ラインハット最後の日 第三話

 その日のうちにキメラの翼を使って何人もの使者がラインハットから出発し、そしてもどってきた。返事の文書を机に広げて、宰相ヘンリーは見比べていた。
「どう、父上」
じっと文書に眼を注いで、ヘンリーはつぶやくように答えた。
「ひどいもんだ。グランバニア、サラボナ、ポートセルミ、テルパドール、西レヌール……あの黒い雲はほとんどの地域で目撃されている。ルラフェンじゃ、あやうく暴動になりかけたらしいぜ」
 そこは、会議室ではなく、宰相の執務室だった。ヘンリーのほか、デール王とコリンズ、オレストぐらいしかいない。もちろん、ここが職場のネビルもまじっていた。
「まあ、落ち着こう。ネビル、みんなにコーヒーを入れてくれ」
「はあ」
いつもなら“そんな仕事はヒラ従僕にやらせてください”などとのたまうネビルが今日はおとなしかった。
「兄上、他の町は、大丈夫だったのですか?」
ヘンリーはいくつかの文書をデールに手渡した。
「要約すると、グランバニアは、さすがにきっちり抑えている。人心の動揺はない。あの城が、国民を守ってくれる。パパス王の先見の明だな」
「テルパドールは、そうでもないようですね」
手紙に眼を通してデールが言った。
「でもまあ、最後には女王様が出張って、鶴の一声で落ち着かせたようだ」
「あの方はマスタードラゴンの巫女姫ですから。うらやましい。私にもそんな一声ができるといいのですが」
「気にするなよ、デール。さて、サラボナにもあの黒い雲はわいたようだな。ルドマン殿がとりまとめてくれたらしい。ある意味で、商んどのほうが、貴族よりよっぽど肝が太いね」
「そういえば、オラクルベリーは?」
「セルジオが手綱をひきしめてるさ。跡継ぎも決まったし、豪商セルジオがどじを踏むもんか。西レヌールは、ジャンヌ女王が意外によく立ち向かってるみたいだ」
「ある意味でレヌール人はもう、失うものがないのですよ。女王を中心にまとまるしかないとも言えます」
ヘンリーは文書を引き取ると、机の上の手箱にしまい、ふたをぱたんと閉じた。無言だった。
「兄上」
「わかってる」
静かにヘンリーは答えた。
「今日のは脅しだ。あいつらは、あの雲を使って、いつでもおれたちを脅かすことができるってことだ」
コリンズは小さく声をはさんだ。
「あの声、すごく怖かったよ、父上。あの声にたとえば“勇者は敗北した”って言われたら、おれ、信じそうになるかもしれない」
「そうだな。後に残るのは絶望だ。あいつらは、人間たちからまず希望を奪い取り、それから自分たちの好きなように料理するんだ」
奇妙な確信のこもった声だった。デールが乾いた声で言った。
「こんなのはどうです。“王族を差し出せ。そうすれば、町の者たちの命は助けてやろう”」
「叔父上!」
コリンズは思わず叫んだ。
「あのものたちなら、やりかねない。そうなったらまず、私の命はない」
「たしかにいい手だ」
ヘンリーがつぶやいた。
「おれが魔族の王だったら、人間に自分たちの手で希望の象徴を破壊させるだろうな」
がちゃん、と何かが割れる音がした。ネビルだった。コーヒーのカップをひとつ落としてしまったらしい。
「おい、しっかりしろよ。手、大丈夫か?」
「大丈夫ですけれど……おどかさないでください」
「脅しじゃないさ。まじ」
「そんなこと言っちゃったら、もう私らただの人間は、死ぬしかないじゃありませんか!」
怒ったような顔でネビルは言った。
「おまえが自殺?うそだろ?」
「でも、助かりそうもないんでしょ?だったら、何もかもあきらめて苦しくないように死ねばいい。人間、逃げる自由だってあるんです!」
「バカ野郎」
ぴしゃりとヘンリーは言った。
「こんなときに、そんな自由があるかよ」
「ありますよ!」
ネビルは興奮で真っ赤になっていた。じろりとヘンリーはその顔をにらみつけた。
「じゃあおまえ、勇者殿に”勇者をやめる自由”があると思うか?」
「それは……!」
ネビルは立ちすくんだ。この、口から先に生まれてきたようなおしゃべり男が、一言も言い返せなかった。

 ラインハットは不安な朝を迎えた。それは夜の間にウワサがかけめぐったせいかもしれないし、もともと街中が恐怖に満たされていたせいかもしれなかった。
 前日に空を覆った不吉な黒雲ではないが、どんよりと垂れ込める雲が太陽の輝きをさえぎる。その日の夜明けは、東の空にうすぼんやりとした光が見えるか見えないかという、いやらしい薄暗さだった。
 少し前なら活気に満ちた喧騒が覆っていた町は、今日は不気味に静まり返っている。ラインハット城と同じ時期に同じ石で造られた町の分厚い外壁は、威圧感を持って見上げる者を圧迫し、その上を歩く歩哨の兵士たちは武器を携えて門の前の石畳の広場から眼を放さなかった。
 夜明けにはもう、市民は持てる限りの荷物を抱えて、ラインハット市の出入り口の門の前に集まってきた。ある者は手押し車に家財道具を乗せ、一番上には幼い子供を乗せていた。ある者はロバの鞍に大量の荷物をくくりつけ、そのあとから老女と何人もの子どもたちがついてきた。
 誰も彼も、自分のたいせつなもの、失いたくないものをいっぱいに抱え、ラインハットの門が開くと同時に町を出て行くつもりで、街門めざしてやってきたのだった。
 日がのぼり、空がいくらか明るくなるにつれて、ラインハット脱出を待つ人々がざわめき始めた。
「早く、開けろよ」
誰かが声高に言い始めた。
「命がけなんだよ!早くしてくれ」
「巻き添えはごめんだ!」
「子供も年よりもいるのよ……町から出して!」
「早く、早く、魔王が来るわ」
 ラインハットの警備隊長トムは、部下が次々と報告に来るのに対応していた。
「門を開ける時間をできるかぎり遅らせろ」
「ですが……」
「今、開けたりしたら、あいつらがどっと出て行く!そうしたら、一気にパニックになるぞ。ここ何ヶ月も、ぎりっぎりで抑えてきたのに、まったくめちゃめちゃだ、あの恩知らずどもがっ」
「しかし、ほうっておいたら門を破られます。暴力沙汰になりますよ。そんなことになったら」
別の兵士が口をはさんだ。
「正規の軍隊を繰り出して、家へ帰らせますか?鋭い剣を見せれば」
「よせ。こちらが抑え込みににかかれば、市民は反発する。そうなれば血で血を洗う事態だ」
 町でもっとも高い建物であるラインハット城天守閣からは、町の広場を一望の下に見下ろすことができた。脱出を求める人々の数は、時間がたつにつれて増えていく。
 ついに一人の男が兵士の制止をふりきって街門の巨大な扉に近寄り、こぶしでたたき始めた。
「開けろ、開けろっ」
血相を変えた兵士たちが、あわてて駆け寄ろうとする。殺気だった市民が壁を作るようにその前に立ちはだかった。
「まずいっ」
トムは剣を取って立ち上がった。
 その剣を誰かがぐっと押さえつけた。トムは振り向いた。
「ヘンリー様」
トムの剣を抑えているのは、ヘンリーだった。静かな表情だった。トムは胸をつかれた。この人は裏切られたのだ、とトムは思った。勇者を信じよう、とずっと呼びかけてきたのに、人々の答えは、町を見捨てて逃げ出すことだった。
 上から見ていると、脱出を求める群集の群には、今までとどまっていたラインハット貴族や官僚もまじっている。
 孤立無援。トムは痛ましくて、たまらなかった。
「おれがでる」
「しかし」
「大丈夫だ」
「では、護衛をお連れください、いえ、私がお供を」
「いや、一人で行く。一人で行きたいんだ」
彼が身につけているのは、典型的なラインハット貴族の服で、肩から剣帯で吊ったサーベルは、ほとんど飾りにすぎない。
「そのままでおいでになるつもりですか!せめて攻撃力のある剣をお持ちください」
「おれの武器は」
とヘンリーは言った。彼の視線は、眼下に広がる光景、暴動寸前の群衆に釘付けになっている。
「舌先三寸だよ」
「そんな、もし、ヘンリー様に何かあったら、われわれはどうすればいいんですかっ」
トムは必死だった。
「一人でなんて、とんでもない。こんな絶望的な状況なんです、誰かいっしょに」
ははっと短くヘンリーは笑った。
「おれの手は、縛られているか?おれの足は、つながれているか?おれの口はふさがれているか?見ろ、全部自由に動くじゃないか。これが絶望的だって?」
トムはどきりとした。ヘンリーは、笑っていた。挑戦的な瞳で彼は言い放った。
「心配なら、後ろからついてこい。おもしろいもんを見せてやるよ」

 腕をまくり、武器を取って、人々は兵士とにらみあった。兵士のほうもみんな青い顔をしている。なにせ、数が違うのだ。いちどきに攻めかかってこられれば多少の犠牲は出るとしても、町の門は破られてしまう。人々の鼻息は荒かった。
 とつぜん、兵士たちが引き始めた。おじけづいたか、と人々は勢いを増した。
「開けろ、この門を、開けろ!」
叫び声が口々に上がる。もう、前の方では一人二人、分厚い木の扉の鉄版補強に体当たりをくわせていた。
 そのときだった。扉が動いた。体当たりをかましていた男たちが、たたらを踏んで体を泳がせた。さらに扉が動いた。人々から、ためいきのような声が沸き起こった。町の門の両側の塔で、兵士たちが滑車に取り付いて鎖を巻き上げ、扉を開いているのだった。
 ついに扉が開ききった。ラインハットの町の門からはこのレヌリア大陸を東西に貫く街道へつながる道がある。その道の上に一頭の馬にまたがる男がいた。 ヘンリーだった。
 馬上のヘンリーはよく目立った。人々はいっせいに町から出ようとして、そして、足を止めた。
「あ……」
熱心に外へ出してくれと叫んでいたものたちさえ、うしろめたそうな顔になる。ヘンリーは彼らの上に、じっと視線を注ぐだけだった。
「さあ」
と、ついに彼は言った。馬をゆっくり動かして、街道の脇へと寄せた。
「邪魔をする気はない。行け」
上目遣いにヘンリーを見上げ、先頭にいた数人が歩き出した。みな、なんとなくヘンリーの視線を避けるようにしていた。
 馬の背に括りつけた荷物をおさえるようにして、ある一家が門を通り過ぎた。馬の後ろから荷物を抑えるようにして歩いてきた老女が、立ち止まって、意を決したように馬上のヘンリーを見上げた。
「あたしは、行きたくなかったんですよ!でも、息子たちが、どうしてもって」
ばあちゃん!と息子たちのひとりが声をかけた。が、あくまで静かに、まるで道で行き会った知り合いが挨拶をするかのように、ヘンリーは聞いた。
「行くって、どこへ?」
「はい、あの、オラクルベリーへ」
「あそこはまだ、安心だ。ばあさん、達者でな」
「はい……はい」
とぼとぼと老女は通り過ぎた。
 その後ろから来る一団から、痩せた男が話しかけた。
「宰相様、あの、オラクルベリーは大丈夫なんですか?」
ヘンリーは馬首をそちらへ向けた。 
「セルジオがしっかり守っているからな。少しはましだろう」
「じゃ、西レヌールは」
「やめたほうがいい。ジャンヌ女王はがんばってはいるが、もともと国づくりの途中なんだ。あまりたくさんの国民を受け入れる余力はないと思うぜ」
後から来る人々は、争って聞きにきた。
「じゃ、ディントンはどうです?」
「ルラフェンまで行けば」
「いっそ山奥の村なら」
「テルパドールにも魔族は襲ってくるんですか?」
 ヘンリーは両手を大きく広げた。
「世界中で本当に安全な場所がどこにあるか、おれにはわからない」
人々はざわめいた。
「相手は人じゃない、魔族だ。一対一で立ち向かって、勝負になるか?」
“なるわけねえ!”、“殺されちまう!”いくつもの声が、不安そうな群集の中から返ってきた。
「だから、人は町を造るんだ。一箇所に集まり、互いに互いを守る。それしか方法はない」
沈黙が訪れた。それからざわめきが起こり、それは水滴を水面に落としたように次第に広がった。ついに一人が言った。
「わしは、ラインハットに残るぞ」
頑固そうな老人だった。かたわらに腰の曲がった老女がいた。
「そうしましょうよ、おじいさん。あたしゃとても遠くまで歩けないし、お迎えは住み慣れた家でと決めていたんですから」
お互いの顔を見合わせる家族もあった。
「どこにいてもおんなじなら」
「やめるか」
「遺してきたもんも多いし」
「帰りましょう!」
殺気だった雰囲気が、静かに、確実に変化していく。
「お見事ですわ」
群集に混じってみていたトムは、後ろでそうささやくのを聞いて振り向いた。リアラが立っていた。
「リアラさん、いえ、9代目セルジオ殿、ここは」
「危ないから帰れ、なんて言わないでくださいね。支店が心配で、昨日から居残っていたんです」
「しかし」
「店の者がいっしょですから」
たしかに体格のいい男たちが数名、リアラを守るようにしたがっている。
 ちょうどそのとき、みなりのいい女がざわざわしている人々の間をすりぬけて叫んだ。
「だまされないわ。早く出て行ったもん勝ちよ。さ、行くわよ、ネビル!」
「あれは!」
リアラは歯軋りした。
「ミランダ叔母さんだわ!なんてことを!」
「何をやってるの、ネビルったら!」
ミランダに名前を呼ばれて、ネビルはぎくりとした。
「あのボケがっ」
少々お嬢様らしからぬ口調でリアラはつぶやいた。
 ヘンリーの馬が、一、二歩、ネビルに近寄った。
「おまえ、そうか」
ネビルはあわててうつむき、身を縮めた。だが、まわりにいるラインハットの市民は、それが誰だか気づいたようだった。本来なら大公のすぐそばに控えていなくてはならない、身内も同然の私設秘書が、目の前でヘンリーを裏切って出て行こうとしている。落ち着きかけた雰囲気が、一気に揺らいだ。トムは見ていられなかった。
 つきささるような注目の真ん中で、へっとヘンリーは笑った。
「おまえも行くのか。しょうがねえ。苛めすぎたかな」
ネビルは震えていた。
「あの、私は……」
少し先でミランダが叫んだ。
「何やってるの!ほんとにいつまでも、ぐずな子ね、早くいらっしゃい」
軽くヘンリーは首を振った。
「おふくろさん、呼んでるぞ」
ネビルは荷物を抱えて少し歩き、それから立ち止まった。
「ヘンリー様」
びくついた眼で元の雇い主を見上げた。
「怒らないんですか?」
ヘンリーはうつむき、片手で乗っている馬の首をそっとたたいた。
「おい、人前で恥かかすなよ」
裏切られたのが、くやしい。見捨てられるのは寂しい。そんなことを大声で言わせるな、とそのまなざしは伝えてきた。頼むから、潔く見送らせてくれ、と。
「長い付き合いだったが……じゃあな」
金切り声でミランダが呼んだ。
「早くいらっしゃい!もうお荷物は全部積み込んであるのよ?さっさと来て!母さんの言うことが聞けないのっ?!」
「ヘンリー様」
ネビルは引きつったような顔で震えていた。気が小さいくせに見栄っ張りなこの男が、行くか留まるかの二択につまづいて、崖っぷちに立っているのだとトムは悟った。
 後ろの群集から、ざわめき声があがった。
「おれも出て行くよ」
「門でつっかえないでくれ!」
「さっさと行けよ」
不穏なざわめきは怒声になり、ネビルの背中を押した。
 視線をヘンリーに釘付けにしたまま、一歩ネビルが踏み出した。
「あんの野郎……!」
トムの隣にいるリアラが歯軋りした。
 その瞬間、ネビルは抱えていた手荷物を取り落とした。柳を編んだ平たい箱である。新調の衣装がどっと飛び出した。
「わたしは、のこります」
うわずった声でネビルはささやいた。
 ヘンリーは歩かせかけた馬を止めた。
 品格もなければ根性もないネビルのうすっぺらな見てくれが、一世一代の決心をしたわりには、一段と頼りない。顔は真っ赤になり、あごがふるえて、目を大きく見開いている。
 馬上のヘンリーの背中に向かって、ネビルは何とか口をがくがくと動かした。
「わたしは、行きません、わたしは……」
それだけをバカの一つ覚えに繰り返した。のどがごくっといやな音をたて、ネビルは唾液を飲み込んだ。
「ネービールーッ!」
ミランダが大声で叫んだ。
「何やってんだあ?」
「どけよ!早く行け!」
トムはあわてて周りを見た。ネビルの声はあまりにも小さくて頼りなく、この怒号飛び交う中では、ほとんどまわりにつたわらなかったらしい。大群衆がネビルをラインハットの門の外へと押し流そうとした。
 そのときだった。若い女が大声で叫びながら飛び出した。
「待ってください、ヘンリー様!」