かもめ亭事件 第一話

 ラインハット城正面入口ホールにかかっている大きな地図が、小さな音を立てて壁から浮いた。かわいらしい指が裏から額縁を支えている。続いて壁と額縁の間から、小さな男の子の顔がのぞいた。
 赤ちゃんのなごりをまだお尻にくっつけているような、やっと三歳くらいの子供だった。タイツのような足にぴったりしたズボンとスモックという、裕福な階級の子供らしい服装をしている。男の子は短い足をばたばたさせて、地図の裏側からホールへ出てくると、スモックについたほこりをパンパンと払った。おかっぱ頭にきりそろえた緑色の髪が、いっしょに揺れた。
「若様、またこんなところへ来て!」
 オラクルベリー大公家のコリンズ公子付き侍女、ショーンが、ホールの真ん中に立ちはだかった。男の子……若様こと、コリンズはびくっとして、それから口をへの字に結ぶと、ぱっと走り出した。
「あ、待って、コリンズ様をつかまえて!」
トムは部下たちに合図を出した。
「よし、行け!」
「はっ」
 ラインハット城の警備を預かるトムは、ショーンと共謀してコリンズ公子を捕獲する作戦に習熟していた。早い話、コリンズがしょっちゅう脱走したがるのである。
 いちおうコリンズはオラクルベリーの大公邸に住んでいるのだが、寂しがりやのヘンリーがマリア大公妃を月に一度はラインハットに呼び寄せる。コリンズも母のマリアに連れられて、ラインハットに滞在するのだった。
 元気でやんちゃなコリンズがオラクルベリーへ帰ると、城中が火の消えたような印象さえあるのだが、いればいたで、特に警備部はたいへんだった。トムはぼやいた。
「まだ三つだってのに、あの脱走癖は誰に似たよ……」
 三歳のコリンズはかわいい盛りだった。実はトムも先年結婚し女の子を授かっている。赤ん坊には慣れているトムもコリンズのやんちゃには手を焼いていた。 絶対に親譲りだと思う。すでに長いこと庭で遊んでいると、コリンズの鼻の頭に見事なそばかすが浮いてくる。厨房の最古参のメルダがときおり混乱するほど、コリンズはヘンリーの子供のころに似ていた。
 ショーンが走ってきた。
「今日は、とめられそうですわね」
昨日は失敗している。脱走したコリンズは、発見されるまで城内を探検して、いろいろと楽しい思いをしたらしい。そのあいだ、トムもショーンも、心配で生きた心地がしなかったのだ。
 そう言ったときだった。トムの部下二人がコリンズに手を伸ばし、どちらも、相手が先に捕まえるだろうと考えて手を引っ込めた。追っ手が“お見合い”をしたすきをついて、コリンズは城外へ飛び出した。
「おいっ」
「すみません、隊長!」
「謝るより、追え!外は濠だぞ、コリンズ様が落っこちたらどうする!」
部下たちは血相変えて追い始めた。ショーンとトムもその後を追った。
 城の出入り口は跳ね橋になっている。かなり広いのだが、今日も大勢の人でごった返していた。コリンズは、はしっこくあたりを見回して、橋をわたらずに濠に沿って厩の方へ逃げていった。
 厩舎では、地方の役人らしい男たちがちょうど馬を出しているところだった。トムは叫んだ。
「そのお子を捕まえてくれ!」
コリンズが走りながら振り向き、また前を見た瞬間、おもいきりつまづいた。あっとショーンが叫ぶ。コリンズは顔から倒れこんだ。
 トムもショーンも、ほかの追っ手も、一瞬その場にかたまった。
 厩舎にいた役人の一人が、そのとき駆け寄った。コリンズは手をついて顔をあげ、その場へすわりこんで、きょろきょろと見回した。トムの幼い娘もやるのだが、転んだとき、一番自分に同情してくれそうな人間を探して、それから泣く。小さな子供の本能的な打算だった。
 コリンズは、自分の方へ走ってくる男を見つけると、こいつに決めたとばかりに泣き出した。
「うわ~ん、ちゅちうえ~!」
トムは思わず、走り寄る足をとめた。
「なんだと?」
コリンズは両手を高く上げて、抱っこをせがむかっこうになった。地方の役人……のような服装をした男は、ためらいなくコリンズを抱き上げた。トムはあきれかえった。
「ヘンリー様ではないですか!」
「おまえのおかげで、みつかっちまったよ、コリンズ」
と、地味な服で変装したヘンリーが、苦笑いを浮かべて言った。コリンズは父親の服に顔をこすりつけ、べしっ、べしっと泣きじゃくった。
「こんなところで、何をなさっておいでですか」
ヘンリーはいたずらを見つかったような顔になった。
「これにはわけがあるんだ、いろいろと」
「それはそうでしょう。親子して城外脱走を企てられたのですからな」
「あ~、その」
あまり悪びれたところを見せないヘンリーが、さすがに気まずい表情になっている。
「コリンズはおれがそそのかしたんじゃないぞ。おれはただ、市中見回りに行きたいだけだ。おまえが、このごろ詐欺が多いと言ったじゃないか」
トムは考え込んだ。最近、ラインハットに詐欺が頻発している。一件ごとの被害が大きいので、気になっていた。ラインハット城の警備隊長は、王都ラインハット市の犯罪を取り締まる立場でもある。
「ぶらっと外へ出て、何も知らないような顔をしていて、詐欺師のほうで寄ってくると理想的だ。カモだと思われたいんだ」
「では、オレスト様に申し上げて」
「オレストは休みを取ってるぞ、珍しく。な?今日は見逃せ」
「なりません」
反射的にトムは言った。
「王国の宰相閣下ともなれば、市中見回り以外にお仕事は多いはずではございませんか」
「それがさ、今日はおれ、デスクワークができないんだよ」
「まさか」
「嘘だと思うならネビルに聞いてみろ。おれの印章が見つからないんだ」
 印章、というのは、ヘンリーの紋章を浮き彫りにした指輪のことだった。宰相が発行する文書は、必ずその用紙の綴じ目に熱いロウをたらし、紋章指輪を押し付けて冷ます。それが本物の証明でもあった。
「ネビルに預けたんだが、なくしやがった。印章がないと、公文書にならないんでね。今、執務室は大掃除だ。おれがいると邪魔みたいだから外へ出ることにした。本当なんだぞ?」
トムは、折れた。ヘンリーの私設秘書、ネビルなら、どんな大事なものでもなくしかねないのだ。
「しかたありませんな」
「よし、話は決まったな」
ヘンリーはコリンズを下ろして手をつないだ。
「では、若様はこちらへくださいませ」
さっそくショーンが手を伸ばしてきた。コリンズは父親の服をぎゅっとつかんだ。
「ちゅちうえぇ~」
「コリンズもお外へ行くか?」
コリンズは顔いっぱいに笑いを浮かべた。
「あいっ」
「ヘンリー様!」
ヘンリーは後ろにコリンズをかばって侍女に笑いかけた。
「いつも世話をかけているな、ショーン。マリアがとても褒めていたよ」
「ま、そんな」
「こいつはおれが見ているから、今日一日ぐらい、骨休めをしてくれ」
「でも、まあ、あたくし、どうしましょう」
「何かおみやげを買って帰ろう。何がいいかな?ドレス?靴?君の眼の色に合わせて、上品なブラウンがいい……」
ショーンは半ばぽうっとしてうなずいた。
「ほらコリンズ、おまえからもお願いしとけ」
コリンズはけろっとした顔だった。
「ごめんね、しょおん。すぐかえってくるね?」
「はい、若様。父上様のおそばにいないとだめですよ?」
「あい」
こくんとうなずいた。
「じゃ、行ってくるよ」
「お待ちください。お忍びのお出かけ、けっこうです。が、私もお供させていただきます」
「トムが自分で?警備隊長殿につきあってもらっては、こちらがもうしわけない」
「大公殿下と若君の警備は、日常業務に優先いたします」
ヘンリーは微妙な笑いを浮かべた。
「あのう、実は、弟も一緒なんだ」
 今度こそ本当にぎょっとして、トムはヘンリーの後ろを見た。やはり目立たない、地方の小役人のような青年が、これもどこか微妙な笑顔で立っている。ラインハット国王、デール一世だった。

 向こうの席でおしゃべりをしている娘たちは、自分の方を見て、今、笑いはしなかったか?
 エマは緊張していた。昨日領地を出てきたばかりである。王都に着くまでは、一家の命運のかかった大事な用件のこと、トレミア男爵家の娘の名に恥じない行動を心がけること、その二つしか頭になかった。
 だが、ラインハットは、なんというところだろう!人が多い。こみあう人だかりで歩いている地面が見えないというのは、トレミアの領地では考えられなかった。
 領地の村々では、エマが通れば誰でも丁寧に礼をし、お返しにエマも近況を尋ねてやったりしたものだ。が、ここでは、エマが誰であるかなど、誰も気にしないし、こちらにもかける言葉もない。
 エマは、たった一人で王都にいるのだった。二番目にいい服を着てきたのだが、約束の待ち合わせ場所、このカフェ「かもめ亭」では、自分がなんともやぼったく、みすぼらしく感じる。
「失礼ながら、多少当惑しております、と申し上げざるをえませんな、お嬢さん」
エマは、はっとして相手の顔を見直した。この人はなんてこの場になじんでいることだろう、とエマは思った。エマの父よりやや年下くらいのはずだが、おしゃれな紳士で、服や帽子にさりげなくお金をかけていることはエマにでもわかる。口調も視線も、洗練されていて、これが噂に聞く、ラインハット男というものかとエマは思った。
「男爵様がおいでになるものと思っておりましたが……?」
エマは萎縮しそうな自分を、心の中でしかりつけた。
「父は体調を崩して家におりますの。ロクサスの伯爵様はお急ぎのようでしたので、父に代わって私がまいりました。すべての判断を私に任せると父は申しました」
「それは、それは」
ロクサスの伯爵、ジュリアスは、色男めいた視線でエマを値踏みした。
「いたしかた、ありません。ほかならぬトレミア男爵のお言葉ですからな」
「では、問題の商品を拝見させてください」
「その前に、コーヒーはいかがですか、お嬢さん?『かもめ亭』は、うまいのを淹れますよ」
エマは怒りを押し殺した。先ほどから何度も、それを見せてくれと頼んでいるのだが、伯爵はのらりくらりとかわすばかりだった。しかも、せっかちな田舎者は困る、とその二枚目顔に書いてある。
「お急ぎでは、ありませんの?」
「はは。人目というものがありますからね」
粋な仕草で周囲に目を配ると、伯爵はふところから、小さな陶器の壷を取り出して、中身を小量、手の上に振り出した。
「ごらんなさい。“夢の砂”です」
細かい真っ白な結晶だった。かすかに、甘い香りがする。
「こんなものが……?」
エマは面食らった。父の聞いてきた話では、大金で売れる商品を伯爵が持っている、というのだった。エマはひそかに、じゃがいものつまった麻袋を想像していた。
「売れますとも。しかも、すばらしい値段でね。私はこれを持っているが、市場に出すには少々資金が必要なのです。ほんの、一万ゴールドばかり。いや、売上は十万以上ですよ。その中から二万ゴールドお返ししましょう」
「本当に売れるなら、すばらしいですけど」
と、エマは言った。
「そんないいお話なら、ほかにお金持ちの出資者がいらっしゃるのではないのですか?」
「もちろん、私も友達は多いですよ。トレミアの男爵に声をおかけしたのは、男爵には昔からお世話になっているので、すこし儲けていただきたいと思えばこそです」
恩着せがましく伯爵は言い、すばやく“商品”をしまいこんだ。
「お嬢さんは聡明な方だ。あなたをレディと見込んで、必ず売れるという証拠をお目にかけましょう。宰相閣下、ヘンリー大公が自ら書かれた書状です。きちんと署名があり、封ろうに印章の押されたものです」
「わかりました。拝見しますわ」
伯爵は、ふ、と笑った。
「お嬢さん、私がそんな大事なものを持ち歩くとお思いですか?信頼できる友人に預けてあります。この店で落ち合うことになっています。すぐにお見せしますよ」

 この季節のラインハットには、ときどきすばらしい天気が訪れる事がある。天空高く空気が澄み渡り、気持ちのよい風が湖から吹き渡ってくる。
 その日はちょうど、そういう宝石のような一日だった。
 湖畔の広場の一角に、最近新たに名所ができた。カフェ「かもめ亭」別館である。
 ラインハットの町の中にある宿屋「かもめ亭」は、若旦那ジュストの努力で、ポートセルミまでその名が聞こえるようになっていた。最近ジュストは、湖を眺める広場の片隅にカフェだけの別館を出し、雨が降らないかぎりテーブルを外に並べて、屋外でコーヒーを供するようにした。
 ラインハット市民のあいだにコーヒーはそろそろ定着してきて珍しさは薄れていたが、ジュストの入れるコーヒーの香りと味にひかれ、店は繁盛していた。
 また市民はカフェの新たな楽しみを見つけたようだった。時には異国のトゥーラ弾きの奏でる曲に耳を傾けてコーヒーをすすり、あるいは客どうしカップを片手に政局を論じ合う。
「ヘンリー様は、また新しい船をグランバニアへ発注するんだって?」
カフェは今日もそんな話で盛り上がっていた。
「大砲を六門据えた、本式の軍艦らしいね」
「最近、海賊も多いからな」
裕福な学生らしい若者が鼻を鳴らした。
「また変な名前にならなきゃいいが」
隣のテーブルにいた老人が相槌を打った。
「いやあ、最初のあの快速船の名前はひどかったね。初めて聞いたときは耳を疑ったよ」
「大公は頭のきれる人だが、ネーミングのセンスだけはないな」
「子供以下だね」
学生が首を振った。
「おれの友だちが海軍に入るといっていたのに、やめましたよ。乗る船の名前が恥ずかしくって、とても親には言えないからって」
「気の毒にねぇ」
その場にいた者がいっせいに同調した。
 トムはこっそりと、隣に座っているヘンリーの顔を盗み見た。
「いいんだ、いいんだ。どーせ」
羊皮紙の巻物で半分顔を隠すようにして、ヘンリーはヤケぎみにつぶやいていた。
 おれが詐欺師だったら、カモを見つけにカフェ「かもめ亭」に行く、そう言ってヘンリーはこの店を選んだのだった。適当にこみあっていて、誰がいてもおかしくないところがいいのだと言う。どうやらヘンリーもデールも、時々立ち寄るらしい。
「兄さんたら、船の名前ぐらいしかけちをつけるところがないんだから、いいじゃありませんか。それに義姉さんは、いい名前だと思ってくれているのでしょう?」
そう言ってデールがヘンリーを慰めていた。デールは、地味な衣装に着替えると、役人どころか学生のように見える。
「あのう、陛下、こちらにはよくお通いになるので?」
トムが聞くとデールは穏やかに微笑んだ。
「月に一度あるかないかですよ。最初は私が兄を連れ出したのです。忙しすぎるようでしたからね」
 さきほどまでデールは、奥のテーブルにこのカフェの主然とおさまった老学者と、なんとかいう古文書のことで熱く話しこんでいた。
 老人がデールを“よく勉強している若造”ぐらいに考えているのが、会話からわかった。よもや国王その人とは思うまい。
 昨年デールは、この湖の対岸に念願の王立学問所を開設していた。学長には、デール本人の要請で大学者デズモン博士を迎えている。国の内外から識者を募り、また古文書と伝説に関して充実した図書館を設け、理想の学問所にするつもりだとデールはうれしそうに話していた。あの老人も、デールは教授としてスカウトする気なのかもしれない。
「失礼いたします。お代わりをお持ちいたしましたが」
かもめ亭の主人、ジュストがまわってきた。
「ああ、もういっぱい」
ヘンリーがカップを差し出した。
「まだお飲みになるんですか?」
トムは驚いた。
「仕事してると、一日十杯は飲んでるぞ。もうやみつきでね。ありがとうジュスト。今日は味わって飲むよ」
 ジュストはすっかり、カフェのマスターらしくなっていた。ジュストの伯父、オレストは、この甥を軍に入れるつもりだったとトムは聞いていたが、マスターの方が性に合っているらしい。
「ちゅちうえ、こりんじゅも~」
「コリンズはだめだ。子供だから」
ジュストはカップにクリームをなみなみと注ぎ、上から一滴コーヒーを垂らしてコリンズに渡した。
「どうぞ、若様」
「わあ!」
コリンズは目を輝かせた。そのままヘンリーの膝によじ登り、クリームをすすった。
「さっきからいい香りがするんだが」
「キッチンで、クッキーを焼いてますから。お城のメルダさんにはかないませんが、なかなかうまいと評判なんで、焼きあがったら若様にお持ちします」
コリンズは、いそいでヘンリーの膝からすべりおりた。
「じしゅと、クッキーがあるの?」
「ございますよ。もう焼けたかな?見に行きますか?」
「あーいっ」
コリンズはもう香ばしい香りにわくわくしているようだった。