ラインハット最後の日 第四話

 リアラだった。セルジオ商会の屈強な店員数名が群集から若く美しい女主人を守るように立っている。なんだ、なんだ、とまたラインハット人たちは注目し始めた。
「何もかも、申し上げますわ、ヘンリー様!」
せっぱつまった、ある意味おおげさな表情でリアラは訴えた。
「は?」
さすがのヘンリーが展開についていけないようだった。あっけにとられた顔で、リアラとネビルを見比べた。
「誤解なんです。この人は魔王が怖くて逃げようとしていたんじゃありません!あたしと駆け落ちしようとしていたんです」
「なんだって?」
ヘンリーが眼を丸くしている。ネビルにいたっては、驚きのあまり口をぽかんと開けたままつっ立っていた。
 押し寄せたラインハットの市民たちも驚いた様子だった。
「オラクルベリーのセルジオさんのお嬢様だろ?」
「それどころか、今度お店を継いで9代目になるっていう総領のいとはんじゃないか」
「駆け落ち?大公様の秘書殿と?」
口々に言い合ってなりゆきを興味津々と見守っている。リアラは涙ながらに言葉を続けた。
「長いことお互いに想いあっていましたけれど、父が“どうしても許さん”と申しますの」
実際は長年の両想いどころか、何度ふられてもネビルは性懲りもなくリアラにつきまとってきたのである。ネビルは天地がいきなりひっくりかえったような顔だった。
「あの~?」
やっとネビルがぎくしゃくと動き出した。その足めがけて、リアラはきつい蹴りを一発入れた。
「わかってるわっ。あたしたちの秘密結婚のこと、まだヘンリー様にお話してなかったんでしょ?このいくじなしっ」
いわれのない非難に、ネビルが硬直する。
 ヘンリーは、彼にしては珍しく遅めに、ようやくリアラの一人芝居を理解したようだった。やっと、いかにも驚き 、感心しない、とでも言うな表情をつくった。
「それじゃ、ネビル、きさま、おれに黙ってこんな美人ともう……?」
鈍いネビルは、必死で首を振った。
「私には、何がなんだか」
ぱあんと小気味のいい音をたてて、ネビルのほおが鳴った。平手打ちをかましたリアラは、ヘンリーの馬前にわっと泣き崩れた。
「今朝、この人と手に手を取って逃げようと約束していたのに、こんな騒ぎに巻き込まれてしまうなんて!」
ネビルは、頭がぐるぐる回っている、という状態らしい。それでもなんとか、泣き喚くリアラにおずおずと手を差し出した。
「リアラ嬢、あの」
いきなり その手をとらえて、リアラはネビルをぐいっと引き寄せた。
「約束を破る気じゃないんでしょうね?あたしとなら駆け落ちしてでもいっしょになるって言ったのは、ウソだったの?え、どうなの、あんた!」
もともとリアラに惚れぬいているネビルは真っ赤になった。
「わ、あの、『あんた』だなんて、リアラ嬢」
「もうっ、『おまえ』って呼んで!」
いつも凛としている美人に かわいらしくすねられて、ネビルは天にものぼりそうな顔になった。
 こほん、とヘンリーが咳払いをした。
「ああ~、ネビル?8代目セルジオには、おれから話をつけてやる。だから、駆け落ちはとりあえず、やめておけ」
「本当ですか、ヘンリー様っ」
だめおしとばかりにリアラがとりすがった。重々しくヘンリーは、うなずいてみせた。
「まかせろ。ネビル、リアラ嬢をたいせつにしろよ?おまえには過ぎた嫁だ」
ふぁい、と答えてネビルはこっそり指で顔をひねっていた。
「というわけだから、二人ともそこをどいてくれ。町の出口をすっかりふさいでるんだ」
ぽっとほほをそめて、リアラはネビルによりそった。
「そうね、誰がどこへ行こうとあたしたちには関係ないわ。二人っきりになれるところへ行きましょ。ね、あんた?」
まだかくかくとぎこちない動きで、ネビルはリアラの手を取った。
「よぉよぉ!」
あたりからいっせいに野次だの奇声だのが飛んだ。
「なんだ、秘書殿は、町が危ないから逃げ出すんじゃないのか」
「駆け落ちするところだったらしいぜ。やっと春がきたみたいだなあ」
「何をバカ言ってんだ。けど、おれは出て行くのやめるわ」
「おれもそうしようかな。なんか、ばかばかしくなってきた」
 気がつけば、町を脱出しようとして殺気立っていた群集はあとかたもなくなっていた。後に残るのは普段と変わらない町の光景だった。人は当たり前のように町から出て、また町へと入ってくる。
 トムは、まだ馬に乗ったまま町の門のところにいるヘンリーのそばへ寄って話しかけた。
「あの、城へお帰りになりますか?」
「ああ」
どこかぼんやりとヘンリーは言った。
「まったく、ラインハットの人間は軽佻浮薄の極みですな。世界が滅びるかどうか、というときでも、人の駆け落ちの方が気になるらしい」
「駆け落ちねえ。ネビルのやつ……」
トムは笑った。
「私はネビル君を見直しましたよ。心の底には、勇気ってやつが隠れてたんですね」
照れくさそうにヘンリーは帽子をとって髪の間を指ですいた。
「てっきり行っちまうと思ったが、おれの読み違いみたいだな。あいつも、やるときゃやるんだな」
「そうですね。リアラさんはそこにほだされたんじゃないでしょうか」
「いや、女心はわからねえな」
「おや、ヘンリー様にもわかりませんか?」
「すっげぇ、びっくりした」
なんともすなおな驚き方だった。まだ眼を真ん丸くして、二人が歩いていったほうを見つめていた。トムは、片手で口元をおさえて笑いをこらえた。ヘンリーとは、彼が“いたずら王子”のころからのつきあいだが、これほどあけっぴろげに驚いた顔は、初めて見たのである。

 大きな縦ゆれが来たとたん、コリンズはわっと叫んで飛び上がった。会議室にいた閣僚は全員立ち上がり、落ちてきそうな物を手で押さえた。
「今のは、大きいぞ」
気分の悪くなるような長いゆれが、じりじりと続く。
「だんだん、地震と地震の間の間隔が短くなってきてはいませんか」
眉を上げて苦笑するつもりが、不安をあらわにしてしまった表情で、ヴィンダンが目を天井に向けた。
「夜中の地震もいやらしかったが、真昼間から揺さぶるとは」
別の閣僚も青い顔でそう言った。
「大丈夫ですか、コリンズ様」
コリンズ付き従僕のキリが、そっと尋ねる。
「おれは平気だ。叔父上は大丈夫かな」
コリンズは、一番上座にいる叔父のデールを、隣にいたヘンリーがさっとかばったのを見ていた。
 ネビルの“駆け落ち未遂”から、数日がたった。結局、思ったよりずっと少ない数の市民がラインハットを出ただけだった。それも、パニックはひきおこさずに、ごく自然な移動となった。
 まるでそのことが、ラインハットを見張っている魔物の気に入らなかった、とでもいうように、あの日の翌日からラインハットは大荒れに見舞われていた。
 季節はずれに厳しい冷え込みが朝晩続き、日中でも空は暗い。前触れもなく雷がとどろき、豪雨が襲ってくる。 そうでないときは空気の中にまるで瘴気のような悪臭が色濃く漂う。そして日増しに激しく、長く、頻繁な地震が起こるようになっていた。
 農地では収穫の時期だというのに、農夫は自分の畑に出ることさえできない。せっかくの実りを立ち腐れるままにしなくてはならなかった。
「今のゆれ、被害が出たんじゃないでしょうか」
冷静にデールが言う。オレストがうなずいた。
「そうですな。被害の報告を待つより、こちらから見回りましょう」
オレストの言葉に雷鳴がかぶさった。昨日から、ときおりヒョウが降る。雪よりもはるかに大きな氷の塊が、しかも大量にふりそそぐのだ。オレストは窓の外をにらんだ。部下の兵士たちが、その悪天候 をにらみながら彼を待っている。
「行ってくれるか、オレスト。頼む。救援がいるようならすぐに報告してくれ。みんな、在庫を調べてくれ」
ヘンリーがてきぱきと指示した。
 ラインハットは厳戒態勢にある。市民の日常生活はすでに不可能になっていた。みな、自分の家に閉じこもって、息を殺している。自宅が壊れたもの、家のないものは、教会や城に集まってきていた。
 建物や道路、橋などが次々と壊れるのを根気よく直し、人々に毎日とぎれずに水や食料を配給し、けが人や病人を収容して治療につとめ、人心をなだめ、勇者を信じようと呼びかけ……はてしないほどの仕事が、国家に、王家に、閣僚に、そして誰よりも宰相ヘンリーの手に、まかせられているのだった。
「こんな事態を予想して今までたっぷり備蓄してきたんだ。食糧でも資材でも、ばんばん使え!」
織り込み済みだ、言う態度だった。閣僚たちの顔から一時的に不安が薄れた。
「みんな、頼むぞ」
 人々がいなくなると、会議室はがらんとした雰囲気になった。デール王は、大きな椅子にそっと体を沈めた。
「まだ熱があるんでしょ、叔父上」
コリンズがそばに行くと、デールはうっすらと微笑んだ。
「ほら」
ヘンリーは手巾を濡らしてきて、弟の熱っぽい額にそっとあてた。デールは冷たい布の感触にほっとためいきをつき、苦笑した。
「すいません、兄さん。忙しいのに、こんなことまで」
「そんなことより、体をいたわれよ。おまえ、ここんとこあまり寝てないだろう」
「兄さんよりはよほど休んでます」
三人は、言い合わせたように大きな窓の方を見た。ラインハットの南西の方角だった。
「長いですね」
「ああ、長いな」
 以前オラクルベリーに光の教団の船が訪れそして逃げ帰ったとき、ヘンリーはセルジオ商会の持ち船、「迅雷の女王」にその後をつけさせたことがあった。光の教団の紋章を帆につけたその船は、ラインハットの南西を目指してすすんでいったことがわかっている。途中、嵐に遭って「迅雷の女王」はひきかえしたのだが、前方には天を突くような山 か、あるいは島が見えた、と船長がヘンリーに報告してきた。
 その山の上がたぶん、勇者を擁するパーティの戦っている現場なのだった。 パーティが大神殿へ乗り込むと言って出かけてから半月ばかりになる。ラインハットを守るヘンリー・デール兄弟にとっては、実に長い日々だった。
 しばらく沈黙してから、デールがたずねた。
「あの方の戦いは、まだ続いているのでしょうか」
あの方、というのが、ルークのことだとコリンズにはわかった。
「レベルが違いすぎて、もうおれにはわからないよ」
「そうですか」
ヘンリーは、弟の目を正面から見た。
「いつまでかかるかわからないが、決着がつくまでおれたちは持ちこたえなきゃならない」
「兄さん」
「今、グランバニアのオジロン殿やテルパドールのアイシス様も、たいへんな苦労をして国をまとめておいでのはずだ。サラボナの周辺はルドマン殿を中心に結束している。世界中が、あいつが勝つのを祈っている」
デールはじっと聞いていた。
「そんなときなんだ!おれが、あいつを信じてやらなくてどうする?ラインハットは、乱さない。あいつが勝って帰ってくるまで、石にしがみついても生きぬくんだ」
デールは微笑んだ。
「ええ、わかっています」
 コリンズは、ささやいた。
「ねえ、父上」
「ん?」
「おれの友達だって、今、戦いに行ってる。だろ?」
「勇者殿か。そうだな。で?」
「そのおれが言うんだから、父上もちゃんと答えて欲しいんだ」
「なにを」
「あいつが負けたら、どうなるの?」
ヘンリーはすわりなおした。
「もう一回戦うんだ」
「でも、でもっ。もし、死んだら?」
「何度でも勇者は戦うのさ」
「父上!」
ヘンリーはまじめな顔だった。
「デール、話してやってくれよ」
コリンズは英明な叔父を見上げた。
「コリンズのお友達、アイトヘル殿下は、天空の剣が選んだ勇者としては、二代目か、三代目に当たるのです」
「前にも勇者がいたの?」
「いたのですよ。アイトヘル殿の前のお方は、天空人と人間のハーフだったそうです。その前の方は、はっきりとはわかりませんが、とある国の王家の方だったという伝説もあります。伝説と言うよりも、夢のようなお話ですけれどね。それぞれの勇者は、対応する魔王を懲らしめるために生を受け、その任務を果たして亡くなったようです」
「じゃあ、もしアイルが失敗したら」
「その次の勇者を待つしかありません」
「そんな人、どこにいるの?」
デールは首を振った。
「誰にも、魔族にも人間にもわかりません。わかっていることはひとつ、勇者は必ず人の子として生まれるということです」
「だからみんなが勇者を探すんだ。ルークだって、ルークの父上だって探していた。あいつはまさか、自分の息子が大当たりだとは思わなかっただろうよ」
とヘンリーは言った。
「だからコリンズ、もし勇者が敗北したらおまえは次の勇者を待つしかない。そしてそのためには、できるだけたくさんの人間を生き延びさせなくちゃならない。わかるだろ?」
「ああ」
そっと片手を、ヘンリーは息子の肩に乗せた。
「それがおまえの仕事だ。おれたち、おれとマリア、それにデールは、たぶん、生き残れない。デールは王様だし、おれとマリアは、やつらにすれば逃亡奴隷だからな。逃げた奴隷は見せしめに殺されるのが決まりだ。どんなむごい死に方が待ってるかと思うと、気持ちはよくないが…」
ヘンリーは片ほほだけで笑った。
「だけどおまえは、生きろ。できるだけ多くの人間たちを、特にラインハット人をまとめて生き延びさせることができるのは、おまえだけだ」
コリンズはあわてた。
「えっ、おれ?そんなの、できないよ」
ヘンリーは真顔になった。
「おまえアイトヘル殿が同じことを言ったらどう思う?“そんなの、できないよ”って」
コリンズは口をつぐみ、しばらく考え込んで、そして言った。
「ああ、そうか。あいつだって、そう言いたかっただろうな」
「たぶんね」
コリンズは顔を上げた。
「わかった。もし、あいつが死んだら、次はおれが、おれのやり方で戦う。次代の勇者を見つけるんだ」
ヘンリーが何か答えようとした、そのときだった。窓の外の方で、大きな声が沸き起こった。
 デールは顔を上げた。
「何でしょう?」
コリンズはぱっと立ち上がった。
「おれ、見てくる!」
だが、それよりも、女官が入ってくるのが先だった。
「外が、大変です!」
ほほの赤い女官は興奮していた。
「城の上へお越しください、と、マリア奥様が」
ヘンリーたちは、会議室を飛び出した。
 城の一番上から見上げると、ここ数日と同じように、ラインハットの空は暗い雲に覆われていた。ときおり雷鳴がとどろき、なまぐさい風が吹いてきた。だが、天の一角に、光が見えていた。
 先に気づいたらしいオレストが、兵士たちを率いてマリアを守っている。マリアは、畏怖のあまり口もきけないようすでその光を指差した。
「あれは、あの方角は……」
ヘンリーがささやいた。南西だった。
 空にある光は神々しいような金色の縁取りを持った、白熱の輝きだった。それが太陽なのだと気づくまで、少しかかった。
 天空の光の球は、黒雲を割ってなおも輝き続ける。炎の前に氷が溶けるように雲は縮退し、まがまがしい色を薄れさせていく。ついに透明な蒼さが、天空本来の色彩があらわれ、それは急速に広がっていった。
「見ろ!」
誰かが叫んだ。人々は目を凝らした。はるか彼方の海上に降り注ぐ光の三角錐の中に、何か動いている。きらきらと明滅する、巨大なもの。
 歩哨の兵士が望遠鏡をさっと取り上げてそれをみつめ、あえぎ声をもらした。
「竜だ」
「なんだと?」
オレストが鋭い声を出した。兵士は望遠鏡をオレストに渡した。オレストはそれを目にあてがったとたんひっと息を飲み込み、やがて震えるように吐き出した。
「どうだ、オレスト?」
ヘンリーが聞く。オレストは望遠鏡を放して、泣き笑いの顔になった。
「マスタードラゴンがお出ましです!」
全天を覆っていた瘴気は、すでにあとかたもない。今は真珠色に輝いて見える大空の果てから、久方ぶりに、心地よい風が吹き込んできた。
 ヘンリーは、大きな手で顔をおさえていた。
「どうしたの、父上?」
「あいつ、勝った!」
手は、鼻を覆い、目元に達する。小さく肩がふるえ、指の下から、一筋の涙が零れ落ちた。
「あいつ、勝ちやがった。たぶん勝てると思ってたけど、ほんとにやったんだ……やってくれたよ!おれ、何もできなかったけど……」
その肩先を、そっとマリアが支えた。
「がんばりましたわ。あの方も、あなたも」
まだ目を覆ったまま、ヘンリーは小さくうなずいた。
 いきなりコリンズが飛び上がった。
「うわっ、やばい!おれ、パーティをやらなきゃ」
デールが微笑んだ。
「王太子披露兼、戦勝祝賀会ですね。これは盛大にやらなくては。ね、兄上」
ヘンリーはあごを上げた。
「そうさ。ぱーっとやろうぜ」
その目がきらきらと輝く。彼独特の、人の悪いような悪童めいた笑いがもどってきた。
「おれはたったいま3000万ゴールドをサイクスから巻き上げたんじゃないか。ラインハット中の人間を呼んでこよう。歴史に残るような、大盤振る舞いをやるんだ!」
片手を大きく振り上げて宣言する。兵士や女官の中から、いっせいにどよめきがわきおこり、まもなく城中へ、町中へ、国中へ広がっていった。