ルプガナの嵐 5.のら犬のように自由に

 アムは遠慮がちにつぶやいた。
「もう少しニコルの気持ちもわかってあげてほしいの」
けらけらとミゼットが笑った。
「もしもニコルが他人に気持ちをわかってほしいなら、他人の気持ちを自分から理解しなきゃ!」
「“あたしってかわいそうでしょ?”って毎日何回も言われるのがどんな気持ちかニコルはわかってないわ」
「お互い様ってこと」
サマがロイの袖を引いて、ぼそぼそとささやいた。
「なあ」
しかたなくロイが口を開いた。
「とにかくおれたちは、ベルモントの家に行ってみるつもりなんだ。そのときに、あんたらの名前を出してもいいか?」
 どうする?と娘たちは言い合っていたが、やがてミゼットがうなずいた。
「いいわよ。お兄さん、男前だしね。ニコルのお母さんは、もののよくわかったいい小母さまだから、“ミゼットの知り合い”には会ってくれると思うわ」

 ベルモント邸の豪華な一室に集まった船乗りや商人は、沈痛な表情だった。
「今まで、いくつ船を失った?」
商人たちは互いに顔を見合わせた。船長が答えた。
「最初の嵐で大型船『風の狼』がやられました。それから航路間を走っていた中型のが立て続けに二艘沈みました。そしてこのあいだアレフガルドへ行った『星降る腕輪』が予定を過ぎても戻りません。行方不明です」
凄絶な被害だった。ベルモントはためいきをついた。
「ベルモントさん!」
 若い商人が雰囲気に耐えかねたように叫んだ。
「だからと言ってこれ以上商品を寝かせて置けません。船を出させてください!嵐にあっても、沈むとはかぎらないじゃないですか。少しでも荷がさばけないとおれは……」
小声で船乗りが言った。
「そう言って、この間出航した『星降る腕輪』号が戻ってこないんですが」
「じゃあ、どうするんだ!ドラゴンの塔のつり橋を再建するのか!大事業だぞ」
居合わせた商人たちのほうが蒼くなった。
「そんなことは言っていない!」
ベルモントがこほんと咳払いをした。商人も船乗りも静かになった。
「聞いてくれ。最初に沈んだ『風の狼』はな、私の幼馴染で商売仲間の持ち船だった」
 最初に口を開いた若い商人が、恥じ入るようにうつむいた。
「みなも知っていることだろう。彼、レイモンは大きな店と邸宅をもち、手広く商売をやっていた。だが、貴重な商品をたっぷり仕入れるために、手持ちの財産を宝石類に代えてルプガナ一と言われた頑丈な大型帆船『風の狼』に乗せて送り出したときに、嵐にあった」
ベルモントは首を振った。
「レイモンは、今は一文無しだ。店も家も人手に渡り、家族は奥さんの実家でひっそりと暮らしている。本人は港の倉庫に寝泊りしている始末だ。悲劇はあいつ一人ではない。船一艘につき、どれだけの水夫が死んでいると思う。なあ、みんな」
ベルモントは商人たちを見回した。
「こんな悲しい目に会う者をこれ以上出したくない。いま少し、すべての船を停めて、海が穏やかになるのをまとう。ルビス様のご機嫌がなおりますよう、お祈りするしかない」

 さきほどまで三人は、ものすごい緊張にさらされていた。ルプガナのベルモント邸のすぐそばだった。
「船をお借りしたい者だが、ベルモント殿にお目にかかりたい」と女中に告げてずっと待っていたのだった。三人とも口をきかなかったが、あの甘ったれたニコルという娘が祖父に何か言っていたとしたら、どれだけこっぴどく断られるかわからない、と思っていた。
 いけないいけないと思うのだが、どうしても視線がアムのほうへ行ってしまう。自分で自分を責めているらしく、アムは唇を噛み、穏やかならない目つきになっていた。
 こいつ、プライド高いからな、とロイは思う。リーダーとして何か言ってやるべき場面だと思うのだが、ただでさえぴりぴりしているアムは、自分の周りにとげとげしい結界を張っているように見えた。怖くて触れないのだ。
 突然中年の上品な婦人が小走りで控えの間に飛び込んできたとき、三人はとびあがりそうになった。
「ニコルの母でございます」
「……どうも」
ニコルのお母さんというひとは、やつれの見える顔で何とか微笑んで見せた。
「ミゼットさんのお友達の方々、とうかがいましたが」
「はあ」
ロイもアムも、必要最低限しかしゃべれない。こういうときにはいつもサマがひょうひょうとした態度で毒を抜いてくれるのだが、今日に限ってサマはハンカチを鼻から離せないようだった。
「まことに申し訳ないのですが、義父のベルモントはルプガナのみなさんと会議中でございます。そしてニコルは」
婦人は手を揉み絞った。
「またいなくなってしまいましたの!」
「えっ」
「本当に申し訳ないのですが、今日のところはお帰りいただくわけにはいきませんでしょうか」
というわけで、三人は挨拶もそこそこにベルモント邸を辞去してきた。
 ベルモント邸は町の北側、港を見下ろす斜面の上の方にある。そこからさらにのぼっていくと、丘の上に出た。
 見晴らしがよいのは、昔見張り台でもあったためだろうか。丘の上は挟間胸壁をめぐらせた小さな広場になっていた。大きな立方体の石がいくつか置いてある。三人は、何も言わずにそのひとつに腰をかけた。町越しにはるか遠く、ドラゴンの北の塔が見えていた。
 ムーンペタなら小鳥がいたが、ここはカモメの天下のようだった。我が物顔に空を旋回している。風は強いが天気がよく内海は穏やかで、なかなか荒れ狂う海とは信じられなかった。波は規則正しく岸壁を洗い、潮騒の音を響かせていた。
 ふと視界の片隅を横切るものがあった。野良猫のようだった。隣で、ぴく、とアムが身じろぎした。野良猫はさっと逃げてしまった。
「どうした?」
とりあえず、そう聞いてみた。アムは微妙な表情になった。
「あたし、今……」
くしゅん、とサマがくしゃみをした。
「え?、何?」
「追いかけたかったの」
「何を?」
「何って、今の猫よ、猫」
緊張から開放されて、ぼけっとしていたサマの顔が、くしゃくしゃとゆがんだ。ぷっ、くくくっ、と笑いをこらえている。
「それ、まずいよ、アム」
「そうね、そうよね」
といいながら、アムの肩も小刻みに震えて、笑いをこらえている。
「でも、無性に追いかけたくて、たまんないのよ!」
ぶーっとサマが噴出した。
「野良猫追いかけるなんて、やばいよそれーっ!」
「やばい?やばいね、あたし。まだ残ってるのーっ」
 人が変わったように大口を開け、あけっぴろげにアムは笑い出した。片手で腹をおさえ、もう片方の手で座っている石をばんばんたたいている。
 たぶん、強い緊張から開放されたおかげなのだろう、とロイは思った。
「こなっ、こないだからねっ、街角に来ると匂いかぎたくてしょうがないしっ」
「それもだめーっ」
サマも大爆笑中だった。
「普通にあやしいよっ」
ひいひいと笑いながらくしゃみをしている。
「ほんとは、店屋の裏のゴミ壷とか、誘惑だったりして?」
「なんでわかるのぉ!」
 ふっとロイに、ムーンペタの記憶がよみがえってきた。ラーの鏡を抱えて街中探し回ったころのことだ。何かがすとんと笑いのツボへはまったのは、そのときだった。顔のほほの筋肉が震え始めた。
「じゃあ、じゃあ、誰かが“お手”とかしてたら」
ぱっとアムはロイのほうに笑顔を向けた。
「やっちゃうかもっ。あたし、手、乗せちゃうかも!」
「ほい」
手袋をはめたままの手のひらをつきだすと、本当にちょん、とアムは片手を乗せた。一瞬、見つめあう。次の瞬間、二人とも笑いを爆発させていた。
「やっばーっ」
げらげら、などというものではない。次から次へとバカな話を言いかけて、三人は笑い転げた。
「驚くよーっ、飼い犬に“お手“をさせてたら、大真面目にアムが来て、自分の手をのっけたら!」
サマが話をふると、アムは大喜びだった。
「じゃ、“ごめんあそばせ”って言ったら?」
「おまえ、そのほうがやばいって!」
ロイがつっこみをいれ、また爆笑の発作におそわれる。ついに口も利けないほど笑って、笑って、お腹がよじれて、やっと三人は静かになった。
「よく考えるとね」
やや小さな声で、アムが言った。
「あたし、自由だったわ、犬になってたころ」