死の舞踏 6.女王アリス

 ネリーが向かったのはサマルトリア城の城壁の上にある物見台だった。思っていたものを遠目に見つけて、ネリーは安堵の吐息を漏らした。
 森と草原の彼方から、黒々とした一団がこちらへ向かってくる。最前列には、青の地に金で霊鳥を描いた紋章の戦旗が高く掲げられていた。新たに即位したローレシア王が初めて供揃えを従えてやってきたのだった。
 武勇の国ローレシアらしく、王は馬車ではなく騎馬で行列の中央にいた。周囲を固めるのは正規軍から選りすぐられた親衛隊十数名並びに侍従、右筆等。その外側には露払い、警護、索敵のための一部隊、本隊をはさんで後方警備のため弓兵を含む一部隊。その行列は長々と続き、粛々と北上してきた。
 行列はまもなく城門へいたる。それを確認してネリーは礼拝堂へと降りていった。
 エモット公と取り巻き貴族たちはまだ言い争っていた。
「失礼いたします。たった今、ローレシアの国王陛下がお見えになりました」
ネリーがそう言うのと、サマルトリアの城門が開くのはほとんど同時だった。まもなく大人数の足音が聞こえ、礼拝堂へローレシアの国王一行が現れた。
 アロイスのダブレットは漆黒だった。そのうえにやはり黒の袖なし上着を重ね、ホーズ、ショース、靴まで黒づくめだった。親衛隊、警備兵、侍従、小姓のはしにいたるまで、ローレシアからの一行はすべて喪の黒で統一されていた。彩りと呼べるものは、アロイスの胸に下がる聖なる守りの金と青だけだった。
 現在のローレシア王がかつての勇者アロイスであることはよく知られている。礼拝堂の中には緊張感が漂った。
「アロイス様」
アリスが自分からベールをあげた。
「よくおいでくださいました。お兄さまが……」
「アリス姫」
貴族たちをまったく無視してアロイスはアリスに近づき、労るように肩を抱いた。
「心中お察しいたします」
長身の王にすがるアリスは、このうえなく清楚可憐で今にも倒れそうに見えた。
「兄に、会ってやってくださいませ」
喪主のゆるしを得て、アロイスは棺の前に進んだ。花に囲まれて横たわる戦友を、アロイスはひざまずいて見守った。
「もう、蘇りませんのでしょうか」
アロイスが立ち上がった。
「申し訳ない。世界樹の葉はもうないのです。ぼくたちパーティがロンダルキアから戻った今、精霊ルビス様は蘇生呪文を使うことをお許しにならないでしょう」
今やザオラルの使い手は、ムーンブルクのアナベル一人。だがロンダルキアの戦いが終わった以上、人の命をこの世へ呼び返すことはアナベルにとっても絶対の禁忌だった。
 アリスは両手で顔を覆った。
「アリス姫、どうか、気を落とされますな」
力強くアロイスは言った。
「もう、ロトの末裔はこの世にわずかです。きっとぼくがお力添えをいたします。それがアーサーの遺志でもありますから」
エモット公が咳払いをした。
「では、ローレシアには異存なし、ということでよろしいか?」
「もとより」
明確な答えが返ってきた。
「私、ローレシアのアロイスは、アーサー王子の棺の前で、アリス姫の女王即位を支持することを誓います」
ほっとエモット公が安心して息を吐くのと、ランドン王の取り巻きだった貴族たちが青ざめるのが同時だった。が、ローレシア王の親衛隊を務める戦士たちがさりげなく剣の柄に手をかけ、反対派を包囲するように動いていた。もともと武勇にかけてローレシア兵は最強の名をほしいままにしている。文字通り手も足も出せずに反対派はぎこちなく沈黙した。
「神父様」
細い声でアリスが呼んだ。
「やっと兄を霊廟へ送ることができますわ。どうか、憩わせてあげてくださいませ」
「承知いたしました」
王太子の葬儀が始まった。
 アーサー王子は毒死、前王ランドンとその子供たちは軟禁、隣国の王の手を借りて反対派は沈黙。アリスの計画は順調に進んでいた。サマルトリア女王アリスが誕生する。
 アロイスの隣で頭を垂れたアリスに従いながら、ネリーは計画がひとつ段階をあがったことを知って満足していた。

 葬儀は無事に終わり、数日が過ぎた。ミッドナイトブルーのダブレット姿でローレシア王アロイスは、クラウンプリンセスとなったアリスを訪れた。
 アリスは珍しく室内ではなく、サマルトリアが誇る薔薇の迷宮庭園の休み処にいて、侍女に囲まれていた。ガウンはいまだに服喪の黒だったが、ベールはつけていなかった。侍女たちは銀盆や薬瓶をうやうやしく捧げていた。
「風に当たっても大丈夫ですか」
開口一番、アロイスは彼女をねぎらった。
「お葬式からこちらずっと微熱でしたけれど、もうそろそろ大丈夫。薬も飲みましたし」
アリスはかろうじてわかるていどの微笑みを浮かべた。
 侍女たちはベンチにクッションを置いてアリスを座らせた。その傍らにアロイスが立った。アリスは侍女たちにうなずいて、引き下がらせた。
「即位の準備はすすんでいますか」
反対派はローレシアが武力をもって排除する。その姿勢が明らかになったとたん、サマルトリアでアリスの即位に反対する者はいなくなった。
「女子の王位継承は母の例がありますから。儀式の次第は大丈夫ですわ」
「姫の体力が心配です」
アリスは彼を見上げ、口元をほころばせた。
「本当にそう思っていらっしゃいます?」
アロイスは口角をわずかにあげた。
「いいえ。これはあなたの計画の一部だ。ここ一番という大事なところであなたが病弱を理由に引き下がるわけがない」
サマルトリアの草原を吹き渡る風が、つる薔薇の葉をそよがせた。
 アリスは不思議な気持ちでアロイスを見上げた。アロイスにとって自分はクエスト仲間にして遠い従兄弟であるアーサーの死を公然と願っていた女だった。が、アリスは悪びれることもなく、謝罪することもなかった。ただ薔薇の庭の中心に座り、飄々とした表情で六角形に切り取られた空を見上げていた。
「その話はやめましょうか」
とアロイスは言った。
「今日はただ、アーサーを悼むために来たのですから」
アロイスは、兄とは違う意味で読みにくい男だった。だが、とぼけるなら相手をしよう、とアリスは思った。
「お兄さまのあんなお顔は初めて見ましたわ」
何のことを言っているのか、アロイスは理解したようだった。
「綺麗な死に顔だった」
ぽつりと彼は言った。
「ぼくはクエスト中に何度か彼の寝顔をみたのですが、それよりももっと清らかで、無邪気で、口元なんか笑っているようでした」
「お兄さまは口を開けば意地悪ばかりでしたもの」
「たった一人の妹にもですか?」
「ええ」
誇りをこめてアリスは答えた。短い答えの意味を、アロイスは知っている。妹だからこそだ。アロイスは薔薇園を見まわした。
「ここに彼がいたのは数日前だったのに。不思議な気がします。アーサーとあなたは仲のよい兄妹でしたね」
アリスは小さく笑った。
「お互いに謀殺をたくらんでいましたけれど」
「少なくとも、アーサーの頭の回転についていけるのはあなただけだったでしょう」
「そうかもしれません」
アリスは肯定した。
 彼が冗談や皮肉を言うのは、その相手に一目置いている証拠だった。慇懃無礼な皮肉屋のアーサーは、どうでもいい相手には口もきかなかった。
「大臣のエモット公でしたか、昔はよくアーサーにからかわれていましたね」
「からかうというか……お兄さまが一番いじりやすいタイプですから」
ふいにアロイスが笑い声をたてた。
「『あの頑固親父、なんでも好きなように仕切るんじゃねえよ……』と言ってましたっけ」
そう言い捨てたときのアーサーの、皮肉っぽい目つき、小馬鹿にした口調をアリス思い出した。
「そう言ったとき、兄は12歳でしたのよ?」
アロイスは目を見張った。
「そうでしたっけ。もっと大人だと思っていた。なんて生意気な子供だろう」
うふふ、とアリスは笑った。
「私は九つでしたわ」
「そうでした。あなたの誕生日でしたね。ぼくはローレシア側からこちらへお招きをうけました」
それは王女の誕生祝賀であり、アロイスとアリスを引き合わせるためのイベントだった。アロイスを配偶者候補として意識したのは、そのときが初めてではなかっただろうか。
「アーサーはあまり気に入らなかったようですが」
「政略結婚なら政略結婚らしくすればいい、と兄は思っていたようです。うわべをごまかして誕生日に招待するという小細工が気にいらなかったのでしょう」
「それで皮肉っぽかったんですね。あのときぼくは、大人たちをやりこめるアーサーの手さばきに目をみはったものですよ」
アリスは微笑んだ。そういうときのアーサーは、容赦というものを知らない。だが、彼の機嫌が悪かったのはそれだけではなかった。
「私たちは、アロイス様にすっかり驚かされました。年端も行かない王子様が、サマルトリア国軍指折りの戦士たちを槍でたたき伏せるなんて」
王女の誕生を祝うためのトーナメント(=馬上槍試合)が行われ、当時ほとんど少年のアロイスも予選から参加して勝ち抜いたのをアリスは眺めていた。
「たぶん、ぼくは手加減してもらったんでしょう。ご祝儀試合ですから」
さらりとアロイスは言った。
「兄は、そう思ってはいなかったようでした。そしてそのことをランドン王もさんざんあてこすっていましたわ」
もともと馬上槍試合には興味がないとアーサーは公言していた。まったく使えないわけではなかったのだが、アーサーは自分の武器としては大剣や槍よりも細身の剣や短刀を好んだし、それよりも魔法を使うほうが好きだった。
 王族の桟敷に陣取ってアロイスが勝ち進んでいくのを見ながら、アーサーは皮肉を言うのも忘れ、じっと見つめていた。そしてアリスが気付いた時には、姿をくらましていた。
 それは決勝戦の間で、ローレシア、サマルトリア両側から盛んな声援が送られているまっただ中だった。アロイスは武名をもって鳴るローレシア王国の世継ぎ兼勇者候補として、見事に優勝してのけた。
「懐かしいな」
過ぎ去ってしまった日々が砂のように崩れて風に吹き散らされていくのを、二人は黙って見送った。
「ひとつおうかがいしてもよいですか」
とアロイスが言った。
「夢を、ご覧になりますか」
「夢、というと、眠りの間に見る夢のことですわね。そう……」
彼の真意を測りかねてアリスは口ごもった。
「先日以来、夢の中で誰かに話しかけられているような気がします。亡くなったお母さまか、それともお兄様かしら」
アロイスは何も答えず空を見上げ、いつものように胸に下げた聖なる守りを片手で弄んだ。
「夢占いでもなさいますの?」
いえ、とアロイスは言って、小さく微笑んだ。
「父のことを思っていました。彼には詫びを入れなければ」
さきほどから妙な事ばかり言う。アリスは黙ってアロイスの出方をうかがった。
「姫、そろそろお暇いたしますが、その前にひとつだけ。例の件、エモット公から打診がありました」
それは当然、若きローレシア王とサマルトリアの次期女王の結婚の話だった。特に感情を動かしたようすもなくアロイスは言った。
「お受けしようと思います」
「そうですか」
アリスは自分が、またひとつ陰謀の階段を上った事を知った。ローレシア・サマルトリア連合王国が生まれる。できあがってしまったら、今度はただ一人のライバルとそのトップを争うことになるだろう。すなわち、今目の前にいるアロイスと。アリスは小さく息を吐いた。
アリスの心中を見透かしたようにアロイスが尋ねた。
「なぜ姫は上を目指すのですか?」
奇妙なことに非難めいた口調ではなかった。彼の表情はむしろ少年が綺麗な蝶を眺めるさまに似ていた。
「さあ?物心ついたときには高みを目指しておりましたわ。下を向いたら私は終わりですもの」
とアリスは答えた。アロイスはうっすらと微笑み、皮肉なのかどうかわからない、冷静な口調で言った。
「きっとあなたは素晴らしい花嫁におなりでしょう」
「ありがとうございます」
ただそう言って喪服の黒い袖に包まれた片手を差し出した。アロイスはその手を取り、自分の唇を手の甲へそっとつけた。
「では、これにて。結婚式で会いましょう」
どこまでも他人事のようにそう言って、アロイスは薔薇の庭を去っていった。