月と海神の王国 12.大津波

  アビスの信徒たちはざわめいた。が、ドン・モハメはもう小細工しないことに決めたようだった。
「ちょうどよろしい。お二方、儀式に御立ち会いくだされ」
 ロイとサリューは、肩で息をしていた。ひどく疲れているようすだった。
「ごめ……ちょっ……待っ」
思わずアムは答えた。
「ええ、待ってるから。どうしたの?一晩中走り回ってたの?」
王子たちは苦笑いを浮かべて互いの顔を見た。
「そんなようなもんだ。な?」
「まあね」
サリューはやっと息を整えた。
「アム、それにドン・モハメと村のみなさん、僕に少しだけ時間をください」
「今更やめろと言うなら聞かないわよ?」
「逆だよ。成功率をあげるために、やっておきたいことがあるんだ」
サリューはアムのすぐ脇を通って、崖の突端に立った。そしてテアマト水郷全体を見回して何か確認するようにうなずいた。
「行くよ」
「と、飛び降りるつもり?」
「まさか。魔法をかけるんだ。テアマト全体に」
「そんな魔法があったかしら」
「くびかり族がくれた石板に書いてあった、勇者ロトの時代の、もしかしたらもっと古いかもしれない魔法だよ。ぼくたち二人がかりで一晩中、魔法発動の条件を満たすためにがんばってたんだ」
「なにをしてきたの?」
「石。特別な力のある石がこの魔法には必要だった」
サリューは片手を広げて見せた。赤い粉のようなものがその上に乗っていた。
「魔導師の杖の魔石を砕いてつくった赤いかけらだよ」
海神アビスの祝福を受けた魔石のことだった。
サリューは視線を眼下へ投げた。
「大きなかけらは全部で五つあって、ぼくとロイでテアマト全体に配置した。五つの石をつないでできる線で、ぼくはこの盆地に星を描く」
真顔で右手のニ指をそろえてサリューはテアマトに向かって突き出し、振り向いてちょっと笑ってみせた。
「この魔法使っちゃったら、ぼくの魔法力はゼロになる。あとはよろしくね?」
彼特有の人なつこい笑みは、たちまち真剣な表情にとって変わられた。
「行くよ」
サリューが魔力を解き放とうとしている。魔法使いには感じ取れる力の気配が漂った。はっきりとサリューはその呪文を発音した。
「邪悪なる者よ、退け。マホカトール!」
その声に水郷は、光の乱舞で答えた。
「ああぁぁぁぁっっ」
テパの人々が悲鳴をあげた。光は急速に収束した。テアマト水郷の最外周五カ所から白い光の柱が立ち上がった。
「あれは……」
 サリューは荒い息をしながら光の柱を見つめていた。
「僕の魔法力を全部こめた結界だよ。頼む、うまくいって」
柱の中から同じく白い光の筋が生まれた。それは左右に張り出したかと思うと、別の柱めがけて動き出した。五つの光柱から十本の光線が生まれ、お互いを求めてまっすぐに進んでいく。テアマト水郷の全長に等しい長大な線が重なり合い、やがて緑の密林の上に白熱の五芒星が浮き上がった。
 かく、と膝を折るようにしてサリューが崩れた。冷や汗にまみれた顔だが唇の隅があがり、薄く笑っていた。
「やった」
サリューの魔力は、現存するロト一族の中ではアムに次いで多い。それだけの魔力を一度にそそぎ込んだことは、アムでさえ経験がなかった。
「これは、結界なのね。こんな魔法があるなんて」
「でも、長くは持たないんだ」
サリューは歯を食いしばってつぶやいた。
「これを永遠に続けられるなら、この盆地を水没させる必要なんてない。でも、ぼくの力じゃ、いくらも持たない。いまのうちに、アム、月のかけらを使って」
「わかった、ありがとう!」
時間がない。アムは月のかけらを握った手を崖の上から空へ突き出した。
「古より海原を統べる精霊女神アビスよ、そのお力を顕したまえ」
海神アビスの祝福があり、サリューの結界がある。負ける気がしない、とアムは思った。眼下のテアマトを流れる大河に向かってアムは大声で命じた。
「水よ、あがれっ」
 テアマトは沈黙したままだった。だが、アムの手の中で紫の円盤は小さくふるえ、やがて鼓動に似た律動で動き始めた。
 どくん、どくん、と動くそれは、アム自身の心臓の音と同じだった。
「来た……」
とサリューがささやいた。テパの村人が崖のはしぎりぎりに寄り、眼下に蛇行する河をにらんだ。
 それは初め、ごく地味な目立ちにくい変化としてやってきた。川筋がゆらぎ、ほんの少しづつ川幅を広げ始めたのだ。
「おい、あそこ」
テアマト北部にはかなり大きな三日月湖が残されていた。その両端から水があふれ出ていた。
「見ろ、森が」
テアマトの中でも低地にある森のいくつかが、じわじわと水に包囲されていく。
 樹の枝を振わせて、突然鳥の大群が飛び出した。迫る水を避けて上昇し、群れをなしてテアマトの上を旋回し始めた。
 河と河にはさまれた山地はどんどん狭くなり、山から島へと代わり、見る見る内に小さくなり、ついに水没した。
 テアマトのある盆地の中で、一番高いところからアムたちは眼下を見下ろしている。その距離をおいてさえ、水は刻々と水位を上げている。ということは、今水郷の森の中にいたら、ものすごい勢いの濁流に巻き込まれかねないということだった。
 満月の塔では、周りの湖からあふれ出る水に浸され、最上階の真下まで波に洗われていた。
「あそこも、ああ、あれも」
「効いたんだ、月のかけらが」
「アビス様のお力か」
テパの人々は口々に言っている。その声を聞きながら、アムは懸命に月のかけらを保持していた。
「河口がすげえ」
誰かがつぶやいた。テアマト水郷の入口には二つの大河の河口がある。その部分は山脈に覆われていない。水は当然そこから流れ出るはずだが、まるで水門小屋にあった水晶の壁で阻まれているかのように流れでることはなく、水面は高く保たれていた。
 アムの手の中で、月のかけらは躍るように脈動していた。だが、どんどん熱を持ち、耐えられないほど熱くなってきた。
「姫、もうよろしいのでは」
ドン・モハメが遠慮がちにそう言った時、ひそかにアムはほっとした。
「わかりました」
月のかけらに向かって心で念じると、焼け石を握っているような感覚が少しづつ薄れてきた。やがて穏やかな温もりになり、生きているかのような暴れ方も規則正しい震えになった。
 ずっと空中へ差し出していた腕が、ようやく疲労を訴えてきた。アムは肘を折り曲げ、こわばった腕をそっと引き寄せた。
 水面はずいぶん上がった。テパの人々は声もなく、テアマト水郷であった巨大な湖を見下ろしていた。滔々とした濁流が間近に見て取れた。
 水面には木片や雑多なものが浮かんで波立ち、その下に森の木々がぼんやりと揺らいでいた。
 上空を旋回していた鳥たちは周辺の山脈へねぐらを求めたのか、姿を消し、風だけが水面を渡っていた。
「これだけやれば、あいつらも」
期待を込めて誰かがつぶやいた。
「そうだね」
とサリューが応じた。
「結界を張ってロンダルキアの影響をはねつけた上で、すべて水で満たしたんだ。人面樹は手も足も出ないと思うよ」
さあ、とサリューは言った。
「洗い流す時だよ」
大丈夫、できるよ、と、緑の目は言っていた。
「できるかしら」
胸がどきどきしていた。
「大丈夫、アムは海神アビスの巫女、そして精霊ルビスの高尼僧なんだ」
とサリューは言った。
「ねえ、赤い髪が青い光のなかにあったら、紫に見えると思わない?」
「えっ?」
海神の神殿の奥にあった青い滝のなかにゆらゆらと漂う紫の髪……
「アビス様に、母上様のおもざしがあったって言ったよね?たぶん、みんな顔のつくりに共通点があるんだよ。ムーンブルグの王妃様、アム、先祖にあたるローラ姫、精霊ルビス、そして、海神アビス」
精霊ルビスと、海神アビス。
「……同じ神だというの?」
「ひとつの神霊の、別々の顔なんじゃないかなと思ってる」
ずっと感じていた一種のうしろめたさがアムの中でゆっくり溶けた。あとに残ったのは、澄みきった信頼だった。
「ありがとう、サリュー。やってみるわ」
 心を静め、気を集中させる。さきほどサリューが作り上げた白い五茫星がくっきりと巨大湖の水面に浮かんで見えた。
「海神アビスよ」
月のかけらを握った両手を胸に押し付け、己の内なる女神に対してアムは祈った。
「貴方様の信徒一同、心よりおすがりいたします。どうかこの水を退かせ給え」
 水面を渡る風が一瞬途絶えた。期待と不安で胸が苦しい。アムは、両親でさえやらなかった、あるいはできなかったことを自分はやろうとしているのだと思った。魔力を持った国王夫妻にさえできなかったこと、一度高めた水位を、魔法力で下げること。
「迷わないで。できるよ」
傍らでサリューが言った。
「おれにもMPあったら、おまえにやれたのにな」
とロイがつぶやいた。
 アムはそっと首を振った。なぜかMP0で生まれた勇者……その魔法力はもしかしたら、全部自分が……。
 突然手の中で、月のかけらが動いた。アムは驚いて握りしめた。
「アム、集中して!」
サリューの声に、アムははっと顔を上げた。
 いきなりざわめきの声が耳に飛び込んできた。
「見ろ、凄いぞ!」
眼下に広がる人工湖の中央に、渦がうまれていた。水面を漂っていた雑物が同じ方向へ一斉に流れていく。最初小さかった渦巻きは次第に大きくなり、やがて湖の表面いっぱいに広がった。
 もし水鳥が水面に浮かんでいたら、たまらずに飛び立ったに違いない。嵐でもなく、ほとんど風さえないのに、水面は大きく波立ちうなりをあげて渦巻いた。
「テアマトがっ!」
ドン・モハメだった。アムを含め、人々は一斉に老人の指差す方を見た。テアマトは水郷全体の名であると同時に、水郷の出入り口の港の名でもあった。そのあたりは二大河川の河口が集中している。さきほどまで水晶壁に抑えられているかのように高く保たれていた水面に変化が起こっていた。
「なんだ、ありゃ」
「まるで滝だ」
椀に注ぎ過ぎたスープがあふれ出るように、高々とあがった水がめくれ返り、山頂ほどの高度から滝のように外側へ向かって流れ出したのである。
「見ろ、あそこもだ!」
「ど、どこ」
「満月の塔の向こうだよ」
その部分は周囲を囲う山脈が少し低くなっている場所だった。低いと言っても山があるところなのだが、人口湖の水は山の上にあふれていた。その先はムーンブルグ南の領海、あの海神の神殿の入口となっている小島が浮かぶ海へとつながっている。故郷を目指す鳥のようにあふれ出た水は海を目指して大河のように迸った。
「アム、やったよ!」
サリューの声に、アムは我に返った。
「できた?あたし、できたの?」
「大成功じゃねえか」
いきなり足にふるえがきた。背後で従兄弟たちがささえてくれるのがわかった。アムはゆっくり膝を折り、その場にすわりこんだ。
 轟々と大量の水が落下する音があたりに鳴り響く。その音を聞きながら、アムはやっと肩の力を抜いた。
「MPの使いすぎだ」
とサリューの声が耳のすぐそばで聞こえた。
「とりあえず、回復とろう。ぼくも、アムも」
安堵と疲労のあまり、アムはうなずくことしかできなかった。

 テパの村人が数人がかりで、大きな岩に手をかけて泥の中を引きずってどけた。大岩の背後に、ぽっかりと穴がひろがっていた。
「おい、どうだ?」
村人の一人がたいまつに火をつけて内部をのぞきこんだ。
「足元はちょっと水が残ってるが……」
その場所は、以前アムが使ったトンネルだった。テアマト盆地を囲む山脈の下を通ってムーンブルグ西の関所へとつながる秘密のルートである。
テアマト水郷全体から、水は見事に退いた。が、盆地をまるごとひとつ満たす量の水は、破壊の爪痕をあちこちに残していった。
テパの町は水浸しになり、家はどれも屋上まで浸水していた。簡単な作りの小屋などは水圧に負けて潰れていた。村人は避難所から大切な物を運びこむ前に、家を造り直すことから始めなくてはならなかった。
そしてドン・モハメの指示で、大事な物資搬入路であるトンネルの状態を確認するため、人が派遣されたのだった。
トンネルを奥まで進んだ男が戻ってきた。
「大丈夫だ。向こう側の出口が見えた。水没してないぞ!」
「じゃ、まだ使えるんだな?」
テパの村人たちはほっとしてそう言いあった。
ロイも、やっと表情を和ませた。
「ほっとしたぜ。大事なルートをつぶしちまったかと思った」
「今ならもう河口から海路をつかえるだろうけどね。でもこれが最短ルートなのは変わりないか」
いっしょにトンネルを見に来たサリューがそう答えた。
「なあ、ものは相談なんだが」
「テパ復興でしょ。わかってるよ」
王子二人はそれぞれの母国にテパ復興資金を出してもらえるようにと、実家に交渉することを考えていた。
「町ひとつ、いや、ふたつかそれ以上」
もともとテパの人々の願いは、テパを出て水郷全体を立て直し、織物産業を復活させることだったのだ。
「けっこうな額だよね」
「ムーンブルグはあの状態だし、食料援助が精いっぱいだろう。でもラダトーム王家ならどうだ?」
「あそこはあそこでひっ迫してると思うよ?ルプガナかペルポイのほうが脈があると思う。ご近所のよしみで、ベラヌールも」
「デルコンダルは?あそこの王様がどうしてもって言うなら、猛獣の二三匹、追加で倒してみせるぞ、俺は」
「う、うん」
トンネルを見に来たチームはいそいそとトンネル内の清掃にとりかかった。ロイたちはそれを見届けてテパまで戻ることにした。
テパ周辺のフィールドでは目に見えてモンスターが減った。まれに出くわしても、さっさと逃げられてしまう。ロイは深追いするのはやめることにした。ぞろぞろとマドハンドが逃げていった方向から、見知った人影が現れた。
「やる気ないわねぇ」
アムだった。
「何?今のマドハンドのこと?」
アムはうなずいた。手に杖を構えているところをみるとエンカウントするつもりだったらしいが、マドハンドの方でその気がなかったらしい。
「もう動いて大丈夫?」
儀式のあと、アムはベラヌールの宿屋で昏々と眠りこんだ。そして、目を覚ましてからもどことなくふらふらしていた。
「大丈夫よ、もう魔力は戻ったわ」
本人はそう言ったが、サリューがさりげなく手を貸して泥地を避けさせた。
「爺様のほうはどうなった?」
とロイが聞いた。
「ドン・モハメは、村のみんなと一緒に水郷をまわってくるって言ってた。まだ人面樹がいるかどうか確かめるんだって」
「大丈夫か?ヒババンゴはまだ出るぞ」
サリューは首を振った。
「あれはモンスターっていうより土着の動物なんだろうね。ある意味、ほんとの皆殺しじゃなかったってわけで、むしろほっとするよ」
ロイはうなずいた。
「くびかり族のことだけどな」
「うん?」
「明け方に、やつらの使う太鼓の音が聞こえた気がしたんだ」
「じゃあ、ロイの言ったことをちゃんと聞いて、高いところへ避難したんだね?」
「だと思いたい」
アムは水郷周辺の山を見上げてつぶやいた。
「同じ土地にくびかり族と人間が住んでるんだから争いもなくなりはしないだろうけど、テアマト水郷はもうそれほど簡単にロンダルキアからの風を受け入れはしないでしょう」
アムは自信のある口ぶりだった。精霊の加護か、とロイは思った。
「むやみに凶暴化もしないか」
「たぶん」
そのとき何か言いかけて、ふとサリューが動きをとめた。
「どうした?」
「何か聞こえる」
先に立ってサリューが動き始めた。
泥だらけの道の脇の、少しは乾いたところを選んでパーティは行く。しばらくするとはっきり声が聞こえるようになった。
「おっと、動くなよ?」
ロイは眉をしかめた。サリューの方を見ると首を振っていた。誰だかわからないらしい。三人は木立の陰から向こう側をうかがった。二人の男がいた。どうも剣呑なふんいきだった。一人はテパの村人、イリヤだった。
 鎧を装備した戦士が、イリヤの前に立ちふさがっていた。剣を抜いて、イリヤを脅しているらしい。イリヤは、何か大きなものを足元に置いて、焦りまくった表情で戦士をにらんでいた。
「こんなところに隠していたとはな。てめえも年貢の納め時だ。そいつをよこせ」
「ちくしょう、ちくしょう!」
戦士が剣をつきつけた。兜の下のその顔に、やっとロイは思い当たった。
「ムスティって言ったか、あいつだ」
最初の夜同じ教会に泊った男。外国の商人の代理で水の羽衣の買い付けに来た、というふれこみだった。
「そうか」
と小さくサリューがつぶやいた。
「あの人だったんだ」
「何のこと?」
「ムスティのほんとの仕事は、盗賊ラゴスの代わりにイリヤとジーナを見張ることだよ」
「なんだと?」
「しっ、後で話すから」
剣をつきつけられてイリヤは一歩あとずさった。その切っ先を警戒しながら、イリヤが話しかけた。
「なあ、ものは相談だ。あんた、こいつの中身を知ってるんだろ?半分やるよ。だから、おかしらには言わないでくれ」
ムスティはせせら笑った。
「あんた、ラゴスを見くびりすぎだ。稼ぎの上前はねたらどうなると思う。全部持って帰らせてもらうぜ。さあ、どけ。そいつをよこせ」
「くそっ」
凄い形相でイリヤがうめいた。
「どうやって持って帰るつもり?」
にらみあう二人は、驚いてふりむいた。
サリューは悠々と木立から出た。
「ムスティさん、お仕事ご苦労さん」
ムスティはちっとつぶやいた。
「サマルトリアのお坊ちゃん、こいつは盗賊仲間の仁義の問題でね。口を挟まないでいただきたいもんだ」
「ラゴス君のことを言ってるなら、お門違いだよ。だいたい最近親分さんに指示を仰いだ?」
ムスティは不審そうに眼を細めた。
「あんたのことは聞いてるよ。口車には乗らねえぞ」
サリューは笑った。
「ラゴス君がそう言ったの?」
「いや、おれの直観だ」
「好きにすればいいよ。でもラゴス君は僕の目の前で、『ジーナが盗んで行ったものは諦める』って言った」
「なんだと!」
と叫んだのは、ムスティとイリヤが同時だった。
「テパへ監視役を派遣する費用の方がかさむんだって」
「そんな、それじゃ盗賊ラゴスのメンツが」
「メンツより、新しいおもしろい仕事の方がラゴス君は好きだよ。ちがう?」
ムスティはサリューとイリヤを見比べて考え込んだ。
「第一、イリヤからその宝箱を取りあげてどうするの。ゴールド金貨でいっぱいだったら、重いよ?一人で持って帰れる?」
サリューの後ろからのっそりとロイが出てきて並んだ。
「あんた、諦めた方がいいぜ。この王子様、坊ちゃん顔してけっこう肝がすわってるんだ。盗人の上前はねるくらい、平気でやる」
サリューがちょっと肩をすくめた。
「悪い友達とつきあったのがいけなかったんだね」
「誰の事かしら」
ロイの反対側にアムが並んだ。
「まあどっちみち、これ以上ぐずぐず言うならこちらにも考えがあってよ、買い付け代理のムスティさん?」
いかにも好戦的にアムは杖を握り直してみせた。
「しかたねえ、ここは俺が退く」
ついにムスティが言った。
「けど、ラゴスを騙ったんなら後で後悔するぞ」
「それが捨て台詞?情けないな」
くすくす笑うサリューに背を向けてムスティは一目散に逃げ出した。
誰かが、はうっとためいきをついた。ロイはふりむいた。イリヤが宝箱の上に両手をついて、がっくりと肩を落としていた。
「ラゴスからの伝言、本当はジーナさんあてなんだ」
とサリューは言った。
「でも、いい機会だから言っておくね?ラゴスはこう言ったんだ。『おれは諦めた。びくびくしないで、惚れた男と一緒に暮らすといい。ただし二度と盗賊稼業に足突っ込むな』」
イリヤは疲れた表情でロイたちを見た。
「二度とやるつもりなんかねえよ。もともと俺は、独立するためのまとまった金が欲しくて、ただ一回きり幼馴染のジーナにつきあってラゴスの仕事を手伝った。十年前、テアマト水郷が焼き打ちにあう直前のことだ」
「ジーナさんは、分け前をもらうだけじゃ満足しなかったんだね?」
イリヤはうなずいた。
「あいつは、おれと一緒に別の土地へ出て行って、そこで商売を始められるだけの金が欲しかったんだ。それでラゴスの信頼をいいことに、金貨のつまったこの箱を二人がかりで持ち出して、テパへ隠した」
「最初の隠し場所は、水門の上の貯水池の中。だよね?」
「ああ。二人で宝箱を貯水池へ沈め、そのあとすぐに俺が引き揚げて隠し直した」
「聞いてもいいかしら?どうして?」
イリヤは背を伸ばし、両手をひろげてみせた。
「テパを出ていくわけにいかなかったからよ!ドン・モハメの親方を見捨てられるか」
イリヤは真剣な目つきだった。
「テアマト水郷へ戻ってすぐ、モンスターが襲ってきて水郷全体が壊滅した。みんなでいっしょにテパまで逃げてきて、息をひそめるように暮らしてきた。ジーナには、今金を取りだせばラゴスに見つかる、と言ってテパに引き留めたんだ。その間に」
「結婚しちゃった、と」
イリヤが赤くなった。
「ガキのころから、好きだったんだよ!そうでなけりゃ、どうして盗賊の手伝いなんかするかよ。とにかく、あいつは土地を出て行かなかったし、まっとうな暮らしにもどってくれた。元々織り子としちゃあ、かなりいい腕なんだ」
サリューはうなずいた。
「じゃ、万々歳だ。そうだね?」
「お、おう」
「そのお宝のことだけど」
イリヤは真顔になった。
「こいつはもういらねえ。ていうか、あればジーナがまた妙な気を起こす」
サリューが振り向いた。
「だってさ。ロイもアムも、荷物おろして、中身全部出して!」
二人は顔を見合わせた。さっさと自分の荷物を取り出してサリューが指示した。
「金貨を手分けして袋に詰めるんだ。早く、ジーナさんが気づかないうちにね」
「ああ、そういうことか!」
「とりあえずの復興の足しになるわね」
ロイたちはそれぞれに背負った袋をおろし、道ばたの草むらの中へ中身を隠した。
「で、金の出どこはどうする?」
ゴールド金貨を鷲掴みにして袋へ押し込みながらロイが聞いた。
「ルビス様のお恵みで空から降ってきました、じゃ、まずいか」
憤然としてアムが言った。
「んなわけ、ないじゃない。ローレシア、サマルトリアからの援助よ、もちろん」
サリューがおずおずと口をはさんだ。
「ムーンブルグの復興は、その」
「うるさいわね、我が国は泥棒の上前はねたりしないの!」
口まで金貨でいっぱいのリュックサックに、アムはさらにひとつかみを乱暴に押し込んだ。
「わあっ、縫い目が破ける!」
ざらざらとこぼれ落ちる金貨をなくすまいとイリヤが飛んできた。
「おまえはいいからっ、その宝箱隠せ。じゃなくて、たたっ壊せ!」
「いっそ、焚き付けにしちゃうといいよ」
テパ周辺の山道で、しばらくの間騒動は続いていた。

 ドン・モハメとテパの村人たちは、じっとりとした蒸し暑さに耐えて古い地図を頼りに密林を進んでいた。かつての街道は草が密生し、さらに濁流に洗われてぼろぼろになっていたが、それでも人々は足を速めた。
 彼らは故郷を探していたのだった。
 町があったはずの場所へ、彼らは十年ぶりにたどりついた。
「これがテラビス?」
村人たちはあたりを見回した。
 町の中央、であるはずだった。教会のシンボルが屋根板ごと地面にめりこんでいた。
「ここが、あの、にぎやかだったテラビス……」
そこは町の中央の十字路だった場所だった。四つ角に建物の土台や柱をたてるための穴がわずかに残り、勢いよく茂った草の中に埋まりそうになっていた。
 焼き打ちで燃えそうなものはすべて焼き払われ、先日の大津波でそれ以外のものも押し流されてしまったのだろう。
 人々は呆然として滅亡の風景の前に立ち尽くした。
「うそよ」
ナンナは呆然としていた。
「テラビスが、ムーンブルグより美しいといわれたテラビスが、こんなみじめったらしい、ぼろっちぃ……」
テアマト水郷の女たち、特に織り子は気が強い。腕によっては、男よりよほど稼ぎがよいからだ。ナンナもその1人なのだが、その彼女が、ぽろぽろと泣き出した。
「こんなんなら、知らないほうがよかった!あの子にとても言えない、こんな、こんな」
ナンナの嗚咽の声を、テパから来た人々は肩を落として聞いているしかなかった。
しばらくして、ドン・モハメがしわ深い手をナンナの肩にのせた。ナンナは意地になったのか、肩をそびやかしてその手を振り払った。
「ほっといてください!」
「そうはいかん」
静かにドン・モハメが答えた。
老人は腰を屈め、足下の小石を拾い上げた。
「これは捨てなくてはならんな」
「そんな小石一つ、どうでもいいでしょう」
「いやいや。ここは、テラビスの中心の広場だったんじゃ。壊れた石畳は、全部取り替えねばならん」
ドン・モハメは背を伸ばした。
「道路を片づけて、物を運び込めるようにせんとな」
何人かが顔を上げてドン・モハメを見上げた。ドン・モハメは光の宿る目であたりを見回していた。
「木材、しっくい、煉瓦……。立て直すんじゃ。大事な建物をひとつひとつな」
「親方」
とイアンが言った。
「まず、テアマト桑を植えよう。すぐには育たんじゃろうが、テパの周りから土を運び、苗を植えて見守ろう」
「神蚕さまのお世話は、私らがします」
別の村人がそう言った。
「工房も建てましょう!」
「織り機もつくろう、俺はまだ作れるぞ」
ドン・モハメは力強くうなずいた。
「そうじゃ、そうじゃ。わしらはここまで10年辛抱した。これから10年、辛抱できないことがあるかね?」
いつのまにかナンナの泣き声がやんでいた。
「親方、あたし」
「ナンナや、手伝っておくれ。みんなも」
テアマト水郷の人々は、もう1人もうつむいてはいなかった。
「知っとるか、ナンナや、ムーンブルグもな、壊滅したそうじゃ」
とドン・モハメは言った。
「じゃが、王女様はおひとりの肩に故国の復興を背負って戦い続けておられる」
村人の1人が声を上げた。
「私らはひとりじゃない」
「その通りだとも。ここがわしらの戦場、ここがわしらの生きる場所」
両手を大きく広げて力強くドン・モハメは言った。
「復興しましょうぞ、すべてを!」
ある者はおう、とつぶやき、ある者はうなずいた。ただ涙を流す者、黙って拳をにぎりしめる者もいた。
反応はさまざまだったが、まちがいなくその日、テアマト水郷の復興は、最初の一歩を進み出したのだった。