かもめ亭事件 第二話

 ここが戦場ならいろいろと手のうちようもあるのだが、とオレストは考えていた。 評判のカフェ、「かもめ亭」の内部である。湖を見渡すように広場に置かれた席のひとつに、ほっそりとした年配の婦人がすわっていた。
 女中や小者なども連れずにひとりきりである。淡い色のベールで顔を覆い隠しているが、オレストはその正体を知っていた。アデル太后付き侍女、セイラである。
 この日オレストが珍しく休暇をもらったのは、セイラのためだった。もちろん、セイラは何も知らない。が、先日、宰相の執務室の前を通りかかったとき、そこからセイラが忍び出てくるのをオレストは見てしまった。彼女は、青い顔でふるえていた。
 声をかければよかった、とオレストは後悔していた。特に理由はないのだが、オレストはセイラにだけは他の侍女に対してのようにふるまえないのだ。うまく口をきくこともできない。今もまた、ただ後をつけて同じ店に入るくらいで、自分から話しかけられないのだった。
 ラインハットの湖の水面が、ゆらゆらと波立っている。それを眺めてオレストは舌打ちした。
「我ながら、ふがいない。トムには見せられんな、こんなかっこうは」
店は繁盛しているようで、客は入れ替わり立ち代りやってくる。そのひとりが、セイラの方へ近寄っっていった。
 オレストは座りなおした。知っている人間のような気がする。それはまちがいなく、ロクサスの伯爵だった。
「あの二枚目崩れ、セイラさんになにをする気だ?」
伯爵はずうずうしく、セイラの隣にすわった。セイラは最初静かに話していた。 それから何か訴えているような調子に変わった。が、伯爵はにやにやしていた。
「あの面、虫唾が走る!」
 セイラは、何か取りだして、にやけ男の前に置いた。伯爵は鼻歌交じりにそれを取り上げ、それから顔をしかめた。セイラに何か、問いただしている。セイラはいっしょうけんめい首を横に振るのだが、伯爵の人相が悪く変わり、脅すような声になった。
 ついに伯爵は立ち上がり、セイラの手首をつかんだ。
「どうなっても、よろしいのか!」
とっさにオレストは飛び出した。
「その人を放せ!」
気がつくとオレストは、ロクサス伯を殴り倒していた。
「あなたは……」
セイラは驚いて口元をおおっていた。
 伯爵はようやく立ち上がり、贅沢な服からわざとらしくほこりを払い落とした。
「これはこれは、将軍閣下。野暮はいただけませんな?」
「いかにもおれは野暮で不器用な男だ。色恋の道はとんと、うとい。が、婦人を捕らえて脅すような男には我慢できん」
伯爵は嫌な目つきでセイラの方を見た。
「脅すなどとは、とんでもない。でしょう、セイラさん?」
セイラは追い詰められた小鳥のような目をしてオレストを見上げた。ふ、と伯爵はつぶやいた。
「まあ、いい。残りのものを持ってきていただければ、あなたのお望みの品を代わりにさしあげますよ。おぼえておいでになることだ」
それを捨て台詞に、伯爵は店の中へ消えていった。
 セイラは放心したように自分の席へすわった。
「あの、セイラさん」
「あ……」
乙女のようにほほを染めて、セイラは言った。
「お助けくださいまして、ありがとうございました」
「いや」
後が続かない。オレストは内心、情けなさに歯噛みをする思いだった。
「いつもいつも、オレスト様には助けていただいてばかりです」
とたんにオレストの心は舞い上がった。それでは、初めて会ったときのことを覚えているのだ、彼女は。
「私は、その」
思い切ってオレストは話し出した。
「セイラさんが、なんだか、苦しい、というふうにお見受けした。いやその、なにか困って、悩んでいる、というか」
セイラは黙っていた。
「は、話だけでも、していただけまいか。あなたが一人で苦しんでいるのは、見るに忍びないのです」
セイラの白い手が、口元をさっとおおった。オレストは一瞬、あわてた。泣き出したらどうすりゃいいんだ!
「おれしゅと?」
 そのとき、幼い声が割って入った。
 セイラとオレストは飛び離れた。
「おれしゅとと、せえら」
小さな男の子が、すぐ近くにたっていた。セイラが息を飲み込んだ。
「コリンズ様、どうしてこんなところに」
コリンズは、手にクッキーを山盛りにした小鉢を抱えていた。
「じしゅとが、くれたの」
オレストはひとつ咳払いをした。
「ここにはどうやっておいでになった?また脱走ですか、お一人で?」
コリンズは首を振った。
「ちゅちうえと、おじゅうえと、とむときたの」
「まあ、どうしましょう」
セイラがつぶやいた。
「セイラさん、あなたは」
「オレスト様、わたくし」
二人は同時に言いかけて、同時に口ごもった。
「あ、じしゅとだ」
カフェの主人、ジュストがこちらの方へやってくるのが見えた。
「コリンズ様、迷子になったらだめですよ。あ、伯父さんじゃないですか」
ジュストは、オレストの姉の息子だった。オレストは声をひそめた。
「ヘンリー様とデール様が見えているのか?」
「はい。ごいっしょだったのですか?」
「いや、違うんだ。悪いが、おれが来ていることは言わないでくれ」
ジュストはさっと視線をセイラの上に走らせたが、うなずいた。
「わかりました。が、コリンズ様のことまでは、うけあえませんよ」

「ちゅちうえ、さっき、せえらがいたよ」
たっぷりクッキーをもらってくると、コリンズは開口一番そう言った。
「せえら?おばあ様の侍女のセイラか?」
「あい」
 怖いもの知らずのコリンズが、ラインハット城内を探検しているときにおばあ様ことアデル太后の離宮へ入りこんでしまい、大公妃が恐縮して迎えにいったというできごとは、城内ではもう有名だった。
 あろうことか、アデル太后からじきじきにおやつをいただき、小鳥に餌をやる役をさせてもらい、絵本を読んでもらった、というから、コリンズ様は大物だとトムは思う。そのあともコリンズはときどきおばあ様のところへ遊びに行くらしかった。
「セイラは一人だった?」
「ううん」
コリンズはクッキーを飲み込んでから答えた。
「せえらは、変なやつとお話していたの」
とコリンズは訴えた。
「変な男?」
「のペーっとした顔で、おでこに巻き毛」
「セイラのせがれじゃないな。誰だろう?」
デールがカップを置いた。
「その人相、ロクサス伯爵かな。兄さん、素性が知れそうですよ、早く帰ったほうがいいかもしれません」
「そうだな」
立ちあがりかけると、コリンズがやだーっと騒ぎ出した。
「もっと、こーひー!」
「コリンズ!」
「しっ」
 突如デールが言った。ヘンリーは巻物を取り上げて顔を隠し、デールは古書に読みふけるふりをし、コリンズはテーブルの下へもぐった。
 トムの目の前を、ロクサス伯爵ジュリアスが妙にきょろきょろしながら足早に通りすぎていった。たしかにのっぺりした顔だった。
「見つからないでよかった。伯爵とはお互い気が合わないのです」
そっと本をさげてデールが言う。巻物を半分ずらしてヘンリーが答えた。
「そういうやつとよく付き合えるな?」
「宮廷とは、そういうものですよ」
「おまえには苦労かけてるな、おれ」
「それは言わない約束ですが、それにしても妙なそぶりでしたね」
「ああ。探し物か、尋ね人か」
「ちゅちうえぇ」
テーブルの下からコリンズが顔を出した。
「わかった、わかった。直接ジュストのところへ行って頼んできな」
「あい」
 カップを片手にとことことコリンズが歩いていく。いれちがいに、若い婦人がこちらへやってきた。しばらく迷ったあげく、彼女はトムに話しかけた。
「あの、お尋ね申しますが、今、年配の紳士がお通りになりませんでしたか?」
その話し方は、中小の商家の娘や職人の女房ではなかった。きちんと教育を受けた女性である。ただ、あまり裕福ではないらしい。田舎の地主のお嬢さんというところか、と、トムはあたりをつけた。
「ロクサスの伯爵をお探しでしたら、あちらの方へ妙に急いで行かれましたよ」
彼女はむっとしたようだった。
「あたくしを避けるなんて、どういうおつもりかしら」
トムは気になった。
「私はラインハットの警備隊の者ですが、どうかなさいましたか」
彼女はもじもじしたが、リンゴのようなほほでこくりとした。
「いいわ。お話いたしますから、助けてくださいまし。あたくし、トレミアの男爵ロデリックの娘、エマと申します」
トレミアはラインハットから見て西の、国境に近い山の中である。
「それは、わざわざ遠方からお越しで」
「本当は父が来るはずだったのですけれど、あたくしが代わりたいと言ったのです。父は、だまされやすいのですわ」
トムは思わず、そうですねと言いそうになった。
 トレミア男爵は貴族階級に生まれたにしては無邪気で、裏表のないお人よしだが、賭け事に目がなく、領地の大部分を賭博で失っている。残った領地経営も人任せで、およそ生活能力のない人間だった。
「父がお友達から、いいお話を聞きましたの。ある人が絶対売れる品物を知っているから、市場に出すための資金を出してくれた人には、それを売って十倍にして返すというのですわ」
トムはピンと来た。
「それはロクサスの伯爵ですね?入荷の日は次の満月で、資金は今日明日にも必要で」
「あら、なんでご存知ですの?」
エマは心底驚いたようだった。
「誘いに乗ってうかうかと資金を出したら、まったく戻ってこないという訴えが何件か出ておりますよ」
「トム」
後ろからヘンリーが声をかけた。
「今の話、本当か?ただの詐欺じゃないじゃないか」
エマの顔つきが険しくなった。
「わりこみなんて失礼な。あなた、どなた?」
「ご無礼をいたしました」
ヘンリーが“対ご婦人モード”にはいったのがトムにはわかった。
 “対ご婦人モード”というのは、以前従僕だったジュストや、付き合いの長いオレストから聞いた話から、トムが名づけたものだ。
 どうやら、デールもヘンリーも、生まれつき、あらゆる年代の女性をうやうやしく、女王様のように扱う……ついでに“目で殺す”才能を持っているらしい。
 今もヘンリーは、正面からひたとエマを見つめ、優しく手を握ったりして、おおまじめにかきくどいている。
 トムとしては、ジャガイモのような醜男がやるならまだ愛嬌もあるが、貴公子面をぶら下げてやられた日にはいやみでたまらない、と思うのだが、関係者の話によると、ヘンリーにふらちな下心はまったくないらしいのだった。
 現にヘンリーはマリア一筋だし、デールの日常は、へたな修道士よりずっと潔癖だった。
 トムは横目でヘンリーを見た。
「私は警備隊の関係者ですが、トレミアのエマ様、さぞかしご心配の事と存じます。ここへは、ロクサス伯に会いにいらしたのですね?」
 まったく無意識に婦女子をたぶらかすなどということがあるものだろうか?もっとも、亡くなった先の国王(ヘンリー、デール兄弟の父親)もたぶんにその傾向があったらしい。その女性が一番喜ぶことをつい口にしてしまうので、結果として口説いたことになってしまう。
 さきほどヘンリーが侍女のショーンを説得したときもそうだったが、トムはひそかに舌を巻いていた。
「ええ、はい」
田舎娘は秒殺だった。夢見ごこちのエマはぺらぺらと吐いた。
「確かな証拠を見せる、と伯爵が言ったそうで、この場所と時間を指定されました。でも父だとだまされるかもしれませんので、代わりにあたくしが行くようにと、母が申しまして」
「証拠とやら、もうご覧になりましたか?」
「はい……あの、白い粉でしたわ。あたくしが、こんなものが売れるんですかと申しましたら、必ず売れる、その証拠に大事な書状があるからお見せする、と言って席をはずされました」
「そのまま帰ってこない?」
エマは涙ぐんだ。
「そうなんですの。このままでは、トレミアへ帰れませんわ。父は大金が入ったら領地を買い戻して、ラインハットの一等地に館を買って、と夢のような事ばかり申します。あたしも母も、冬に着る服もありませんのに」
エマはハンカチを取り出してさめざめと泣き始めた。
「お気の毒ですが、男爵のお嬢様、お父上には、うまい話というのはないものだとお伝えになるほうがよいと思います」
ヘンリーは優しく言い聞かせた。
「トム」
呼んだのはデールだった。
「母上付きの侍女のセイラを探しておくれ。ロクサス伯のことを何か知っていると思う」
「かしこまりました」
トムは席を立ってあたりを見回した。コリンズが目撃したと言ったのを思い出して、トムは店のキッチンへ向かった。ちょうど、ジュストが出てくるところだった。
「ジュスト君、コリンズ様は?ちょっとお聞きしたいことがあるのだが」
「すいません、隊長が見えるちょっと前に、うちのスタッフがお手洗いに連れて行きました」
「そうか、こまったな。セイラさんを探しているんだが」
ジュストは妙な表情をした。
「急のご用件で?」
「デール様がお呼びになっているのでね」
「ここは粋を通していただけませんか」
「なんだって?」
「オレスト伯父が、一緒なんですよ」
トムは絶句した。
 最近のオレストは、冷静沈着に渋みがくわわったという評判で、なかなかの男前である。戦場の智将という趣があり、ラインハット城内でも、ファンだというご婦人が多いのをトムは知っていた。実際、なぜ結婚していないのか、トムは不思議に思っていた。
「伯父も年貢の納め時です。ここが肝心なんですから」
「そうと聞いては、いや、とにかく、どこにいるんだ、お二人は?」