大司教降臨 第三話

 樫の月、水晶の日が訪れた。オラクルベリーは、粛々とした朝を迎えた。
 夜明け前から、服のどこかに太陽と門の印をつけた信者たちが港に集合し、しかも黙然と整列していた。彼らの大司教の上陸を待つつもりらしかった。中には、宮廷人らしい贅沢な服装の者も多く混じっていた。
 オラクルベリーの住民は、ヘンリーが大司教の上陸をおとなしく許したのをいぶかしく思っていた。
「きびがわりぃや」
「何かお考えがあるのかね?」
 人々は信者を遠巻きにして眺めていた。仕事にならないのである。
 ふだんの日なら、大公妃のファンがたむろしている大公邸の周辺には、朝から信者の一団が詰め掛けていた。ほとんど無言で、ただ取り巻いている。大司教が現れて一言命じれば、大公邸に押入ってヘンリー一家を引きずり出すつもりでいるのは明白だった。
 時はただ流れるばかりだった。正午が近くなった頃、一艘の船がオラクルベリー沖へ現れた。その船の広げた帆には、堂々と太陽と門が描かれていた。
「大司教様だ!」
誰かが叫ぶと信者はいっせいにどよめいた。ボアレイズがラインハットの地を踏むのはおよそ二年ぶりである。聖者の風格を漂わせる白髪白髭の大司教は、船の上から高く手を上げ、集まった信者を祝福した。

 バートンは肩をそびやかすようにして歩きまわった。ヘンリー一家が逃げないように見張ろう、と言い出したのはバートンだった。オラクルベリーの住人たちは、信者に白い目を向けてくる。その視線を跳ね返すように、バートンは熱心に見張りについた。
 ほかの信者たちがバートンほど見張りに熱を入れないのが、バートンには腹立たしかった。
「災厄が来るって言うからここまで来たけど、ヘンリー様には悪く思われたくないよ」
「大公は法難そのものじゃないか!」
「でも」
いくらバートンが怒鳴っても、信者の老女はつぶやくのだった。
「ヘンリー様のおかげでうちのせがれは戻ってきたのに。どうかヘンリー様が大司教様と仲直りしてくださいますように」
 正午が近づいたとき、港のほうからざわめきが聞こえてきた。大司教様がついにお見えになった、という声がバートンのところまで伝わった。
 そのときだった。信者の一人がバートンを呼びに来た。
「バートンさん、来てください」
大公邸の正面が開いたというのである。バートンは急いで駆けつけた。
 それはおとぎばなしのような光景だった。
 大公邸の正面は大きく開け放されていた。侍女や従僕が正面の車寄せに整列する中、金の花を縫い取った白いドレスのマリアが、緋色のストールを肩に巻いて現れ、腕に抱いた赤ん坊をあやしてから侍女に預けた。
 すぐあとから、ヘンリーがきた。マリアと同じくヘンリーも、まるでこれから舞踏会へ出席するような姿だった。執務中は好んでダーク系統の服を着るヘンリーが、その日は明るいターコイズブルーを選び、略礼装のケープではなく、くるぶしまである正式なマントの、しかもマリアとおそろいの真紅をつけていた。
 正装には欠かせないヘンリーの帽子は、白い羽根を飾った緑。マリアは形よく髪を結い上げ、ヘッドドレスは翡翠、ただしベールはない。
 ヘンリーは一度幼い息子のあごをくすぐってやり、従僕に何か言ってから、雅やかなしぐさでマリアと腕を組んで外へ出てきた。
 バートン始め信者の群れがヘンリー夫妻を取り囲んだ。
「おっと」
片手を挙げてヘンリーが制した。どうという事はない制止なのに、バートンたちは思わず足を止めた。
「マントのすそを踏むなよ。少し離れてくれ。これから港へ行くところなんだ。あいつ、来たんだろ?」
バートンはなんと言っていいかわからずに、ただうなずいた。
「行こう、マリア」
「はい」
ヘンリー夫妻はラインハット城の回廊を行くような気軽さで、港へ向かって歩き始めた。そのあとを、バートンたちはただぞろぞろとついていった。

 オラクルベリーは大きく分けて、港の部分と市街の部分に分かれている。市街のほうは、奇妙な老人が住み不思議な店のある迷路のような下町、預言者が出没しカジノのある歓楽街、そして世界に冠たる商人街、さらに豪華な邸宅が並ぶ屋敷町からなっていた。
 下町が終わり港の始まるあたり、大きな倉庫が並ぶ広場で、大司教は信者に囲まれて待っていた。
「ラインハットの王子は、みめ良い殿方が多いが」
数歩離れた位置から、大司教は暖かい声で呼びかけた。
「これはまたいちだんと美々しくていらっしゃる。お目にかかれて光栄ですな、美男におわす、ヘンリー殿下」
 いかにも大司教らしい、余裕に富んだ挨拶だった。バートンは心中誇らしく思った。それにくらべてヘンリーの返事は、とんでもないものだった。
「余裕づらも今のうちだぞ、ボアレイズ」
大司教は眉一つ動かさなかった。
 ヘンリー夫妻は信者たちの作る輪の中へ進み出た。大司教も護衛を離れ、彼らは向かい合った。
「まずは聞かせてもらおう。おまえたちは十年かかった仕込みを投げ捨ててラインハットを逃げ出した。なぜ今ごろ帰ってきた?」
大司教は一度目を閉じ、また開いて、神々しいような声で告げた。
「ラインハットに、時が至ったのです。光の道を歩む時が」
「よく言う!」
と、ヘンリーは吐き捨てた。
「重ねて聞く。おまえたちがラインハットを牛耳っていたあいだに、本部での修行と称して多くの人間が行方不明になっている。彼らのリストは、今もおれのデスクにある。そいつらはどこへ行った?」
「彼らの一部は修行を通じて高みに上りましたが、大部分は、悲しいかな、脱落いたしました」
「ほう。郷里へは帰ってきていないぞ」
大司教は高貴な面差しに微かな悲哀を込めた。
「存じません。すべて光の神の御心のうちです」
「それで通せると思うか!もう一つ聞くが、いまおまえたちが布教を許されたらどうするつもりだ?」
大司教はふと天をあおいだ。
「おお、神よ。この公子の心を溶かしめたまえ。もし許されますなら大公殿下、まことの神の言葉を告げまする。このオラクルベリーに、そしてラインハットに、頭に霜を置く年寄りから、ゆりかごの幼子に至るまで」
バートンは本物の感動に震えた。信者のあいだから、ためいきとも嗚咽ともつかないざわめきがあがった。
 だが、ヘンリーは冷ややかだった。
「さすがはしゃべりが本職だ。問うに落ちずに、語るに落ちたか」
なぜかヘンリーは、マントで覆った胸に片手を入れた。
「いい事を教えてやろうか、ボアレイズ。おれたちにもゆりかごの幼子がいる。今年で一歳の、男の赤ん坊だ」
一瞬、大司教の形相が変わった。
「おやおや、目がぎらついているぞ、大司教殿。ちがうよ。おまえたちのお目当ての子ではない。月齢にして、半年ばかり早すぎる」
クックッとヘンリーは笑った。
「たぶん、おまえたちは、その特別な男の子がもう生まれたということしかわからないんだ。名前も生地も知らない。生まれた日も漠然とわかるにすぎない」
大司教のまわりにつきそってきた弟子たちが、不安そうにみじろぎした。ヘンリーは軽く視線を流してつぶやいた。
「大昔、バトランドという国で、やはり子供たちが次々とさらわれた事件があったそうだ。なんと将来勇者になるはずの子を魔物たちが探して、殺そうとしていたとか」
弟子の一人がびくりと身体を震わせた。
「バトランドもそうだったが、一人の子供を効率よく捜すには人口の多い土地を支配するのが早い。ラインハットを狙ってきたのは、そのためだ」
バートンは目を疑った。大司教の目の下のあたりが、ひくひくと卑しげに動いていた。もう聖者の風格はない。そこにいるのは、扮装のはがれかけた一人の役者だった。
「何をおっしゃいますやら、私にはわかりかねますが」
「そうかそうか。じゃあ、別の話をしようか」
話しながらヘンリーの指は、マントの下でせわしなく動いていた。
「この世のどこかに、おまえたちは大きな神殿を造っている。光の神とやらを迎えるために。その神殿に必要な技術も労働力もおまえたちはさらってきた奴隷の手で賄った。ラインハットからもだ」
 大司教は態勢を立て直そうとしていた。ぐっと息を呑みこみ、姿勢を正す。先ほどの狼狽が嘘のようだった。役者は見事に迫害された聖者を演じていた。だが、バートンにはそれはもう、演技に見えた。
「おたわむれを」
「その建設現場はこの世の地獄だ。日がな一日、奴隷たちは苛酷な労働に追われ、満足に食べ物も与えられない」
 ほとんど表情を動かすことなく、ヘンリーは淡々と言った。だが、バートンを含めた信者たちは、自分たちがヘンリーの冷たい怒りにさらされているのがわかった。
「よしんば、そのようなところがあるとしても、光の教団と何のかかわりがありますか?」
「かかわりを知りたいって?じゃあ、見せてやるよ」
ヘンリーはさりげない調子で言うと、左半身からマントを払いのけ、上着とドレスシャツの左側をおおきくはだけた。裸の胸があらわになった。
 バートンは一瞬、呼吸を忘れた。まわりの信者の中から、短い悲鳴があがった。
 ヘンリーの上半身右側は絹の上着とリネンのシャツで整っている。それだけに左側の、剥き出しの胸のむごたらしさが目だった。
 焼き入れによる、刻印である。
 肩から腹の近くまでを、大きな円形の焼き印が占めていた。
 円内は八方向に光輝を延ばす太陽。さらに内側に門。
 黒く見える線の一部がよぎり、その下で左乳首は完全に焼き潰されている。焼き印の上にも幾状もの鞭傷が走り、なかには明らかに刃の先でつけられた帯状の傷もあった。
「十年」
とヘンリーはつぶやくように言った。
「この印を抱いて奴隷として生きのびた。これをつけられたとき、おれは七歳だった。おまえらは、子供でも女でも容赦はしなかった」
 今まで無言だったマリア大公妃が、そのとき進み出た。マリアは大司教に背を向け、ヘンリーと向かい合った。その肩から、赤いストールが滑り落ちた。腰まであらわになった雪のような背には、同じ刻印が焼き入れられていた。すなわち、太陽と門。
 オラクルベリー全体がどよめいた。むごい、と誰かがつぶやくのをバートンは聞いた。
「二年ほど前、おまえたちのところから、三人の奴隷が逃亡しました」
マリアは明瞭な声で話し始めた。
「それは一人の兵士の、おそらく命と引き換えでした。私たちは多くの人々を後に残してきました。こうしている間にも、おまえたちの地獄で、人は苦しみ、人は死ぬ」
 ヘンリーはマリアを抱き寄せ、自分のマントでマリアの背を覆った。
「わかったか?ボアレイズ。ラインハットはあきらめろ。おれたちが、絶対に許さない」
 ボアレイズは呆然としていた。信者の間から、非難のささやきが次々とあがった。バートンの隣で、信者だった男が、さも恐ろしげに太陽と門の記章を服からちぎって捨てた。ボアレイズとその仲間はこの同じ図形を鉄で鋳って焼印にし、真っ赤に熱っして女子供の肌に無理やり押し付けたのだ。バートンにもその印は、急に忌まわしいものに見えてきた。
「同じ焼き印を胸に刻まれた男が、今グランバニアの王位についている。グランバニアに行ってもむだということだ。サラボナにはもう、手を回した。テルパドールは知っているな?ルドマン殿から伝えてもらったよ」
 ボアレイズは二、三歩後ずさりし、いっしょに船でやってきた弟子たちの列までさがった。明らかにおびえていた。バートンは、自分がそれを冷ややかに見ていることに気づいて驚いた。
「とっとと失せろ」
ヘンリーは厳しく言った。
「おまえを見ていると、とっつかまえて大神殿の場所を吐かせてやりたくなる。教団流の拷問なら、いくつか身に覚えがあるんだ」
ボアレイズはぞくっと身を震わせた。
「だが、どうせ小物だろう。見逃してやるからとっとと行け。二度とオラクルベリーにもラインハットにも手を出すな!」
たたきつけるような声だった。ボアレイズはあとずさりをし、乗ってきた船に向かって逃げ出した。そのあとを弟子たちが守って走った。まもなく、太陽と門を帆に飾った船がオラクルベリーを離れていった。
「セルジオ!」
ヘンリーが叫んだ。たちまち一艘の船がボアレイズを追いかけて動き出した。
「あれは『迅雷の女王』です。まけるものならやってみるがいい」
屈強な手代に守られてセルジオ商会の主がやってきた。ヘンリーは肩を入れ、マリアは剥き出しの背をストールで覆った。
「だが、深追いはさせないでくれよ」
ヘンリーの言葉にセルジオは軽く頭を下げた。
「心得ておりますよ。それにしても、危ないまねをなさいましたな、妃殿下もごいっしょとは」
マリアは微笑んだ。
「これはわたしの戦いですもの」
 老女がマリアのそばへよろけるようにやってきて、涙声で何か話し出した。マリアは優しい表情で聞いてやり、皺だらけの手を取ってそっとなでた。
 マリアが夫とともに歩き出すと、そのあとを慕うように人々が追いかけた。オラクルベリーに過ぎたるものは、と歌に唄われるマリアは慈しみに満ちた微笑を信者市民の区別なく、惜しみなく与えている。
 バートンもまた、ふらふらとその列に加わっていった。