が太陽を反射してきらめいた。
 オレストは、急ぐ足をつい、とめて、ラインハット城最上階からの雄大な眺望を楽しんだ。
 ラインハット城の、国王一家の生活区である。先代国王エリオス六世の死去のあとは、摂政太后時代のアデルが使っていたが、現国王デール一世は、病室を兼ねた自分の子ども時代の居室を好んでこのフロアには住まなかったために、長いこと、ここの住人はいなかった。
 だが、このほど、王国宰相ヘンリーが国内の貴族たちと一月に及ぶ長い交渉を行うことになった。グランバニアから帰国したばかりのヘンリーは、新妻マリア大公妃と生まれたばかりのコリンズ公子とまた離れ離れになるのは避けたいという意向で、妻子をオラクルベリーの自宅から呼び寄せ、大公一家はこのフロアに仮住まいをすることになったのである。
 国王の私室の方からヘンリーの声がした。
「こんなことまで任せてしまってすまない、ユージン。いや、叔父上」
ユージン・オブ・タンズベールはヘンリーの母、亡きヘレナ王妃の弟に当たる。
「もったいないことをおっしゃいます。城のやりくりなら慣れたものです。どうか、お気使いをなさいませんように」
 ユージンはこの甥のために、立法行政関係の庶務、総務をすべてこなす、腰の低い良識人だった。長いあいだしめきりだったこのフロアの改装を一手に引き受けたのも、ユージンである。
「なにもユージンが走り回ることはないんだ。部下の人手が不足なら、なんとかするよ」
「城内の裏方はメルダをはじめ、信頼できる者をかなり確保しています。できますれば、殿下、人手は城内管理よりも総務の方面にお願い致します。元老会議の会期が始まりますと、格の高い公文書の発行だけでひと手間になりますので」
「あ~、あの頑固じじいどもが!」
 元老会議というのは、ラインハット王家を築いた初代国王の部下だった武将たち、すなわち創業の功労者たちによる会議のことだった。現在では貴族階級の代表会となっている。
 ヘンリーの国外出張中、押され気味の貴族たちはやっと反目を乗り越え、代表を立ててデール王に抗議を申し立てたのだった。
 すなわち、宰相ヘンリーの改革はラインハットの伝統に反するものであり、承服しがたい。願わくは元老会議のなかから宰相を新たに任命していただきたい、と。
「とにかく形が第一だからな、あいつらは。会議召集の通知の羊皮紙にちょっとでも安物を使うと、ないがしろにされた、と大騒ぎしやがる」
ユージンは苦笑した。
「こちらをゆさぶる作戦でもあるのでしょう。元老会議代表のクレメンス老候はとにかく、ご子息のクレメンス子爵は、そのくらいは考えるお人のようです。これから一月、こちらもしっかりしなければと思います」
 宰相罷免については、デール王はきっぱりと断った。引き続き代表団は元老会議の開催を要求してきた。その会期に当たる一ヶ月間、ヘンリーは既得権を主張する彼ら貴族たちと、渡り合わなくてはならなくなったのである。もっとも、ヘンリーは自信満々だった。
「一月なんて、要るもんか。三日でまるめこんでやるよ。でも、そう言えば、クレメンスのじじいに娘がいるのは知っていたが、せがれがいたかな」
 ロイヤルフロアの入り口の警備兵から敬礼を受けて、オレストは中へ進んだ。見覚えのある豪華な室内の中央に二人は立っていた。
 一人はユージン、もうひとりは。
 オレストの足が止まった。
 そこに、貴公子が立っていた。肩から背中にかけて広がる大きめのケープは深い青の絹地、光沢のある茶色の糸で花と小鳥がびっしりと刺繍されている。ケープの下からのぞく袖口は同じ地色に金茶色の刺繍、そこからブラウスの袖口のレース飾りが見えていた。
 貴公子はふりむいた。
「オレストか。どうした?ああ、これか。親父のおふるだ。これでも、ワードローブで一番地味なやつなんだぞ」
 オレストはこわばった顔をなんとかほぐした。
「驚きました。先代の国王陛下が立っておられるのかと思いまして」
「バカ言え」
うるさそうにケープを肩越しにはねのけて、彼、ヘンリーは一歩踏み出した。
「クレメンス子爵ってどんなやつだか、オレスト、知らないか?」
オレストは思わずにやりとした。
「殿下は覚えておられませんか。ランスロット・オブ・レンフォード殿、クレメンス家の令嬢と結婚して、婚家の称号を名乗っておいでです」
「ランスロット?あのランスか?」
記憶を探っていたヘンリーの目が、大きく見開かれた。
「ランス、マックス、テディでしたか。殿下の遊び友達でしたな。懐かしいことだ」
「遊び友達じゃねえよ」
一種、物騒な笑みをヘンリーは見せた。
「おれのケンカ相手だよ」

 狂ったように走り回っていた猫は、手桶いっぱいの水をぶちまけられてやっと停まった。尻尾にくくりつけられた花火(こよりに火薬を巻き込んだおもちゃ)がようやく消えたのだ。猫はぶるっと震えると、城の中庭を横切って、厨房の方へ走っていった。
「なんだよ。おもしろかったのに」
七、八歳の、身なりのいい少年が、口を尖らせてそう言った。彼の後ろには、同じぐらいの年齢の子どもたちが数名かたまっている。
「黙らっしゃい!」
いかにも頑固そうな年寄りが、手桶を下げたまま、いたずら小僧どもをにらみすえた。
「昔なら、おまえさん方の年なら従者として戦場へ出たものじゃ。こちらを殺す気で襲ってくる敵のいる戦場へな。それがなんじゃ!おまえらは、猫いじめか!己より弱いもんを相手にしてどうする!」
 一番前にいた、緑の髪の男の子が、聞いているうちに、しょんぼりしてきた。ピンク色の唇を噛み、青みがかった緑色の目に、真剣な光をたたえる。それは、ほっぺがふっくらしていても、そこにクリーム色のそばかすがあっても、着ている物が、ひらひらの襟のついたブラウスにタイツタイプのズボンというお坊ちゃまスタイル(ただし上着はなくしちゃった)でも、まったく減じることのない、“本気で後悔している”真剣さだった。
 警備兵オレストはそれを見て、肩の力を抜いた。
 城の中庭に面して厨房がある。警備の巡回中、厨房の飼い猫がすごい勢いで走っていったので、オレストは見に出てきたのだった。
 案の定、第一王子ヘンリーが、悪がきどもを引き連れて、乱暴な遊びをしている最中だった。
 チャーリーという警備兵がオレストの後ろから見に来ていた。
「フランク爺さんか。あのじいさんなら何をやってもお咎めなしだからいいや。よかったな、オレスト」
 フランク老人はオレストたちの先輩に当たる。一介の兵士だったが、戦場で手柄を立てたため、老妻と二人、城の中で隠居を楽しむ身分となっていた。家族はないが、小さなヘンリー王子に昔話などをしてかわいがっているのをオレストは知っていた。
 チャーリーは首を振った。
「おれたちが叱り付ければタンズベール伯爵からにらまれるし、見逃したのがわかれば王妃様から叱られる。どうしろって言うんだよ、なあ?」
「悪いことをしたら叱る、それじゃだめなのか?」
「おまえってやつは!」
チャーリーは、あきれたような顔になった。
「単純すぎだ。城づとめはそういうもんじゃないぞ。お、見ろ」
 ヘンリーにくっついて猫いじめをやっていた子どもたちは、たいてい城で働く者の家族だった。常駐する軍隊のための鍛冶職や、城の厨房、倉庫等の下働きである。ある程度年齢があがると、たいてい親と同じ職業につくのだった。
 だが、そのなかに、明らかに身分の違う子どもたちがまじっていた。どうかするとヘンリーより贅沢な服を着て、血色がよく、体格もいい。全部で、3人。そのうちの一人が、腕を組んでフランクじいさんに対峙していた。あとの二人は、その子の後ろのついている。
「おまえ、おれたちを誰だか知ってるのか?」
老人は白髪眉をあげた。
「知っとるとも。レンフォードのあくたれじゃ。おまえさんの親父殿が黄色いくちばしでぴいぴい泣いていたころから、そのふくれっつらはおなじみでな」