かもめ亭事件 第三話

 オレストは、セイラが小鳥のようにふるえるのを見ていた。
「あなたが、そんなことをするはずがない」
「いいえ、あたくしは、罪ある女でございます」
涙ながらに言うセイラの手に、思わずオレストは触れた。
「私は、もし私だったら、きっと……主君のためなら、罪を犯すと思います。あなたは、もしかしたら、アデル様のために」
さっとセイラは顔をふりあげた。
「おっしゃらないでくださいまし!」
 オレストはどきりとした。十何年の昔に会った、きまじめで誠実な娘の目が、やつれた中年女の顔の中からオレストを見上げていた。
「セイラさん」
「太后さまは、何もご存じないのですわ」
「それなら、私には」
オレストは言いよどんだ。
「その……、わけを話してもらえませんか。どんな屈強な戦士でも、戦場に一人きりでは何もできません、普通。あなたには、援軍が必要だ」
オレストは、口の中がからからだった。
「ご迷惑でなかったら、せめて、いっしょに」
“やつれた中年女“などと、とんでもない。セイラの瞳から、大粒の涙があふれでた。この上なく美しい、とオレストは思った。

 トムは咳払いをした。状況の深刻さにもかかわらず、顔がにやついてくる。なにせ、なんともレアなシーンに行き合わせてしまったのだ。
「失礼いたします」
トムはぴしっと敬礼をきめた。
「セイラ殿、ご存知の方の命令により、お迎えに上がりました」
セイラはよろよろと立ち上がった。オレストはぎくしゃくとセイラによりそった。
「すべて申し上げた方がいい。私が援軍です」
セイラはオレストを見上げ、心細げに笑顔をつくった。
「お願いします」
 トムは二人を先導して、デールのところへ連れて行った。セイラはデールを見るなり、陛下、と叫ぼうとした。デールは人差し指を唇に当てた。
「よく来てくれました」
「あたくしが悪いのでございます!」
「セイラ、大丈夫、何もかも私一人の胸に収めますから最初から話してください」
アデル太后とほぼ同年輩の侍女は、涙をぬぐって話し始めた。
「ずっと昔のこと、アデル様は夫君を亡くされたばかりで、宮廷には心を許せる人もなく、おさびしかったのでした。そんなとき、優しくしてくださるのはロクサスの伯爵様くらいでした。それで、手のひらにおさまるくらいの、アデル様の小さな肖像画に御手紙を添えて、感謝の御心を表されました」
かつて王国一の美女と歌われたアデルの未亡人姿の肖像は、さぞ美しかったろうとトムは思った。
「今ごろになって伯爵はアデル様を脅されたのです。太后のロマンスを公表されたくないだろうと言って」
「では、ゆすりを?」
「お金ではありませんでした」
 ヘンリーがこちらのテーブルへ移ってきた。少し黙っていて、と手で伝えてデールはセイラに優しく聞いた。
「手紙のようなものですね?」
セイラはちらっとヘンリーを見上げた。
「宰相様の公用便箋と、印章をもってこいと言われました」
 ラインハットの公用文書は中が見えないように用紙を丸め、合わせ目に溶かしたロウを落としてとめるのが普通だった。そのロウが固まる前に紋章を浮き彫りにした印章を押しつけて封印とする。
「申し訳ありません。アデル様の御苦しみを見かねまして。宰相様のお部屋へ入り込んで、秘書殿のすきを見て、印章と便箋を盗んだのでございます」
セイラはまたすすり泣きを始めた。
「セイラさん、どうか……」
オレストは王家の兄弟の方に向き直った。
「宰相の印章を盗むのがどれほどの罪か、私にもわかります。もしセイラさんに罰を下すのなら、まったく同じ罰を、このオレストにも下していただきたい」
「そんな、オレストさま!」
セイラは白い手をオレストの胸にかけ、勢いをとどめたいような仕草をした。
「ここが戦場なら、あなたのために剣をふるう。今はこのくらいしかできることはないのですが……」
言いかけてオレストは、赤面した。
「なんで、黙っていらっしゃるのですか、ヘンリー様!」
「いや、珍しいもんを見たなと思ってさ」
ほおづえをついて、ヘンリーはオレストとセイラを見上げていた。デールが微笑んだ。
「オレスト、心配はいりませんよ。私から謝ります、兄さん。セイラを許してやってください」
「おれだって鬼じゃないさ」
に、とヘンリーは笑った。
「そうにらむなよ、オレスト。大丈夫だって。なにもかもロクサス伯におっかぶせてやるよ。セイラ、義母上の肖像画は、あいつ、返してよこしたのか?」
「それが、その、だめでしたの」
セイラは涙ぐんだ。
「公用便箋は伯爵にお渡ししたのですが、その前に印章をなくしてしまいましたの。伯爵にもひどく責められました。でも、探しましたが、どこにも見つかりませんで。印章を持ってこなければ、肖像画は返せないと伯爵は言いました」
「どう思う、デール」
「ペテンのタネでしょうね」
デールはすぐに答えた。
「ロクサス伯は今、金に困っているはずです。そこで詐欺を思いついた。トレミア男爵のようなカモに、うまい話を聞かせて資金を引き出す計画です。サンプルは小麦粉か砂糖でしょう。それだけでは弱いので宰相の書状が必要になり、母上を脅して手に入れようとした」
「セイラが公用便箋と印章を持ち出してここでロクサスに渡す手はずだったが、印章だけなくなってしまい、書状が偽造できなくなった?」
「ロクサス伯なら印章がなくても偽筆の書状だけでなんとかなるくらいのことは考えるでしょう。いまごろはエマ嬢の目を逃れて、どこかでせっせと手紙を自分で書いていますよ」
「よし」
ヘンリーの頭の中は、事態を収拾する計画を大急ぎで練っているようだった。やがて、にやりと笑って彼は言った。
「あの腐れペテン師、捕まえてやる。と同時に、義母上の肖像画を取り返すぞ。手伝ってくれ、セイラ。それから、エマ嬢にもお願いする」

 エマはもといたテーブルにもどり、コーヒーをすすっている。少し間を置いて、セイラがすわっていた。トムは、二人の女性に近い席に場所をとり、荒っぽいことになった時に備えて待機していた。
 ちょうど、ロクサス伯爵が羊皮紙を片手に、今しも奥のほうから出てくるところだった。
「トレミア殿のお嬢様」
伯爵はエマを見つけると、こみあう店内の向こうから優雅に手を振った。
「お待たせしてすみません」
その伯爵の前に、セイラが立ちはだかった。
「伯爵さま、これが、ありました」
セイラは、握り締めた指を、伯爵の前で広げて見せた。ロクサス伯の眼が見開かれ、ちっぽけな指輪をつまみあげた。
「あれを、お返しくださいませ!」
強い調子でセイラはせまった。ロクサス伯は、眼だけせわしなく動かして、黙ったままだった。トムには、この男の頭の中が見えるようだった。宰相の印章も、太后の肖像も、詐欺のネタとしては超一級なのだ。両方とも手放したくないという表情で、ロクサス伯はセイラの様子をうかがっていた。
「伯爵様ぁ?」
遠くからエマが声をかける。
「ああ、今、まいりますよ」
セイラの後ろに、つと、オレストが寄り添い、気迫のこもった表情でロクサスをねめつけた。いまいましそうに伯爵はオレストをにらんだが、セイラから無理やり印章を奪い取るのはあきらめたようだった。
「これを」
くやしそうに伯爵は言い、布にくるんだものをセイラに手渡した。さっとたしかめて、セイラはオレストにうなずいてみせた。オレストは視線をはずさずに、ゆっくりと道を開けた。
 セイラの指が、遠慮がちにオレストにかかった。オレストは、別人のような表情でセイラを見て、そっとささやいた。
「大丈夫です。あとはヘンリー様におまかせしましょう」
「はい」
伯爵はそれでもほくほくしてエマのところへやってきた。宰相の印章があれば、偽造のし放題で儲けることができるのだった。
「ずいぶん時間がかかりましたのね。大事なお手紙というのは見せていただけますの?」
「秘中の秘なのですよ」
伯爵はもったいぶって羊皮紙を広げた。
「宰相からオラクルベリーの商人サイクスにあてたものです」
そのときトムは、ヘンリーとデールが音を立てないように伯爵の背後に偲びよるのを見た。二人は肩越しに手紙をのぞきこんだ。
「このようなところで会う事も、本当は危ないのですよ。御帰りになったら、トレミア殿にお伝えください。資金の手当てを急いでくださるようにと」
伯爵はさも憂鬱そうだった。
「私と友人との事業を狙っている輩がいるのです。あまり時間がかかると、せっかくの好意がむだになってしまいます」
ねちっこい口調で伯爵は話しつづけていたが、けはいを感じたのか、ふと口をつぐんだ。
 知らないものが見たら、仲のいい友人に見えるに違いない。ヘンリーは伯爵の肩に手を回した。
「へえ。おれが書いたにしちゃあ、ずいぶん丁寧な手紙じゃないか。今後御手本にさせてもらうよ」
伯爵の顔は見ものだった。真っ青になり、がたがた震え出したのだ。
「なぜ、そんな、私は、ただ」
舌もよくまわらないらしい。
 反対側からデールが伯爵にぴったりと寄り添った。
「母を脅したそうですね。許しませんよ」
妙に静かな口調で言う。伯爵は一気に硬直した。
「ちんぴらのくせに、セイラをまきこんだりするからだぞ?」
にこやかにヘンリーは言った。
「さて、印章を、返しな」
伯爵の唇が、くやしそうにひきつった。が、観念したらしく、ポケットを探ってセイラから受け取った指輪をつまみだした。
「おれにじゃない。デールに返してくれよ」
あっと言って伯爵は、あらためて印章を確かめた。オラクルベリーとラインハットの紋章を組み合わせた大公のそれではなく、波型十字に王冠をいただいた図形が浮き彫りにされていた。
「これは、国王の」
「ああ。もったいないと思えよ?デールが貸してくれたんだ」
伯爵の震える指から、一国の王権を象徴する印章を取り上げて、デールは言った。
「私が兄に、王国のすべてをまかせる、と言ったのは、嘘でもなければ、言葉遊びでもないのですよ」
デールはにこっと笑って、印章指輪に自分の中指をすべりこませた。
「それに、兄が一枚噛んでいるなら確実に取り返せると思っていましたからね」

 トレミアのエマは、詐欺を免れた安堵感と、ちょっとした思い出をもって領地へ帰っていった。
 伯爵の方は、ジュストの店を騒がせたくない、とヘンリーが言ったので、トムはひとりで伯爵の身柄を確保した。
「城の未決囚牢へぶちこんでくればいい。明日、事情聴取する」
「オレスト様はおいでにならないのですか?」
こほん、とオレストは咳払いをした。
「別件で忙しい」
オレストの後ろでは、セイラがほほを赤らめて立っている。
「野暮を言うなよ、トム。オレストはセイラを保護することになっているんだ」
「あの、わたくし」
セイラが言いかけると、デールが微笑んだ。
「セイラは、連続詐欺事件を解決するために、勅命によって宰相の指輪をこの店まで運んでくれたのです。事件解決の功労者ですよ」
「だ、そうだ」
オレストは王家の兄弟に、丁寧に頭をさげた。
「このご恩は、忘れません」
セイラはアデルの肖像画を差し出した。
「これを、お返しいたします」
デールは大切そうに受け取った。
「ありがとう。母は……ああいう女性ですが、私には大事な人なのです」
 少し、気温がさがってきたようだった。美しい午後はしだいに夕暮れに近づいている。ジュストがすっかり眠り込んでいるコリンズを抱えてきた。
「うちのキッチンでクリームと焼き菓子をたらふく召し上がったようです」
ヘンリーは、息子を抱き取ろうとして、ちょっとためらった。
「そのまま抱えててくれないか?」
「は?」
ヘンリーは壊れ物でも扱うように、そっとコリンズの服をさぐり、ズボンの中を探し、それからひどく小さな握りこぶしを慎重に広げた。そこには、何かが大事そうに握りこまれていた。中身は、指輪だった。
「やっぱりな」
宰相の紋章入りの印章指輪をつまみあげて、ヘンリーはつぶやいた。
「セイラさんが落としたのを、コリンズ様が拾っていたわけですか」
「セイラがロクサスのに会っていた時、落としたんだろう。そこへこいつがクッキーを持ってやってきた」
ヘンリーは、甘酸っぱい匂いのするコリンズの額をそっと撫でた。
「うちのちびは、光るものや色のついたものが床に転がってると、すぐ拾い上げるくせが、まだあるんだ。さすがに口には入れなくなったけどな」
コリンズは、よい夢を見ているのか、天使のような寝顔にうっすらと笑いを浮かべた。
「でも、拾ったなんて、ひとことも」
「黙って持って帰って、こいつの“宝物”のひとつにするつもりだったんだろう」
「すごくかわいいんですけどね」
「トム、こいつを甘く見ないほうがいい。コリンズがオラクルベリーで何をしてるか知っているか?」
「はあ?」
「たらいの中で、おたまじゃくしを飼ってるんだぞ」
ヘンリーはそう言って、二代目クソガキをジュストから抱き取り、城のほうへ歩き始めた。