グランバニアからの手紙 第一話

 節くれだった農夫の指で、イェルド農相は隣の閣僚の袖をつまみ、軽くひいた。ヴィンダンがふりむいた。
「ごらんなされ」
 ラインハット城の会議室は中庭を通して反対側の回廊を見る事ができた。そこは現国王デール一世が少年時代から引き続き使っている、病室を含む居住区である。
 従僕が扉を開く。国王と大公が現れた。
 オレスト将軍、イェルド農相、ヴィンダン蔵相、タンズベール長官ほか、閣議に参加する大臣たちが、首を伸ばして反対側の回廊を眺め、どこかほのぼのした微笑を交し合った。
 ヘンリー、デール兄弟は、彼らの息子か孫の年である。
 ヘンリーは濃紺の服に暗赤色のケープをつけ、白い羽根のついた黒い帽子をかぶっていた。羽根を帽子にとめるバッジは鮮やかな緑で、彼の紋章がエナメル細工になっている。
 回廊の向こう側は遠いので声は聞こえないが、ヘンリーは嬉しそうだった。表情はくるくると変わり、笑顔はあどけないほど明るく、足取りはステップを踏むように軽く、両手は大きく広げてあふれ出る思いをほとばしらせる。それは辣腕の宰相の顔とは別に、弟には見せるヘンリーの顔だった。
 デールは明るいキャメルの服に緑のケープを着用し、ヘンリーと同じタイプの帽子をかぶっていた。病気がちで、透き通るほど色が白い。穏やかで知的で、にこにこして兄の言う事に、いちいちうなずいているようだった。
 ヴィンダンは思わずつぶやいた。
「こうして見ると、お二人とも御父君に似ておいでだ。ラインハット一の伊達男といわれた御方だったが」
「先代の御顔は詳しく存じませんが、それにしても仲のいいご兄弟ですな」
イェルドが言った。年配の国民は、この異母兄弟が王位を争って不倶戴天の敵のように噂された時代を知っている。いまだに意外に思うらしかった。
 イェルドを見出したのは、デールだった。
 イェルドは豪農の家に生まれ、若いころから品種や土壌の改良に熱心な農夫だった。学問もあり、食糧増産に関する意見書を提出したこともあった。偽太后の時代にはグレイブルグ大公領にいたが、あやうく一家で飢え死にしかけていたところをオレスト率いる正規軍に救われ、意見書を読んで名前を覚えていたデールが閣僚に加えていた。
 デールとヘンリーは回廊の角を曲がった。ややあって先触れの従僕が国王出座を告げた。閣僚はいっせいに起立した。
 従僕が扉を開くと、大公を従えた国王が入ってきた。ヘンリーは、プライベートでは今でも“親分”であるらしかったが、公の場面では常に弟を立て、主君として扱う。今も臣下の分を守って起立して待つヘンリーの前を通り、デールは上座について、 家臣たちに着席を促した。
 従僕が会議室へコーヒーを運んできた。コーヒーはつい最近、オラクルベリーの商人オランがサラボナのはるか南テルパドールの近くで産出するという豆を輸入して以来、あっというまにオラクルベリーで流行した。
 最初は真っ黒だし、すさまじい味に思えるが、クリームや砂糖を入れて飲用にする。眠気が取れてやる気が出ると評判になり、ラインハットにも広まってきた。
 御前会議はデールの一言によって始まった。
「御集まりの諸卿に、報告したい事があります」
デール一世は軽く咳払いした。
「本日未明、我らが尊敬すべきオラクルベリー大公妃マリア殿が、健康な男の子を出産されました」
おお、と会議室は沸きあがった。おめでとうございます、の声があちこちからあがり、なかにはわざわざ席を立ってヘンリーに握手を求める者もいた。
 では、あのうれしそうなようすはこれだったのか、とヴィンダンは納得した。その日の朝に父親になったばかりのヘンリーは、かすかに上気していた。
「ああ、ありがとう、諸君」
咳払いをして照れくささをごまかして、ヘンリーは続けた。
「おかげさまで母子ともに健康だ。ちなみに、国王陛下に名付け親をお願いした。というわけで、早々に見舞いに行きたいので、閣議も早く進めたいと思う」
冷やかしまじりの拍手が起こった。
「え~、と」
やや上がりぎみにヘンリーは続けた。
「初めての遠距離貿易は満足すべき結果をもたらした。詳しい収支については後でヴィンダンが説明してくれるはずだ。これによって、急を要するプロジェクトのいくつかを進める事ができる」
 ヘンリーは国防に関してオレスト、厚生についてはユージン・オブ・タンズベール、農業と食糧事情にはイェルド等々を指名して報告を要求した。
 変われば変わるものだ、とヴィンダンは思った。ほんの二年ほど前には、ラインハットの片田舎で貧困と世の不正にあえぎながら、この国は滅びるしかない、とヴィンダンは考えていたのである。
 最低水準から抜け出しただけとはいえ、もとワルガキの宰相は立派に国を運営していた。
 ヘンリーが商業と金融に関してヴィンダンに説明を求めたとき、ヴィンダンは緩みかけた口元を引き締めた。
「実は、これまでのプロジェクトはすべて仮想の収入に頼ったものである事を、賢明なる諸卿はお気づきの事と思います」
「その収入は不安定だという事ですか?」
敏感なデールが真っ先に聞いた。ヴィンダンが最高会議に出席するようになって驚いたことのひとつに、今まで飾り物だと思われてきたこの国王の頭のよさがある。
「船の問題です、陛下。今回の貿易にはセルジオ商会の持ち船『疾風の女王』号を借用いたしました」
「『女王』はいい船だった。たぶん、オラクルベリーで最高の船だと思うぞ?」
「同感です、殿下。が、セルジオ自身の見たてによれば、『疾風の女王』が遠距離の航海に耐えられるのは、あと数えるほどとか」
会議室は沈黙した。
「新しい船があればいいんだな?」
 こういうとき、ヘンリーはけしてへこまなかった。平気な顔をしている才能というものがあるとすれば、ヘンリーがその持ち主だ、とヴィンダンは思う。
「仰せのとおりです、殿下。ここに問題がございます」
「聞かせてもらおう。何が不足だ?資金ならなんとかする」
「実は、良材がございません」
ヴィンダンは古い帳簿を開いた。
「先々代国王陛下のころ、やはり船が要りようとなって建造する事になったようです。ところがそのときすでに、ラインハットには遠距離を航行できる船を作るに適した良材がない事がわかりました。ごらんください、建材を輸入した記録がございます」
「なんだ、輸入ですむのか。どこから?」
ヴィンダンは呼吸を整えた。
「グランバニアでございます。はるか南方にある、大森林王国です」
会議室はざわめいた。それは、あまりにも遠い国だった。
「ヴィンダン」
デールが声をかけた。
「古い記録を読んだ記憶があるのですが、昔、かの国と我がラインハットは、友好関係にあったのではないですか?」
「そのようです。グランバニアは船を作る技術を必要とし、わが国は良材を必要としておりました。先代のころ、ラインハットから当時の国王陛下ご自身を正使として使節団を派遣した記録がございます」
「父上ですね」
「うちの親父だ」
デールとヘンリーがほとんど同時に言った。オレスト将軍が咳払いをした。
「私もお供しました」
「本当か」
ヘンリーは目を見張った。
「オレスト、おまえグランバニアに知り合いはいないか?先例をたどるならグラバニアへ行って木材を買わなきゃならないんだが、いきなり行くより紹介者があれば助かるんだ」
「私は新米の兵士だったのですよ。最初国王陛下をお送りする警備隊に入ってグランバニアへ行き、すぐに戻って、何ヶ月かしてまた御迎えに行きました。兵士仲間ならとにかく、上つ方に知り合いはできませんでしたな」
「では、誰かずっと随行したものは」
「昔のことですから、たいてい故人か、行方知れずです」
「そうか」
ヘンリーはふむとつぶやいた。
「とりあえず、ヴィンダン、当時の技術を伝える船大工を探し出してくれ。おれはオラクルベリーの商人の誰かに頼んで、とにかくグランバニアへ船を出させる。派遣する使者については考える余地があるな。準備のできる間に、少しでもグランバニアにかかわりのありそうな人物を探し出す。方針としてはそんなところだろう」
デール王が絶対に兄に及ばない点の一つが、このヘンリーの行動力だとヴィンダンはあらためて思った。
 ヘンリーはデールに言った。
「閣僚たちには、プロジェクトを進めさせたく思います。この件は、私の預かりとさせていただきたいのですが」
「私も大公に一任するのがいいと思います」
デールは穏やかに微笑んだ。
「大丈夫、大公なら、うまく行くでしょう」

 数日後、オラクルベリー大公は秘書のネビルを連れて商人組合を訪れた。グランバニアへ使者を遣わす話は意外にすんなりすすんだ。
「セルジオ殿にばかりいい思いはさせられません」
オランがそう言って、やや小型だが遠距離航行用の商船『黄金の馬』号を貸してくれる事になった。
「ここだけの話ですがな、殿下」
オランは片目をつむった。
「あなた様は、セルジオ殿の大のお気に入りなのですよ。面と向かっては苦い顔を作ってはいるが、陰へまわればもう、手放しで褒めちぎっておる」
「少しぐらい褒めたって罰はあたらないだろうよ。サラボナであいつはよく儲けたじゃないか」
「確かに儲けは大きかったが、あたしに言わせりゃそれだけじゃありませんな。セルジオ殿のところは娘ばかり三人で、息子がいない。どうやらセルジオ殿は」
大きく咳払いをしてセルジオが入ってきた。
「オラン殿、あまりおしゃべりがすぎると安っぽくなるもんですな」
「これはこれは。噂をすれば影というやつで」
オランはニヤニヤした。セルジオは苦虫を噛み潰したような顔をつくっていた。
 ネビルは不安だった。この叔父が内心、若い大公の才能と覇気を愛していることはわかっている。もし未婚であれば、娘の一人と結婚させたいくらいのことを考えているらしかった。
 娘の一人、という事は、あのリアラが、とネビルは考えて、身震いした。ライバル(ヘンリー)が早々に女房子持ちになってくれて助かった。美人の従妹リアラと結婚して九代目セルジオを継ぐ、というのが今でもネビルの最高最大の人生設計である。
「そうだ、セルジオ、おれの親父と付き合いがあったよな?」
「エリオス六世陛下の事でしたら、確かに。最初はご学友を、のちに従僕を務めました」
「もしかして、親父と一緒にグランバニアへ行かなかったか?」
セルジオはきょとんとした。
「いえ、そのころはもう、家業の手伝いをしておりましたよ」
「そうか。いや、グランバニアにつてが欲しくてな」
「今回は、サラボナのようには、殿下の魔法がききませんか」
ヘンリーは苦笑した。
「おれも多少は使うが、あのときの魔法使いはルークだったのさ。そういえば」
何か言いさしてヘンリーは考え込んだ。
「なあ、セルジオ、ルークの顔に、見覚えはないか?パパスという名に聞き覚えは?」
「は?あの花婿殿。と、その父君?いいえ……」
「オレストはグランバニアへ行った。あいつはルークの親父殿に見覚えがあると言った。セルジオは行ってない」
ヘンリーは天井を見上げた。
「オレストがパパス殿の顔を見たのが、グランバニアなら?」
「可能性の一つではありますが」
 ヘンリーは立ちあがった。
「ネビル、行くぞ」
「はぁ、どちらへ」
「当時の事を覚えていそうなお人にあたる」
ヘンリーはもう飛び出していた。
「義母上、アデル太后だ」