ネビルの災難 第二話

 ジュストが厨房からポットを運んできたとき、執務室にはヘンリーとヴィンダンだけしかいなかった。
「で、反応のほうは?」
「思ったよりずっと静かでございましたな。表立って不満を述べる者はいませんでした」
控え室でジュストはカップを温めながら、聞くともなしに聞いていた。
「よくない兆候だ」
とヘンリーの言うのが聞こえた。
「は?」
「体質的に、何も変わっていないと言うことさ」
ヘンリーの声は苦々しいようだった。
「おれたちが提案したのは、領主階級の権利を制限して、税も労役も領民への負担をかるくし、国力の回復を促すプランだった。宮廷のだれかれにとって、おもしろいはずがないだろう」
「でも、誰も不満を言わない……?」
「はっきり反対するくらいならかわいげもあるんだがな。連中の考えでは、自分だけは権力者に取り入って、特権を認めてもらえばいい、そんなところだな」
ヘンリーは突然、クックッと笑った。
「ヴィンダン、おまえなんぞ、格好の獲物だぞ。最近、貴族の誰かから妙に親切なお誘いがかからなかったか?」
ヴィンダンは鼻を鳴らした。
「家内がお茶会にご招待を受けましてな。せがれの縁談とかで。ついこのあいだまで、飢え死にしかけていた私の一家が、いまや売れっ子です」
はっ、とヴィンダンは吐き出すように笑った。
「安心してくだされ。あのつらい時代に鼻も引っ掛けてくれなかったお偉いさんたちと馴れ合うようなまねは、このヴィンダン、金輪際いたしません。それよりも殿下はいかがです?最高の獲物とは国王陛下でなかったら、殿下のことでしょうが」
 ジュストは聞いていてはらはらしたが、この歯に衣を着せない男の言うことは本当だった。グレイブルグ大公妃ユリアが実権を失った今、宮廷を牛耳るのはそろって独身の国王かオラクルベリー大公と首尾よく縁組をした家と決まったようなものだった。
「年寄りの言うことは聞くものですぞ、殿下。早いところ身を固めなされ」
「それがあっさりできりゃ、苦労しないよ」
ためいきまじりにヘンリーが言うのが聞こえた。
 ジュストは薄手のカップふたつに琥珀色の茶を注ぎ、盆に載せた。クリームを持ってきたか、と聞こうとして、ネビルがいないことに気づいた。
 舌打ちを一つして控え室を出ると、ネビルが廊下で誰かと話しこんでいるのが見えた。
「というわけで、きみとは遠い親戚にあたるのだよ、我が家は。これからはなにごとにつけ、伯父とも思って私を頼ってくれ」
「もったいないお言葉です、伯爵」
はためにもネビルは舞い上がっていた。
「大公殿下は当代の英雄であらせられるが、それだけにさぞ君の仕事も大変だろう?いつでも息抜きに来てくれてかまわないのだよ。妻も歓迎するだろう。そうだ、娘にも引き合わせたいね。若い者同士、話が合うのじゃないかな?日ごろの苦労やできごとなど、何でも話してくれれば」
つまりネビルにヘンリーのようすを細かく報告しろ、と言っているのだった。が、ネビルは伯爵令嬢にちやほやされる夢を見ているのか、ぽうっとしていた。
「ああ。伯爵、お嬢様にお目にかかれるとは、光栄のいたりで」
そのお嬢様に鼻を殴られたのはどこのどいつだった、とジュストは思い、ネビルを捕まえようとして一歩踏み出した。
 そのとき、メインストリートがざわめいた。
「……お通りです!」
国王付の従僕二人が露払いをしている。そのうしろから、数名の侍女を従えた若いデール王が、恰幅のよい中年の貴族と何か話しながら歩いてきた。時刻からして、食堂から私室へ戻るところらしい。
「国王陛下!」
ネビルを誘っていた伯爵は瞬時に態度を変えた。ごきげん麗しく、で始まる長い挨拶を大げさな身振りを交えてかましている。
 デールはわざわざ立ち止まり、しんぼう強く聞いていた。王様という商売もけっこうたいへんだとジュストは思う。
「伯爵もお元気そうでけっこうですね」
おっとりと微笑む。が、伯爵と王の連れの貴族は、おたがいにレトリックの多い挨拶を交わしながら、火花を飛ばしあっていた。貴族といっても、お互い同士仲がいいとは限らない、というのが、ジュストの王宮での発見のその2である。
「ジュスト」
 不意に王に名を呼ばれて、ジュストは軽く頭を下げた。
「兄上はもうお帰りですか」
「はい。ただいまお仕事中です」
「じゃまをしてもかまわないでしょうか?」
「よろしいかと存じます」
デールはにこっと笑った。
「グレイブルグではご苦労でしたね」
貴族たちは、ぴくっと体をこわばらせたように見えた。ジュストはもう一度一礼した。
「陛下、私はこれにて」
「所用がございますれば」
デールはニコニコしたままだった。
「送ってくれてありがとう。大儀でした」
そそくさとさがる貴族たちを見送ってデールは息を吐いた。
「しかたないですね。いずれ知れ渡ることですし」

 ヘンリーは羊皮紙の山を抱えたヴィンダンを送り出したところだった。
「よ。叔母上は思ったとおりの落としどころへ落ち着いたよ」
「そのようですね。今ごろは宮廷中がグレイブルグのことを知ってます。兄さん、ことは急を要します」
自分の従僕と侍女を控えの間に残し、デールはせっぱつまった口調で話し始めた。
「なんだよ、いきなり」
「今まで兄さんが王宮内でご婦人に押し倒されないで済んでいたのは、まだユリア叔母が返り咲く可能性があったからですよ。今日を限りに、兄さんは狼みたいな姫君たちの唯一無二のターゲットになったんです」
「それを言ったら、デールだって」
「私は病弱が表看板ですからね」
「ずるいぞ」
「そういうことを言っている場合ですか?なんとかしないと」
執務室と控えの間を隔てる扉が閉まりきっていないために、兄弟の会話は筒抜けだった。
「こんなことは言わなくてもわかっていると思いますが、今までと同じだと思われたら致命的なんです。特定の貴族に特権を与えていると国民に思われることは避けたい」
「特権を付与しないような、偏りのない、しかも正式な結婚。それでOKだな?」
「ええ。彼女たちの狙いは、オラクルベリー大公妃の地位ですから」
「よし、デール、耳貸せ」
 ヘンリーとデールは窓際へ移動したらしく、話は聞こえなくなった。が、一度デールが小さな笑い声を上げた。
「そりゃひどいな。兄さんを怒らすと、そういう目に合わされるんですか?」
「人聞きの悪い……。今回はしかたなくあいつに泣いてもらうが、関係各位に詫びはいれるし、あいつの骨も拾ってやるつもりだよ。悪意でやってるわけじゃないさ」
「へぇ。悪意があったらどうなるんです?」
今度はヘンリーが低く笑った。
「骨なんか、残るかよ」
そう言ったときのヘンリーの顔を、ジュストは想像できるような気がした。

 同僚のジュストが、お部屋でお茶をご所望だと言ったとき、ネビルは最初自分で行けば、と言った。
「大公殿下と国王陛下がおそろいなんだが、おれが行ってもいいのか」
「それを早く言いたまえ。ったく、気が利かないな!」
 オラクルベリーに比べてラインハットのどこがいいかといえば、あこがれの王族貴族があちこちにぞろぞろいて、観察し放題と言うところだった。
 背筋を伸ばして歩き、優雅に会釈し、暗喩を含んだセリフをにこやかに述べる。日常的に繰り広げられる小さな陰謀や、陰口。舞踏会でのしっぺ返し、招待状でのささやかな侮辱。
 ネビルは正しく、自分の棲むべき世界を見つけたと思っていた。
 目標は、国王陛下。一挙手一投足にいたるまで観察して、そのうち自分も、陛下(実は、また従兄弟!)のように、洗練された、それでいて威風あたりを払うような挙措動作を身につけるのだ。
 きっといつかは陛下や、ちょっと落ちるが大公のように、露骨に言い寄ってくる貴婦人にほほえみかけ、蜂蜜のような甘いセリフで煙に巻くことができるようになる。出窓のカーテンの陰で絹のハンカチを思い出にと渡し、でも言質は与えず、ただ一夜の秘密の夢を……
「茶!こぼれてるぞっ」
「うるさいな、もう」
 ネビルが銀のトレイにティーセットを用意して大公の執務室へ入っていったとき、デールは珍しく、おもしろからぬ表情をしていた。
「正直に言って、落胆しています、兄上、いえ、大公」
 ヘンリーは両手のひらを胸の前にあげて、非難をかわしたいようなしぐさをした。
「心外だな。もうすこし長い目で見てほしいもんだ」
「長い目でとは、どれほどの時間を言うのですか?先の宰相ゴーネンのときから、なおざりにされているのですよ」
「なおざりとは厳しすぎる。おれがオラクルベリーの領主になってから、ほとんど日がたっていないことを考慮してくれないのか?」
デールは貴族的なため息を漏らし、冊子状に閉じた羊皮紙の束を取り上げた。
「ラインハット法典、第5章徴税、第13条その他の雑税、項目E」
そこまで読んで、おもわせぶりに言葉を切る。ヘンリーは肩をすくめた。
「50年の空白。よく心得ているよ、国王陛下。それでどうしろと?」
「私はなにも命令してはいません、ただ、理由を知りたいのです」
「そう、13条E項の雑税をなぜ50年以上取り立てていないかといえば、オラクルベリーの閉鎖性に尽きるな。領主はしょせん、よそものだ」
ヘンリーは頭をふり、ネビルの捧げるトレイからカップを取った。
「ありがとう、ネビル。そういえば、グレイブルグの反乱にかまけて、しばらくセルジオに会っていないが、おまえの叔父殿はかわりないか」
「はい、おかげさまで」
デールも、カップを受け取りながらネビルに話し掛けた。
「8代目セルジオ殿は、立派なお人ですね、ネビル君?」
「は!」
オラクルベリー一の豪商の甥だというのは、ほとんどネビルのアイデンティティのすべてである。
「君もさぞ立派な9代目になるんでしょうね」
ネビルはうなった。われこそは、娘ばかりで息子のいない叔父の跡取りと、自分ではかねがね思っていたが、他人から言われたのははじめてである。しかも、王様から!
 喜びに震える胸を静めて、ネビルはできるだけもったいぶって答えた。
「お言葉を返すようですが、陛下、実は最近、自分が商人の道を歩むべきかどうか、悩みに思うこともございまして」
「おお」
デールは上品に叫んだ。
「では、兄の言っていたのは本当だったのですね?」
「や、大公殿下がなにか、わたくしのことで……?」
ネビルは顔が笑いに崩れていくのをこらえながらすっとぼけた。
「君の才能のことですよ。ねぇ?」
ヘンリーはひとつうなずいた。
「隠す必要はないよ、ネビル。おまえの見識と行動力は見上げたものだ。従僕にしておくにはまことに惜しい。将来は、宰相府の大黒柱、おれの片腕として思う存分、腕をふるって欲しい、と思っていたのだが」
「兄上」
デールが面をあらためた。
「逸材を独占するのは、好ましい行いとは思えませんが」
「いや、ユージンとヴィンダンだけでは心細いのだ。ネビルにはまず、宰相秘書をかわきりに、大都市の代官や、王都の行政官を歴任して仕事を覚え、それから国政を」
「私ならすぐにどこかの領地を与えて経験を積んでもらいますが」
ネビルは、ほとんどあえぐようにして、目の前に立ち現れた虹色の未来に聞き入っていた。
「しかし、いくらまた従兄弟とはいえ、いきなり貴族にひきあげては、いろいろとさしさわりがあろう?」
「そうですね、残念なことです」
デールはため息をついた。
「せめて何か功績があれば」
「では、こうしよう、ネビル」
「あ、はっ?」
ヘンリーは上質の羊皮紙を手にとり、さらさらと書き込んでロウをたらし、印章指輪を押し付けた。
「これをとっとけ」
見ると、それは任命書だった。
「お、オラクルベリーの、代官!」
「行政方面の経験を積むには、ちょうどいい。おまえには地元でもあるし」
「よかったですね。行動力にあふれた気鋭の代官ともなれば、むこうから寄ってくるでしょう、功績も、爵位も」
にっこりとデールは笑った。
「幸い、グレイブルグの領地がたっぷり余っています。王都に近い一等地の領土を用意しておきましょう」
「陛下、ああ、わたくしごときに!」
ヘンリーは、ふっと笑みを漏らした。
「はじめてあった時から、この日を予感していたような気がする。血は水よりも濃いものさ」
「殿下、きっとご期待に添うようにします!」
ふらりと一礼して、雲を踏むような心持でネビルは執務室を出た。

「ネビル、カゼでもひいたか?」
ジュストは思わずそう言った。執務室から出てきたネビルはぽうっとしている。そのままふらふらとジュストの目の前を通り過ぎた。
「おい、どこへ行くんだよ、早退か」
「バカを言いなさい、わたしはこれから、任地へ赴く」
「へ?」
「オラクルベリーだ。50年間誰も徴税できなかった13条E項を、取立てに行くのだ!」
後も見ないでネビルは角を曲がって行ってしまった。
 任地、徴税、取立て?ジュストにはわからないことばかりだった。わからないといえばもうひとつおまけに、執務室からそのとき、爆発するような笑い声が響いてきたのである。