ロトシリーズ20のお題 5.ルビス

 長い間、彼女の視界は灰色の濃淡だった。
 その視界も固定されている。首を動かすことができないのだ。
 首ばかりではなく、手も、足も、体全体が石と化して久しい。
 不老不死、人には持ちえぬ超絶の力の持ち主である精霊にしてこのありさまとは、まさに一代の不覚だった。
 ゾーマ。その名を思い浮かべるだけでも、彼女の心には焦燥の思いがわきあがる。こうしてはいられない、私のアレフガルドがっ……。
 できることなら血の涙を流して泣き叫びたいのだが、それすらかなわず、ただ一個の石像と化して、この高い塔の上の部屋にじっと立ち尽くしていなくてはならないのだった。
「ルビスよ、そなたはもう、動くことはできぬ」
陰々と響く声で、大魔王はそう言った。
「だが、わしにも慈悲はある」
うれしそうに目を細めて、舌なめずりをすると、大魔王は長い爪の生えた指を振った。
「そなたの心だけは、石にしないでおいてやろう。そなたの愛したアレフガルドが闇に覆われるのをいつまでも悲しんでいるがよい」
 強敵を葬り、陰険ないやがらせをして、大魔王は高笑いの声をあげて、あの扉から出て行った。その後ろで扉は音を立てて閉じ、以来、開くのを見たことがない。
 ルビスは待った。
 石の床にほこりがつもっていく。石壁にクモが巣をかけ、破れ、また巣を張りなおす。ルビスの石像の背後に小さな窓でもあるのだろうか、太陽の光がさしこみ、己の影がゆっくりと動く。ときに雨が吹き込み、雷鳴が響く。
 一日が一年にあたるほどのじれったさで、ルビスはただ、待ちつくした。
 その気配に気づいたのは、何度も絶望したあとのことだった。
 最初、ついに自分が衰え、幻聴を聞くようになったかと思った。
 だが、それは近づいてきた。
「足音……一人ではないわ」
ルビスはそう思った。
「こんな危険なところへいったい、誰が」
足音の主を気遣う反面、激しい飢えに似た気持ちがあった。
「早くここへ来て!石化を解くことができなくてもいい、せめて外へ連れ出して。私のアレフガルドがどうなったのか、教えて!」
 殺気。剣戟の音。魔法の匂い。近くで戦闘があったことをルビスは知る。死なないで、頼むから。彼らが心配だから。自分が助かりたいから。どちらもルビスの真意に他ならない。
 塔に閉じ込められた乙女は、昼も夜も救いの手を待ち続ける。昔ばあやに読んでもらった物語に、そんなお話がなかっただろうか。
 塔をのぼってくる集団は、強固な意志を持っているようだった。上へ、上へ。ほんの少しづつだが、確実にルビスの石像のあるところに近づいているようだった。
 ルビスは期待のあまり胸が苦しくなるような錯覚さえ感じた。助けて、私に気づいて!
 ルビスの緊張は極限に達した。扉が動いている。床にたまったほこりが舞い上がり、空気が動き出す。石像の目では、満足に物も見えない。心眼を通しても、4人の人間が入ってきたのがわかるだけだった。
 人間!ルビスは衝撃を覚えた。大魔王の建造したこの危険な塔を、人間が上ってくるとは。この者たちは、もしや。
「あった、あった。これだ」
「ずいぶん、古い石像だな」
「これがルビス様なの?」
彼らの会話にも、胸がどきどきする。声からして、まだ若者のようだった。
「じゃ、吹くぞ」
先頭の若者が取り出した物を見て、ルビスの心は跳ね上がった。なんと、妖精の笛。彼女の石化を解除する唯一のアイテムを持ってくるとは!
 若者は唇をつけて笛を吹き鳴らした。不思議な音色が流れ出した。
 音は、見えない波となって彼女に押し寄せる。透き通った糸のようにからみつき、石像を覆っていく。それはやがて、さなぎになった。
“ああっ”
 糸はやわらかく、さなぎのうちは暖かい。だが、容赦のない力で石像の殻を溶かし続けた。
 最後に残った薄い壁は、ルビス自身が内側から打ち破った。
「すげ……」
若者は口から笛を放して、つぶやいた。ルビスは目を見開き、初めてその若者の顔をはっきりと見た。
「あなたは……」
二十歳前後の、黒髪の若者だった。旅人のいでたちで、装備はどれも使い込んでいる。だが、ルビスに向けた視線は素直な賞賛に満ちていた。
 彫りの深い、端正な顔立ち。少し固そうな黒い髪。誠実で力のこもったまなざし。
 忘れたことがあっただろうか、この人を。
 ただ一人、心から愛した人を。
 ルビスは、数百年ぶりに、熱い涙がほほを流れるのを感じた。
 目の前にいる若者、その身はまぎれもなく人間だった。
「あなたは、生まれ変わったのね。そして、私を助けに来てくれた」
「精霊ルビス様?」
 懐かしく耳になじむ声が、自分の名を呼ぶ。
 まるで、知らない人間を呼ぶように。
 天上の歓喜が、鈍い痛みといっしょにやってくる。
「よく助けてくれました」
痛みを抑えて、ルビスは言った。
 愛した人の面影をもった若者の後ろには、二人の男と、一人の少女。一緒に旅をしてきた仲間らしい。
 物見遊山で、こんなところまで来るだろうか。もちろん彼らは、戦うためにやってきたのだ、大魔王と。
「私は、精霊ルビス。いつでもあなた方を見守っています。大魔王との戦いには、私の加護を約束しましょう」
ルビスは深く息を吸った。空中に手をかざすと、すぐに望みのものが手中に現れた。円形の中に、彼女の紋章をかたどった印である。
「勇者よ、これをあなたに与えます」
若者はうやうやしく両手をさしのべた。それは、彼の手の中におさまった。
「ありがとうございます、ルビス様」
 そんなやさしい笑顔を、いつも誰にむけているのだろうか。ちくちくと痛む心をなだめて、ルビスはつぶやいた。
「持っておいでなさい。私の愛の証です」
 この恋は、誰にも言えない。けして報われない。