嵐の前 第二話

 ユージン・オブ・タンズベールは、なけなしのゴールドを詰めた袋を牢屋番に差し出した。
「一目でよい。父に会わせてもらえまいか」
 何度こうして面会を求めに来たことか。凛々しい貴公子だったユージンは、苦労と貧にやつれた、冴えない落ちぶれ貴族になっていた。
 牢屋番は小さな金袋を嘲り笑った。
「たったこれっぽっちでかい!あんた、相場を知らないね」
相場も何も、ユージンはまったく持ち合わせがなかった。粗野な看守たちは金袋を取り上げ、中身を机の上にぶちまけて、またひとしきりあざけった。
「せめて、教えてもらいないか。無事に過ごしているかどうか」
「ええ?ああ……」
気のない口ぶりで牢屋番は看守の一人のほうを見た。
「タンズベールの伯爵さまは、どうしてたっけ」
「じいさんなら、おとなしいもんだ。キチガイ女と違って」
 ユージンはため息をついた。前回都へ出てこの牢に父の様子をうかがったときと返事はまったく同じだった。
「なんだ、なんだ、その顔は。文句あんのかい、若様」
ユージンはこらえた。不満の一つも言おうものなら、牢内にいる年取った父親がどのようなひどい目に会うかわからない。
「父を、よろしくお願いする」
堅苦しく挨拶して、ユージンは牢屋を出た。後ろから、どっと笑い声が上がるのを、苦々しく聞いた。
「いかがでしたか」
 外へ出ると従者がさっそく聞いてきた。父の若いころから仕えている従者で、いつも心配してくれるのだった。
「いつもと同じだったよ」
従者は白髪混じりの頭をがっくりとたれた。
「私の力が足りないのか、金が足りないのか」
「若様のせいではございませんよ。伯爵様はきっと御戻りになります。そう思ってお待ち申しましょう」
ユージンと従者は、言い合わせたように牢のほうを見た。
 ユージンの父、タンズベールの伯爵が、反乱予備、国王弑逆未遂の罪でラインハット城地下牢に捕らえられたのは、現在の国王デール一世が即位してすぐのことだった。
 タンズベールの老伯爵は、彼の娘へレナが生んだ第一王子ヘンリーを差し置いて弟王子デールが王位を継ぐことに、猛反対していたのである。
 ある日、ラインハット城に登城したときに突然捕らえられ、恐ろしい罪名を着せられて獄へ下された。
 タンズベール伯領は大揺れに揺れた。伯爵夫人はまもなく心労に倒れた。ユージンはあちこちへ嘆願に走ったが、まともに相手をしてくれるところはなかった。
 やがてグレイブルグ大公妃ユリアがタンズベールに手を伸ばしてきた。さまざまな言いがかりをつけて領土を削り、ついにユージンのもとには先祖伝来の館と、直轄の小さな村が残るばかりになっていた。
 家系から何人も王国宰相を出し、一族の姫が王妃にたって嫡子の王子を産んだ、その栄光のタンズベール一族は、見るも哀れなありさまに落ち込んでいたのである。

 年老いた従者をいたわりながらユージンが地下牢の外へ出る階段を上がろうとした、そのときだった。重いものが床へぶつかる音がした。ユージンは立ち止まった。
「いま、何か聞こえましたですね、若様」
「おまえはここにいてくれ」
ユージンは牢屋番の詰め所へかけ戻り、思わずうなった。
 そろって大柄でごつい看守たちが、腹を折り曲げるようにして床の上でうめいている。そばで紫のマントの若者が何か大きな袋のようなものを腕に抱いて立っていた。
 それよりも驚いたことに、白いターバンを巻いた若者があの牢屋番に剣をつきつけていた。
「おまえのボスは誰だ?知らせたきゃ知らせろよ。私の不手際で囚人をさらわれましたってな。おれだったら黙ってるけど」
牢屋番はただこくこくとうなずくばかりだった。
「そう、そう。みんな忘れろ。いいな?」
いきなり目の前に細身の剣がつきつけられた。
「声を出さないのである!」
ユージンはひくっと喉を鳴らした。なんとスライムナイトが真正面からユージンをにらみつけていた。
「およし、ピエール」
マントの若者が鋭く言った。
「ごめんなさい。でも、ぼくたちを見逃してもらえませんか?この人は牢屋にいるべきではないのに、入れられていた人なんです」
その言葉にも、態度にも、嘘や陰謀の臭いは微塵も感じられなかった。若者が腕に抱えているのはやせ細った女性のようだった。
「わ、私は、私の父も」
ユージンは思わずそう言ってしまった。
「父も、無実の罪で牢に入れられている」
若者は眉をひそめた。
「地下牢にいたのは、この人だけでしたけど」
「そんな、タンズベール伯爵がいるはずだが」
「それじゃあ、あれが」
と言ったのは、白いターバンの若者のほうだった。
「気の毒だが、伯爵は亡くなっている」
若者は牢屋番の襟をつかんで引きずりあげるようにした。
「おまえの言うキチガイ女の、一つ置いて隣の独房。あそこにあった白骨が伯爵だ。そうだな?言え!」
牢屋番は悲鳴混じりにそうだと言った。
「バカな、だって、たった今」
「生きていると思わせれば、いつまでもあんたが金を持ってくるからじゃないのか?」
ユージンは愕然とした。
 若者は牢屋番の首筋に手刀を叩き込んだ。牢屋番は一たまりもなく崩れ落ちて目を回した。
 従者になんと言えばよいか。今まで牢屋番に渡す金を工面してきたのは、なんのためだったのか。
「牢を見せてくれ。確かめないと」
「それなら急いで。人が来るかもしれない」

 かもめ亭は、また新たな客を迎えた。うつろな目つきの男と、いかにも実直そうな老従者である。
「タンズベールの若様、いや、伯爵様だ」
従者は女将にそう言った。
「たった今、御父上を亡くされたようなもので」
人のいい女将はたちまち同情を寄せた。
「それはまあ。はい、静かなお部屋をご用意いたしましょうね」
女将はかいがいしく世話をし、ジュストに荷物を運ぶように言った。ジュストが黒っぽい布袋を持ち上げると、ひどく軽く、乾いた音がした。従者はジュストを止めた。
「それは持たなくていいよ、お兄さん」
従者は軽い袋を取り、連れの、うつろな目をした男に渡した。従者が伯爵さまといったわりには、身につけるものはつつましい。大きな商家の手代ていどに見えた。本来なら気配りに富んだ誠実な人柄らしかったが、あまりにもぼんやりして、痛々しかった。
「どれだけご無念だったことか」
またからんと音を立てて、袋はその男の胸に大事そうに抱えられた。
「どうぞ、こちらへ」
ジュストは二人を案内して食堂の前を通りすぎようとした。そのとき、食堂の中から大騒ぎが聞こえた。
「若旦那、待ってました!」
ジュストは首をすくめた。
「すいません、お客さん、ちょっとにぎやかだけど」
だが、タンズベールの伯爵と従者が呼んだ男は、何を見ているのかつっ立ったまま動かなかった。ジュストは困って、食堂をのぞきこんだ。
「またきさまかッ。こいつら、おまえの手先だな?私を無理やり引っ張ってきて」
 身なりのいい若い男が真っ赤になって怒っている。ネビルとかいう、セルジオ商会のお坊っちゃまだった。ポルトとバートンが、ネビルを引きずってきたらしい。そのまわりを、トムたち目つきの鋭い連中が囲んでいた。
 少し離れた位置にスライムナイトがでんと座り込み、その上にかがみこんで、ルークがなにか話していた。
「そう怒るなよ。で、返事はもらってきたか?」
恋文の使いでもさせたように、ヘンリーは軽く聞いた。
「なぜわたしがおまえの使い走りをしなくてはならないのだ?」
ネビルは尊大に聞き返した。
「教えてやろうか?」
緑の髪の若者が向きを変えたので、ジュストたちのいる場所から顔だちがようやく見えた。
「王様の返事に、ラインハットの将来がかかってるからさ」
 あれは、とタンズベールの伯爵がつぶやいた。伯爵の目が焦点を取り戻し、指が震えていた。
 ここ数日、ラインハットの町では、ジュストとその仲間が流した噂が広まっている。行方不明の王子様が帰ってきた、と。だが、実物を見るのはまた違う迫力だろう、とジュストは思った。
 ネビルはくやしそうにあたりを見まわしていた。が、とうとう懐から、羊皮紙を取り出した。
「陛下が下された」
その場の者が、いっせいにのぞきこんだ。ヘンリーの指が羊皮紙を広げた。
「『明後日、湖畔の広場で』。ルーク、ステージが決まったぞ」
ルークは立ち上がり、相棒に微笑を返した。
「じゃ、いよいよ、二日後だね」