運のいい男 第一話

 ごつごつした岩山を見下ろして飛んでいくと、眼下の光景は一気に開けた。広大な平原の上にさしかかる。大きな川が斜めに横切っているのが見える。明るい太陽の日差しを受けて、水面がきらきらと輝いていた。
 川に交差する街道が緑濃い平原を横切って、うねうねと続く。道は途中で枝分かれをして、小さな湖に向かっていた。
 湖のほとりの地は、北と東を高山が守り、西には大平原を望む。その、恵まれた美しい土地の中心には、王城が聳え立っていた。
「ラインハットだ!降りるの、お父さん?」
 アイルは天空城の石の手すりを片手でつかんだまま、傍らに立つ父を見上げた。9歳になってずいぶん背は伸びたのに、今でもアイルの身長は父のルークの、胸の辺りまでしかない。
 逆光になって表情がよく見えなかったが、ルークは無言だった。
 天空城を飛ばして旅をするのは、とても快適だった。なんといっても、モンスターに会わなくてすむ。アイルは、雨が降らない限り、妹のカイと二人で、外のテラスに出て、流れる白い雲の間から、下界の光景を見ることにしていた。
 大きな丸い影がいっしょに動いていく。少し離れたところを、V字形に編隊を組んだ大きな鳥の群が飛んでいく。くう、くうと鳴き声をたて、鳥の群は斜めに旋回していった。
 天気がよくて、風が強い。現在は、真東に向かって移動している。もう行く手の町のはるか向こうに、水平線の円弧が輝き始めていた。
 雨が降らなくてよかった、とアイルは思った。
 もっとも雨が降ったら、ちょっとだけ高度を上げて、雨雲の上に出ればいいだけだった。城の中から見下ろすと、雲は本当にじゅうたんのように見える。アイルとカイは特に、夜、天空城が月の光で淡く光る雲の上をすべるように進んでいくときが好きだった。
「お父さんたら!」
 反対側にいたカイが、父のマントを強く引いた。上空の強風から髪のリボンをまもるために、片手でおさえている。
「降りるの?ねえ」
「あ、ごめん、ごめん」
父はそう言って、軽く中腰になってアイルやカイと視線を合わせた。
「うん、降りるんだ。ちょっと用があるからね」
優しいまなざしは、ふだんと変わらないように見える。
「御用って、なあに?」
カイが聞くと、ルークは困ったように笑った。
「んー、後で話すよ」
カイは、ちらっとアイルに視線を飛ばした。
「こないだから、ずっとヒミツなのね」
「そうかい?」
「うん。用事があるからって言って、あのダンジョンほうりだしちゃったでしょ?」
そういったとたん、ルークの表情がちらっと曇った。
 それは、このレヌール大陸にある、“封印の洞窟”のことだった。サンタローズ村の北を流れる川に沿ってすこし進んだところに入り口がある。洞窟中に地鳴りのような音が響く、不気味なところだった。
 アイルは、両手を頭の後ろで組んだ。
「けっこう、おもしろかったと思うよ、あそこ。ほら、敷石を押して顔のマークの上にあわせると、モンスターが出なくなったじゃない」
「たしかに、不思議だね」
ルークは静かに言った。
 アイルは、腕を下ろした。言ってみるべきだろうか。
“どうして、ダンジョン攻略やめちゃったの?”
“どうしてお父さん、このあいだから元気がないの?”
“怒ってるの?ぼくたち、何か悪いことしたのかな”
“ラインハットでの用事って、何なの?”
紫のマントが翻った。
「降下の準備をしてくるよ。荷物をまとめておいてね」
作ったような微笑をのこして、ルークは機関室へ降りていってしまった。アイルはカイと顔を見合わせ、はあっとためいきをついた。

 麦畑や牧草地を避けて、ルークは天空城をラインハット郊外へ着陸させた。最初のころはそれだけで大騒ぎになったのだが、近所の農民たちは最近慣れてきて、穏やかに着地を見守っている。
「おんや、勇者様がおいでのようだ」
「ここんとこ、お見限りだったんだが、お元気そうでよかった、よかった」
「こないだあのお城が街道の真上に乗っかっちまったときゃ、まいったが、そうでねえなら、まあ、文句はねえべ」
小さくもない城が天から降りてきて、その場にどんと建ってみても、農夫たちは牛の鼻輪をつかまえて煙管をふかし、のんきに見守っている。びくともしなくなった。
「さあて、とりあえず、お城の宰相様に知らせとかねえとな」
「もう、気づいてなさるだろ。これだけでけえもんが目の前に建っちゃ」
「んだな」
ルーク一家がラインハット市の門へ向かってくる。農夫たちは手を振った。
「狭いとこにお城入れるの、うまくなったべな」
金髪の少年勇者が、ぱっと顔を輝かせた。
「今日の着陸、ぼくやったんだよ!切り返しを一回もしないでお城を停められたんだ」
お~、と人のいい農夫たちは穏やかに驚いて見せた。
 そのそばを、小さく会釈して紫のターバンの若者が通っていく。
「あれ、ルークさんは、どうかしたべか?」
いつも優しい、包み込むような笑みを浮かべる彼が、同じ笑顔でも今日はなんだか、緊張しているように見えたのだった。

 ラインハット王国の運営責任者、宰相ヘンリーは、ちょうど会議室から出てきたところだった。彼の閣僚がぞろぞろと後ろについてくる。
「お急ぎください、大公殿下」
秘書のネビルが、羊皮紙の束をもって追いかけてきた。
「今日はこれから、面会のご予定が入っております」
「キャンセルしろ」
にべもなくヘンリーは言った。
「そんな、殿下!」
白い手袋をはめた指で襟元をくつろげ、手にした宰相杖の握りを肩に乗せて支え、ヘンリーはじろ、とネビルを見た。
「きさま何年おれの秘書をやってんだ。スケジュールはきっちり詰まっていたはずだ。いくら会議が早く終わったからって、素性の知れない面会を勝手に組んでるんじゃないっ」
 ヴィンダンやユージンはじめ、閣僚たちは笑いをこらえていた。彼らの年代にとって、王国宰相ヘンリー殿下は、悪童だった時代の印象がたいそう強い。会議中ヘンリーはとりあえず宰相らしくしているが、秘書のネビルと話しているときは、地金が丸見えになるのだった。
「でも~~」
「なにホダされてんだよ、きさまは。重要なアポイントメントを何ヶ月も待たせているくせに、ずるはだめだ、ずるは」
ネビルは追いすがってきた。
「で、では、今日のご面会はなんと言ってお断りすればいいんですか!」
「自分でまいたタネだ、自分で刈っとけ。それから、伯爵令嬢とのいちゃいちゃはあきらめろよ。きさまを釣るための、ただのえさだからな」
「え~!!」
やはり、きれいなお姫様におねだりをされて、ネビルはヘンリーとの会見をセットしてしまったらしい。このまえ来たときもそんなことがあったような、とアイルは思った。
「いいかげん、学習しろよな」
ヘンリーの口から、アイルの思ったとおりの言葉が飛び出して、アイルはうふふと笑った。
「今日は忙しいのかい?」
ルークが声をかけた。よっ、と片手をあげ、満面の笑みを浮かべてヘンリーは応えた。
「いや、全然!」
「殿下~」
とネビルが泣いた。
「あいつのことは、気にするな。上へ行こうぜ?さっき天空城が停まったのが見えたから、マリアもおまえを待ってるだろう」
上、というのは、王族居住区のことだった。
「こんにちは」
とアイルは話しかけた。
「コリンズ君、お暇ですか?」
カイが聞いた。ヘンリーは笑った。
「姫君のお召しとあれば、せがれは何をおいても参じると存じます」
カイがちょっと赤くなる。9歳になったばかりのカイに向かってまるでほんとうの大人のレディと会話しているように話すのはヘンリーのよくやる“挨拶”だった。照れくさいが、ほんのちょっと、うれしい。
 もっともアイルとカイは最近、ヘンリーが小さいころ、コリンズそっくりの悪ガキだったのをしっかりと知る機会があった。あれがどうやってこういう大人に育ったんだろう、とカイは思う。コリンズ君も、将来ヘンリー小父様みたいになるのかしら?
「ネビル、勇者殿と王女殿下を、ご案内してくれ」
「ぼくたち、もう、お部屋わかります」
アイルは、ばばっと手を振った。
「あの、大丈夫です!」
「それはよかった。では、どうぞ、我が家とも思し召して、ご随意に」
えへ、とカイとアイルは顔を見合わせて笑った。遊びに来るたびにコリンズに引っ張りまわされたおかげで、今ではラインハットの城中で、入ったことのないところなど、ほとんどなかった。
「じゃ、お父さん、あとでね」
「帰るとき、呼んでね」
答えはなかった。
「お父さん?」
「ああ!」
ルークは驚いたような顔になった。
「そうだね。とにかく、あとでね」
ヘンだ、とアイルは思った。お父さん、すごく、変だ。視線を合わせると、カイもそう思っているのがわかった。
「悪いんだけど、マリアには、あとで話しにいくよ。その前に、相談したいことがあるんだ、君に」
まじめな顔でルークは言った。
 ヘンリーの表情がわずかに変化した。辣腕宰相の顔も、奔放な悪童のような地金も、女たらしの気取りも、影をひそめる。
「ネビル」
と彼は言った。
「宰相執務室へ行く。しばらくの間、誰も近づけるんじゃないぞ」
ネビルに言いながら、視線はじっとルークの上に注がれていた。とん、と宰相杖を床につき、ケープを翻した。
「来いよ」
お父さんは、変だ。そしてそのことに、ヘンリーさんも気づいてるんだ、とアイルは思った。

 コリンズは、羽ペンをインク壷につきさし、うんっ、とうなって両腕を上げ、伸びをした。
「宰相執務室か。ちょっと難しいな」
まだぷにぷにしてかわいいほほを手のひらで支えてコリンズは言った。
「でも、気になるんだよ。ね、カイ?」
カイは沈んだ顔つきだった。
「気になるわ。お父さん、何かに気を取られているみたい。だいいち、あたしたちに隠し事するなんて今までなかったのに」
あきれたような顔で、コリンズは双子を見た。
「おれの父上なんか、隠し事だらけだぜ?」
「でも!」
カイは涙ぐんでいた。コリンズはいすから立ち上がった。
「宰相執務室は、立ち聞きやのぞき見がすごく難しいように作ってあるんだ」
アイルはためいきをついた。
「そっか。だめか」
いささか非常手段ではあるが、双子は、父が友人に何を相談するのか、なんとかして聞くことはできないかと考えていたのだった。
「まあ、待てよ」
にや、とコリンズは笑った。
「“大人には、難しい”って言ってんだよ」

 城の外壁の飾りになっている渦巻状の彫刻は、大の大人には無理でも、子どもにはなんとか足場として使えそうだった。
 コリンズは、双子を連れてその足場を通り抜け、宰相執務室のすぐ外にあるテラスへたどりついた。姿が見えないようにしゃがみこみ、子どもたちは中のようすをうかがった。
「ま、座れよ」
ヘンリーの声だった。
「うん……」
やはりルークの声は、いつものような元気がなかった。
「相談、ていうか、頼みがあって来たんだ」
「待った」
とヘンリーは言った。
「お前の頼みなら、たいてい聞いてやるつもりだが、そのまえに、お前が今抱え込んでることを吐き出してみろ」
「え」
「え、じゃねえ。まったく子どもたちに気を遣わせるくらいふさぎこみやがって。親のやることか、それが」
「そんなにふさいでいたかい?」
あのな、とヘンリーは言いかけてうなった。
「自分が嘘を付けないタチだってことは、自覚してるか?」
「そこまで言うかい……?」
聞き耳をたてていたアイルがくすっと笑った。ルークの顔が見えるようだった。
 ルークのため息が聞こえた。
「わかった、話すよ。話すから聞いてくれ」
アイルたちは呼吸の音さえたてないようにして聞いている。
「あの子が、死んだんだ」
と、ルークは言った。ヘンリーが息を呑んだ。
「なんだって?」
「アイルが、ダンジョンの中で死んでしまったんだ。その直後にカイもやられた」
「でも、さっきは」
「もちろん、あとで蘇生させたさ」
どさ、と音がした。ヘンリーがイスに身体を投げ出したらしい。
「おどかすなよ」
「生き返りはしたけど、でも」
とルークは、真剣な声で言った。
「ぼくには、がまんできない。もう、二度とあの子達が死ぬところなんて、見たくない……すごく、苦しかった」
テラスにいた子どもたちは、思わず互いの顔を見合わせてしまった。

 サンタローズ北西のダンジョン“封印の洞窟”は、強敵ぞろいだった。
 特に、頭から直接手足の生えたようなちびのモンスターが集団で現れるのがやっかいだった。すばやい動きで襲ってくる青い頭のブルーイーター、鋭い爪と牙で体当たりをしてくる赤い頭のレッドイーター、そして、彼らを呼び出す奇妙な魔人エビルマスターの組み合わせは最悪だった。
 集団モンスター対策のポリシーは、一網打尽にできる魔法や特技を使うことだった。が、呪文がきかなかった。
 アイルは、得意のデイン系呪文がほとんどダメージを与えないことにショックを受けていた。
「マヒャドもきかない!」
とカイが呆然とつぶやく。バギクロスまで跳ね返された。
「しかたない、一匹づつ攻撃だ。対象を集中して!エビルマスターをやる!」
ルークが叫んだ。アイルは剣を構えた。カイはかたわらの大きな鳥に声をかけた。
「メッキー、息攻撃はだめみたい、回復をお願いね」
メッキーがクエと鳴いた。
 それが合図だったかのように、イーターたちがメッキーめがけて襲い掛かってきた。羽毛が激しく飛び散り、胸が血に染まっていく。びく、とメッキーが大きく痙攣した。
「いけない、マヒだ!」
あわててルークが手を伸ばした。そのむき出しの腕に、血潮をあげてかぶりついたモンスターがいた。
「うっ」
ルークはうめいた。レッドイーターだった。鋭い牙が、くいこんでいるらしい。
「お父さんに何するんだっ」
アイルが天空の剣をかざして駆け寄った。
「はなれろっ、離れろよ!」
ぼろぼろになったメッキーの身体を放し、イーターたちは少年の背中に殺到した。
「うわああっ」
「アイル!」
ルークが叫んだ。片手で、腕のモンスターをむしりとった。だが、アイルは、虚空を見つめ、ふらりと一歩父のほうへ歩き、天空の剣を取り落とした。
「おとうさ……」
そのままアイルは、地べたに崩れ落ちた。
「アイルーッ」
後ろからカイがイオラを放った。群がるイーターどもにダメージは負わせたが、倒れない。数はそのまま、モンスターたちは少女を襲った。
「きゃああっ」
顔を覆う両手を、金髪の頭を、まだ細い腕を、足を、モンスターは鋭い爪でかきむしる。
「やめろっ」
ルークの叫び声が洞窟の岩壁に反響して、その響きが消えやらぬ間に、カイは血潮を吹いてその場に倒れ、動かなくなった。
 ルークは、二つの小さな身体にイーターたちがたかるのを、呆然としてみていた。
「アイル……カイっ!」
イーターたちは、いっせいにルークのほうを見た。奇妙な眼球が、悪魔めいてくるんと動く。
 その瞬間、ルークの中で何かが壊れた。十数年前、父の死を目の当たりにしたときに一度壊れ、そして長い時間をかけて再構築してきたそれ……心臓の上をとりまく重い鎖が、音を立ててちぎれ 飛んだ。
 ルークは叫んだ。喉で、こめかみで、眼の中で、血管がふくれあがり、はりさける。
「オオオオォォォォッッッ!」
それは、人間の出す声ではなかった。
 エビルマスターは、大声でイーターどもを呼び戻した。震える手で鞭をさしつけ、ルークだったものを脅そうとしている。が、効果がないのは明らかだった。
 漆黒の鱗に全身を覆われた古代の怪物がダンジョンの天井に頭をこすらんばかりに立ち上がった。馬車の車輪ほどもある鋭い爪を振り上げてエビルマスターに襲い掛かる。イーターたちはくもの子を散らすように逃げ出した。その後ろから、紅蓮の炎が襲い掛かった。
 はあっ、はぁっと息を吐くと、炎の息が巨大な口元にあふれた。
 ルークだった黒い竜は、三本指の巨大な足でイーターだった燃えカスをふみにじり、喉の奥まで開いて憎しみと哀しみの咆哮をダンジョン深部に放った。
「オオォォーンッ」