月と海神の王国 9.くびかり族

 テパの人々が一斉にしゃべりだした。
「でも、それしか望みは」
「もう十年も辛抱してるのに」
「しかし、もしも」
「やってみなければわからないぞ」
 ドン・モハメは私語を抑えたいかのように両手を広げた。話し合いが始まった時の毅然としたようすではなく、疲れ切った老人の顔をしていた。
「みな、待ってくれ、頼む。月のかけらでおこした高潮がひかないということを、わしは今日初めて知ったのだ。すべて、やり直しだ」
「親方!」
テパの人々は悲鳴のような声を上げてリーダーにすがった。
「ひとつだけ、手だてがある」
ドン・モハメはアムに向き直った。
「姫、あなたさまは海神アビスのただ一人の巫女でいらっしゃる。そのお力にすがりたい」
うっと声をあげてアムが息を呑みこんだ。
「私に、何をしろと」
「直接、海神アビス様にお力をお借りするのです。テアマト水郷を水で満たし、そして潮をひかせてくだされ、と」
「私が?」
呆然とアムはつぶやいた。
「ここにいる者はすべからくアビス様の信徒、そして、ムーンブルグの保護国の国民ですぞ、姫」
狂おしいような眼をしてドン・モハメは訴えた。
「私……」
何か言いかけてアムは言葉を呑みこみあたりを見回した。イリヤが、ナンナが、テパの民が、すがるような眼で彼女を見守っていた。
「あなた様にしか、できぬことです」
突然アムは腰をひねり、背後にいた王子たちを見た。ロイは力強くうなずいた。
「おれたちにできることなら助けになる」
隣にいたサリューはうつむいて考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「少し日数をもらってくれる?そうしたら、何とかする」
「なんとかって?」
頼りなげに震える声でアムが聞いた。サリューはまったくちがうことを言い始めた。
「聖なる織り機を探してた時、アムはザハンとは違う聖域のことを言おうとしてたよね。あれはどこ?満月の塔?」
「いいえ、テパはアビス様の神域だし満月の塔は聖なる場所だけど、わたしが思い出したのはアビス様の海底神殿のことよ」
 ドン・モハメが目を向いた。
「そうじゃ、それを忘れとった」
やっぱりね、とサリューはつぶやいた。
「アビス信仰の中心地からよそへ宝物を持ち出すんだから、最初に選ばれるのは同じアビス神の聖域だと思ったんだ。その神殿はどこにあるの?」
「ムーンブルグの城の南に内海があるでしょう。その海の中にひとつだけぽつんと島があるの」
「あそこなら前にいっしょに行ったろ?」
とロイが言った。
「何もなかったぞ?」
アムは小さく肩をすくめた。
「ルビスの信徒にもわかりやすいような入口にはしてないもの」
ちっとロイがつぶやいた。
 ドン・モハメはせきばらいをした。
「実は、信徒の長老たるわしにもわからんのです」
「本当か?」
「入口がわかっていれば、聖なる織り機はザハンではなくアビス様の神殿に納めたかったのですがな」
サリューが確認するように訊ねた。
「つまり、隠し入口があるってことだよね?」
「そのはずよ。本当は私、行ったことはないの。あるていどの年齢になったらアビス様から巫女として認めてもらうために島の地下にある神殿へくだることになっていたわ」
ドン・モハメは驚いた顔になった。
「それはいけませんぞ。一刻も早く神殿へ詣でて、供物をささげ巫女として名乗りをあげてくだされ」
「ええ、まずはそこからね」
ほほが紅潮している。なすべきことを見つけたアムは、目に光を宿し、つよいオーラを放っているように見えた。
 その高揚感がドン・モハメに乗り移った。
「皆の衆、時は巡り、新しい巫女がアビス様に御目見得になる!供物を用意、それに、水の羽衣を織りますぞ」
テパの人々の間から、こらえきれないような声がもれた。
「モハメの親方が、羽衣を!」
「ああ、昔みたいじゃねえか」
ドン・モハメはさっと視線をアムの上に走らせた。
「水の羽衣は海神アビスの巫女の正装でございます。テアマト水郷は、代々の巫女の装束を織ってまいりましたでな」
イリヤをはじめ、テパの職人たちに生気がみなぎってきた。
「親方、雨露の糸はここに!」
「織り機はどうしますか?」
サリューが片手をあげた。
「聖なる織り機なら持ってきたよ」
思わずイリヤは聞いた。
「今はどこに?」
「俺たちの船だ」
とロイが言った。
「聞いたな、おまえら」
イリヤはテパの男たちに声をかけた。
「十年ぶりで親方の作業場に雨露の糸と聖なる織り機がそろうんだ、すぐに船から取ってこい!」
へいっ、と職人らしい返事をして、数名が飛び出していった。
「親方、供物はどうしましょう!」
「貯めてきた絹を全部だしなされ」
明瞭な指示だった。
「十年、神蚕を守り続けた間に貯めた絹糸をすべて出して、海神の供物にふさわしいものを織りましょうぞ!」
「先染めしますか!」
「加工はどうしましょう」
「染色はやらせてください」
「下絵に、紋章を載せて、糊で伏せて、色をさして……」
テパに逼塞して腕のふるいようのなかった職人たちが口々に騒ぎ出した。
「待て待て」
イリヤが割って入った。
「おれがまず、完成図をつくるからな。親方のお許しがでたら、作業開始だ」
イリヤはロト王家の末裔たちに声をかけた。
「こういうわけだ、今から作業場は俺らの戦場になる。悪いんだが、場をはずしてもらっていいか」
「どれくらい待てばいいのかしら」
「とにかく一晩はどこかで泊まってきてくれ」
サリューが肩をすくめた。
「わかった。僕たちも僕たちでやることがあるからね。行こうよ」
作業場を去るときにロイは片手をあげ、アムは軽く会釈して挨拶したが、ドン・モハメ以下テパの人々はほとんど気づいてはいなかった。

 真昼の太陽が短い影を壊れた石畳の上に落としていた。むっとするような湿気があたりにたちこめた。川の支流に囲まれた森林の中の廃墟の上に、時間はゆっくり流れていた。
 それは浅いすり鉢状の土地の、底に当たる部分だった。周辺は緑が濃く植物が旺盛に繁茂している。木を切り、土地をならして、人々はそこに町を作ったらしい。町の外壁の痕跡がぐるりと残っていた。
 その内側の家は、どれも破壊され、基礎しか残っていなかった。残された石くれの間から植物がどん欲に伸び、トカゲがちょろちょろしていた。強い日差しを遮る物は何一つない。
 廃墟の中央、かつては町の中央の十字路だったところに、平たい大きな石が遺っていた。
 その上に、どっかりと腰を下ろしている人物があった。
 青い上着に赤紫のマントを身につけ、大きな盾を装備している。剣は、鞘のまま膝の上に横たえていた。剣士は黒髪で、額のあたりにサークレットをつけて前髪をあげていた。
 その額のあたりから鼻筋を通り、大きな汗の玉が転がり落ちた。手袋をつけた手で彼は顔をぐいとぬぐった。汗の玉が飛んで乾ききった石畳へ落ちたが、ほとんどすぐに消えた。
「どう?」
剣士の背後から、魔法使いが声をかけた。
「まだだな」
と、ローレシアのロイアルが答えた。
 テアマト水郷の都市の一つだったこの廃墟にロイが勇者ロトの扮装で陣取ってから、半日が過ぎようとしていた。
「一回やらせてくれ。一回でいい!」
そうロイが主張したのは、ドン・モハメの館で水の羽衣づくりが始まった翌日のことだった。
「まだそんなこと言ってるの?」
「頼む!このテアマトが水没したらあいつらどこにも逃げられないんだ」
ロイの言うあいつらとは、くびかり族のことだった。
「でも具体的にどうするつもり?大水がでるから逃げろ、って言っても、たぶん彼らは言葉を理解できないと思うよ、モンスターなんだから」
言葉か、とロイはつぶやいた。
「そうだよな。言ってわかるやつらじゃない。そのことはわかってるさ」
「そこまでわかってるなら」
ロイはきっぱりと言った。
「大丈夫だ。俺はもう一つ、言葉を持ってる。ここに」
そう言って彼は、背に負った大剣の束をぐっと握ってみせたのだった。
 ふと微風が起きた。じっとりと汗で湿った皮膚に、風は涼しく感じられた。
「水分の補給は怠らないで」
ロイの背後でアムが言った。アムとサリューはロイの座っている大きな石の背後に立っていた。それぞれ細身の剣と杖を手に、廃墟の周辺をじっと見据えていた。
 二人の前方には風の魔法や火球に倒れた哀れなモンスターたちが累々と転がっている。くびかり族以外の雑魚モンスターが近寄ってきたときは、ずっと二人が相手をしていた。
「おまえら、大丈夫か」
ぽつりとロイが言った。
「大丈夫。レベルけっこうあがってるから」
ベルトにつけた革袋から水を一口呑んでサリューは答えた。
「ここんとこ、世界中歩き回ったのもムダではなかったわ」
言葉が終わる前に、ヒババンゴが数頭姿を表した。
「おまえたち、じゃまよ」
「ごめんね、お呼びじゃないんだ」
魔法の使い手たちは、暑さで消耗した顔に薄い笑みを浮かべ武器を構えた。びくっとヒババンゴが身震いした。かと思うと、一頭がさっときびすを返して十字路から逃げ去った。
「どうする?闘る?」
残りの大猿も一瞬ためらった末に仲間の後を追った。
 また沈黙がもどってきた。緑濃い廃墟のなかを、風が吹き抜けた。かすかに葉擦れの音がした。少し離れたところにある川の水音が耳についた。
 ロイは、汗が目に入りかけたのを、ぎゅっと瞼を閉じてやりすごした。その目を開けたとき、いきなり緊張が高まった。
「来た!」
 くびかり族が十字路のまわりに集まって、崩れた建物の陰からこちらをうかがっていた。黒い顔の人間に見えるが、よく見ると顔のつくりや体型が人類とはちがう。強いて分類するなら魔族のような、二足歩行型のモンスターなのだろう。
 ロイは座ったまま手のひらを上に向けて、手を前方へ突き出した。挑発するような手つきで手首を動かしてみせた。
 サリューは多少懐疑的だった。ロイの持つ"言葉"は、本当にくびかり族に通じるのだろうか?くびかり族の戦士たちはじっとこちらをうかがっていた。
「集まってきたわね」
アムがぽつりと言った。先ほどまで無人だった十字路の周辺に、かなりの数のモンスターの気配があった。短い奇声があがったり、石畳の上にさっと影が落ちたり、崩れたの建物の割れ目からちらりと姿が見えたりする。
「今までようすを見てたのかも」
「全部やれるかしら」
「なんとかなるでしょ……なんとかしなくちゃ」
そう返事をしてサリューはロイの方をみた。ただの石の塊に座っていのるに、玉座にいる王のような泰然自若ぶりだった。
 ふいにくびかり族たちが静かになった。ロイの前方にくびかり族が一人飛び出した。
「おまえが一番強いのか?」
飛び出してきたくびかり族はその場でぴょんと跳び、重そうな斧を空中で振り回してみせた。
「よし」
 ロイがやっと立ち上がった。くびかり族は斧を構えて突進してきた。剣の鞘が宙を舞った。斧は幅広の刃にがっちりと受け止められた。研ぎあげた刃をはさんでロイは凄みのきいた笑顔を見せた。
 サリューは小さく口笛を吹いた。
「通じてるんだ、ロイの言葉が」
ロイはこの廃墟で、昔話のロトがやったようにくびかり族の戦士の第一人者との決闘をねらっていたのだった。
「そいつを倒せば、やつらあるていど俺の言うことを聞いてくれると思う」
 ロイがそう言うのを聞いた時、そんなにうまく行くものだろうかとサリューは思った。第一、決闘へ持ち込めるかどうか。一斉に襲ってくるのが関の山ではないだろうか。
「サマ、手出しするな!」
剣で相手を押し切ってロイが叫んだ。
「回復も?」
「断る!」
「はいはい」
 ロイは生き生きしていた。本当に勇者ロトはこんなふうだったのかもしれないとサリューは思った。ロイが大剣をふるうたびにマントが翻る。真昼の陽光が白刃を輝かせ、キンッ、ガキッと金属音が響いた。
 くびかり族は息を殺して決闘を見守っていた。地の利、そしてこの土地の気温と湿気に慣れているという意味では彼らに分がある。モンスターにふさわしい腕力でふりまわす重い斧の組み合わせもメリットだった。
 ロイは、ひたすら正攻法で対応していた。補助・回復・攻撃魔法をすべてないものにして、剣だけで相手の攻撃をふせぎ、隙をねらい、反撃していた。
「なによ。ノリノリじゃない」
くびかり族の戦士は脚の筋肉にものを言わせて、ジャンプで襲いかかってくる。盾をあげて防ぎ、その下から鋭い突きを見舞う。
「剣術の教科書みたいだね」
その体にたたきこまれた型の通りにロイは動いているのだ。どの瞬間を切り取ってもお手本のように形が綺麗に決まっていた。一度バックステップで間合いを取り、すぐに大きく足を踏み出して剣をふりかざすコンビネーションが流れるようだった。
 耳障りな金属音が響いた。ロイの大剣が斧を弾き飛ばしたのだった。
「!!!」
くびかり族たちが言葉にならない音声でわめいた。サリューはいつでも飛び出せるように身構えた。
 ロイは武器を失ったくびかり族の戦士に剣のきっさきをつきつけていた。
「俺の勝ちだ」
戦士は片手でもう片方の手の手首を握ってしばらくその場に立っていた。それから、音を立ててその場に尻をついた。
 ロイの肩から、ゆっくり緊張が取れていくのがわかった。ロイはまわりで見ていたくびかり族たちに向かって声をかけた。
「聞け、おまえら」
剣の先端でロイは川の方向を指した。
「十日後の日の出と同時に、大水がでるぞ」
その日限は、ドン・モハメやテパの人々と相談して決めた日取りだった。ロイは剣をゆっくり水平の高さへあげた。
「そのときまでに、おまえら、どこか高いところへ上れ」
くびかり族の戦士は、なにをどこまで理解したのか、ぺたんと座ったままロイを見上げていた。
「上、上だ!」
暑さにいらだったロイは、剣で水郷周辺の山を指した。
 ふいに奇声があがった。どこかで太鼓の音が答えた。廃墟にいたくびかり族が一斉にたって動き始めた。
 サリューは緊張した。だが、くびかり族は一目散に森の中へ戻っていく。先ほど決闘に負けた戦士も身を翻した。
「おい、待てよ」
戦士は振り向いた。ロイは斧を拾って渡してやった。木でできた柄をつかむと黒い顔の戦士はなにも言わずに一族の後を追って森へ消えてしまった。
「お礼も言わずに行っちゃったわ。どこまで理解したのかしらね」
サークレットをはずしながらロイがつぶやいた。
「わかんねぇ」
「でも、出来る限りのことはやったじゃない、ロイは」
「そう思っておくか」
はっとロイが背後を向いて身構えた。黒い顔がひとつ、こちらをのぞいていた。
「あれ、おまえ」
さきほど一族を代表して決闘した戦士だった。
今度は十字路へ立ち入らずにこちらを見ている。ふいに何かを足下に置いた。
「なんだ?」
答えることもなく、感情のわかりにくい丸い目をぱちくりさせると、再び戦士は姿を消した。
 ロイがつかつかと近寄って戦士の残した物を拾い上げた。
「石板じゃないか。なんでこんなもん持ってきたんだ?」
「お礼のつもりかな」
「モンスターにそんな感情があるなんてね」
ロイは魔法使いの従姉弟たちに石版を見せた。
「読めるか?おれはこの手のはさっぱりだ」
「確かに魔法言語ね。読めるところもあるわ。何かしら“マホ……”?」
ふとサリューは思った。
「これ、もしかしてさ、あいつらが勇者ロトにもらったものなんじゃないの?」
「なんだって?」
「くびかり族は、ロイのことをほんとに勇者ロトだと思ったのかも。預かり物を返したつもりなのかもしれないね」
そう言ってサリューは古い石板にしげしげと見入った。