地下牢の狂女

 最初は悪い夢だと思った。彼女は、いつも隣室で控えている侍女を呼んだ。
「ジョアナ、ジョアナ」
眠りこけているに違いない。彼女は少々腹を立て、ヒステリックに声を高めた。
「来てちょうだい、ジョアナ、聞こえないのっ」
きこえないのっ、きこえないのっ。自分の声がこだまして返ってきた。彼女はぎくりとした。
 身動きした拍子に、背中が痛んだ。寝台が固かった。
 彼女は暗闇の中に目を見開いた。
 そこは太后の華麗な寝室ではなかった。やわらかな褥も、絹の化粧着もなかった。
「夢じゃないの?」
太后アデルは、力なくつぶやいた。
 剥き出しの岩壁。太い鉄格子。夜具の一枚もない、固い寝台。木の三脚イスの上に、ちびたろうそくの炎。ふちの欠けた陶器の椀。残飯と排泄物の悪臭。
「ひいっ!」
アデルは目を見開き、肺の底から否定の叫びを上げた。
「い~い~、や~あ~あ~あ~あ~!」
誰かの長靴が鉄格子を蹴り上げ、巨大な錠前がぶつかりあって、けたたましく鳴った。
「またか!うるさいぞ」
「出して、出して、出して」
アデルは鉄格子にかけより、両手でつかんで激しく揺すった。
「あたしは王妃よ、太后よ。早く開けて。おまえの首をはねてやるわ」
「っるせえなぁ」
鉄格子の向こうの廊下が、一点ぼうっと明るくなった。たいまつを持った看守が立っていた。見るからに粗野な大男だった。
「キチガイ女が。寝られねえじゃねえか」
アデルは上ずった声で叫んだ。
「ここを開けなさいっ」
つばきが看守の顔にかかった。
「ちくしょう、このっ」
看守は後ろの壁にたいまつを掛けると、大きな鍵で錠前を開き、体をかがめて独房の中へ入った。
「毎晩毎晩、おんなじことを繰り返しやがって」
アデルは看守の言葉など聞いていなかった。出口めがけて殺到した。看守はアデルの後ろ髪をつかんで無造作に引き据えた。
「ひいいっ」
看守は片手で器用に浅い皿を取り出し、液体を注ぎいれた。
「よっく見な、美人のお嬢さんよ、これが王妃様の顔かい?」
たいまつが皿の上に水鏡を作った。アデルはその中に奇妙などくろを見た。
「あ、あたし」
どくろは老婆のような肌におおわれ、頭髪が薄く残っている。目玉ばかりぎょろぎょろと目立ち、そこから一筋涙がこぼれた。
「わかったかい、べっぴんさん」
看守はアデルの口をこじ開け、皿の中の液体を注ぎこんだ。
 アデルはむせたが、看守は無理やりに飲みこませた。体中がかっと熱くなってきた。強烈な眠気が襲ってくる。アデルはごつごつした床の上に膝をついてすわり、鉄格子にもたれた。
「ずっと夢を見てりゃあ、いいのによ」
再び錠前が閉じた。アデルにはもう、どうでもよかった。
 飲まされたものの味に覚えがあった。ジョアナが就寝前に、寝つきがよくなるお茶だと言って持ってきたのだった。それを飲んだ後、アデルは今のようにもうろうとしていた。
 ただ、光の教団のボアレイズが寝室になぜか現れて命令を下していたことと、宰相のゴーネンとジョアナがぺこぺこしてアデルの体を担ぎ上げたことは、ぼんやりと記憶にあった。
「……裏切られた」
涙ばかりが次々とあふれて止まらなかった。
 目の前にボアレイズの姿が浮かんだ。今の堂々とした大司教ではなく、初めて会った時の、旅の僧侶のボアレイズだった。
「デールの病気を治して。エリオス陛下の御心をあたくしに向けて。デールをあの人の御世継ぎにして」
ボアレイズはささやかな見返りを求めただけで、どれもすぐにかなえてくれた。
「あたしの気持ちがわかると言ったくせに」
 アデルの母は、アデルを産んだ直後、夫を盗んだと思いこんである女性を殺した。まだ若かった母は、そのときから三十年近く幽閉されて、死んだ。アデルの少女時代を通して、気のふれた母を持っている恐怖と、閉じこめられる恐怖が付きまとった。 
 そしてラインハットの城下町で、御忍びの若き国王と出会い、アデルは運命をつかんだ。
 エリオス六世は、難しい書類を読むと五分で頭痛が始まるという困ったたちだったが、明るくて無邪気で、遊び好きで、気前がよかった。
 ことに女性には親切で、気配りよく、愛想がよくて、粋と、ラインハット男の特質をすべて備えたような貴公子だった。
 彼は女性への愛情を一人に絞りきれない性格でもあった。
 アデルの前に、エリオスの姿が浮かび上がった。
「まあ、陛下」
アデルは鉄格子の間から指を伸ばして、その姿をしっかとつかんだ。
「どうして?あなた、死んでるのに」
アデルはヒステリックに笑った。
「あなたはいいでしょうよ。今ごろは死者の国で愛しいヘレナ様とかわいい息子と三人で御幸せでしょう?あたしがこんな目に会ってるのに!」
アデルは興奮して指にふれる腕を強くつかんだ。
「本当はあたしよりヘレナ様を愛していたんでしょう?だからあの子をあきらめきれなかったんでしょう?あたしのデールより、あの子のほうがよかったのよね?」
エリオスは困ったような顔をして、なにかつぶやいた。アデルは頭を強く振って叫んだ。
「あなた、知ってたんでしょう、本当はあたしがヘンリーに何をしたか。だったらどうして、死ぬ前にデールを頼むなんて言ったの!」
アデルは鉄格子へしがみついた。
「お願いよ。あたしを助けて。デールは知らないの。みんなうそばかりつくの。あたしが行かなけりゃ、あの子はみんなにだまされて、ひどい目に会うわ。デールを助けに行かせて。でなかったら、せめて、あの子を守って」
アデルはすすり泣いた。体がひどく重たかった。アデルは固い床の上に崩れ落ちて、そのまま眠りに落ちた。

 ヘンリーは服の袖口から、アデルの力ない指を一本づつゆっくり離した。そして複雑な表情で、しばらく鉄格子の向こうに横たわる女を見ていた。
 ルークの手が、ヘンリーの肩に軽くふれた。ヘンリーは何も言わずに、地下牢の前を離れた。ルークは女に視線を投げてからその後を追った。
 たいまつがはぜて小さな火の粉を飛ばした。狂女の独房の前に、人影は絶えた。