きみとリリザで 6.疑惑の”勇者の泉”

服は着たが、頭巾をつける気持ちになれずに王女は髪を夜風にさらしていた。
「そろそろ冷えるよ。焚き火へおいでよ」
「ありがとう」
王女はサリューの隣にすわった。
「勇者の泉の長老様は、サリューの母方のおじいさまなのでしょう?」
「そうなんだ。国で一番物知りの長老さまだよ。ただ、あのときおじいさまがあんなことを言わなかったら……」

 勇者の泉の長老は、杖を片手にていねいに頭を下げた。青い服の若者はつかつかと近寄ってきた。太い眉と気の強そうな表情は、子供の頃と変わらない。
「前に一度会ったか?」
と、ロイは聞いた。
「はい。この泉で」
「子どもがいっしょだった。あんたの、ええと、孫か」
「そのとおりです」
長老は微笑んだ。ロイは傷だらけだった。聖なる力に守られている長老は襲われることはないが、ロイはこの洞窟に棲みついた魔性の蛇だのねずみだのとさんざんやりあってきたにちがいない。だが強い輝きを放つ目は闘志を失っていなかった。
「サマルトリアのナントカ王子がこっちへ来てるだろう?会わせてくれ」
「まずは身を清めなされ」
ロイは背中から剣をおろした。ためらいもなく裸になると、冷たく澄んだ泉の中に足を踏み入れた。
 高い岩の丸天井に、青い光の帯がゆらめく。広い水面の遥か奥には、たっぷりした水量が滝となってほとばしっていた。絶え間ない波紋が泉を飾り、水面をたたく水の音が反響している。
 力強い腕が大きく水をかいた。時々、日焼けした広い背中が見える。水しぶきはあまりあがらない。一本気な性格にもあわず、泳ぎ方はむだがなく、優雅でさえあった。
「ここはご先祖にゆかりの地。勇者アレフが、ローラ姫とともにこの泉に立ち寄られ、泉の精霊から南のローレシアを治めるようにと勧めを受けたそうです」
ロイは立ち泳ぎのまま聞いていた。
「あんた、物知りだな」
「おそれいります」
水面からロイがまっすぐ見上げて聞いた。黒髪が額にはりついている。
「なあ、魔法の力って、親から子へ伝わるのか?」
「そういうことも多いですが、そうでないこともございます」
「答えになってねぇよ。王族のほかに、魔法を使えるやつがいるのかどうか聞いてんだ」
「おりますよ」
「本当か?」
「今では非常に珍しいですが、魔力を持った子供も、まれに生まれます。もっともそれほど強い力はありません」
長老は岩の上に腰を下ろし、目の高さを近づけた。
「やはり、もっとも強い魔法力を受け継いでいるのが、ロト三国の後継者たちと言えましょう」
「おれをのぞいて、か」
とぷ、と音を立てて、ロイの頭は水中に消えた。少し離れたところに彼が現れるのを待って、長老は話しかけた。
「ロイアル殿下。今必要なのは、精霊ルビス様を信頼申し上げることですぞ。あなたさまが魔法力なしで生まれてきたことにも、ルビス様の御意志が働いているにちがいないのです」
「精霊はいったい、おれから魔法を取り上げてどうしたかったんだ?」
「推測ではございますが、もしこの世の魔法力というものが有限ならば、あなたさまが授かるはずだった魔法力が、誰か別の者に与えられているのかもしれません」
「たとえば、サマルトリアの王子とか」
「それは、わかりません」
ざばっと音を立ててロイは岩の上にあがってきた。
「で?その問題の王子はどこだ」
長老は咳払いをした。
「あ~、実は、先刻王子はお見えになったのですが、もう、お出かけになりました」
「なんだって?せっかく来たってのに。王子はどこへ行ったんだ」
「ローレシアへ行くと言っておいででした。たぶん、あなたさまに会いにおいでになったのでしょう」
「また歩けってか。くそっ」
手早く体を拭き、服を身につけ、ロイは飛び出した。
「追いかける。ジャマしたな。それと、祝福をどうも!」
短気な王子はさっさと行ってしまった。

 岩の陰から孫息子がのぞいているのを、長老は知っていた。
「こちらへ、サリュー様」
少年はぱたぱたと走ってきた。
「おじいさま、気づいていたんですか?」
「王子が隠れておいでになったことですかな?もちろんです」
「黙っていてくれたの、ありがとう」
「わけがおありのようでしたので」
サリューは黙っていた。
「まだあのお方が怖いですか?」
小さな子供だったときそのままに、こくんとサリューはうなずいた。
「ぼくには、わかりません。どうしてあのひとは、あんなに熱心に勇者であろうとするの?あの人の行く先には、苦労することや辛い思いがたくさん待っているはずなのに」
「そうですな……」
長老は自分の髯を撫でつけた。
「じいにもわかりませんな」
「そうなの?」
「そうです。たぶん、ロイアル様にしかわからないことでしょう。ひとつ、直接お聞きになってみてはいかがです」
サリューはもじもじした。
「あの人は、ぼくのことを旅の吟遊詩人だと思っているんです。自分のことはキャラバンを守る傭兵だと思わせているみたいだし。そんなこと、聞けないです」
長老は微笑んだ。
「サリュー様。あの方はたぶん、あなた様の正体に気づいておいでですぞ」
えっ、と声を上げてサリューは、両手で口元を覆った。
「なんで?」
「ロイアル様は、十年近く昔のことを、覚えておいでになりました。子供の頃にこの泉へおいでになったときのことです」
「ぼくもおぼえてる」
「あのときこの場所で、ロイアル様とあなた様は顔を合わせておいでです。このじいの孫というのが、サマルトリア王家の子だというのは、周知のことです。ロイアル様は、あなた様があの時の子供とすでに気づいておいでなのかもしれません」
「じゃあ、どうして!」
長老は、王子の目をのぞきこんだ。
「あなた様のほうから名乗りをあげるのを、勇者様は待っておいでなのだとしたら、いかがかな?」
さっとサリューの顔が紅潮した。
「ぼくったら、バカみたいですね」
「そんなことはありませんが、機会を見て早くお話になったほうがよいのではないでしょうか。大誓約を負う者が勇者の招集から逃れる方法はないのですから」

 ロイは泉のある洞窟を抜けて街道を南西に向かい、橋を渡った。森の中の空き地に馬車が停まっているのが見えた。
 キャラバンは順調のようだった。東の港まで行って、ちょうどこの待ち合わせ場所まで戻ってきたところらしい。塩漬けの魚の樽がいくつも積み込まれて、生臭いような独特のにおいを発していた。
 ポーリーがロイを見つけてやってきた。
「お帰り。用は済んだかい」
「おう」
「兄ちゃん、こんどはどこへ行くんだ?」
「あんたたちは?」
「リリザにあるキャラバンベースへ、どうしても一回戻らなきゃならなねえ」
リリザは南の方角に当たる。
「おれは南東へ行くことになった」
「南東っていうと、ローレシアか。途中まではいっしょのようだな」
「分かれ道までは、護衛を引き受ける。そこでお別れだ」
「心細いが、しかたねえか」
そのときだった。子供の泣き声のようなものが聞こえた。
「そんな……ひどい……」
「なんだ、なんだ?」
 ポーリーが走っていく。ロイが後から行くと、なにやら騒ぎが起こっていた。あいかわらず、騒ぎの中心はあのマールとか言うやつだった。二号馬車の責任者が、平謝りといった感じでぺこぺこしている。
「どうしたんだ?」
居合わせたガレスに聞くと、ガレスは低い声で言った。
「あの坊やのぬいぐるみが、なくなっちまったんだ」
「なにぃ?」
マールの表情はとにかく悲劇的で、とてもぬいぐるみ程度とは結びつかない。
「荷物が多かったから、二号へ半分移したろ?それを、屋根にくくりつけたんだと。そうしたら、紐が緩んでいたらしくてぬいぐるみが落っこちたらしい」
ロイは呆れた。
「それであいつが大騒ぎかよ!」
「まあそうなんだが、いったん請け負った荷物を途中でなくすなんざ、キャラバンの名折れだ。なんとかしないとな」
ガレスは真剣な口調だった。
「なあ、あの坊や、あやしいと思わねえか?」
「あやしいって?」
「家出じゃねえかと思うんだよ。だとすれば、あの大荷物もわかるし、どれもきっと大事なものなんだろうよ」
ロイはばかばかしい、と言えなくなってしまった。
「家出か。そりゃ置いてくるのがつらいものだってあるよな」
そう言いかけて、ロイはふと気づいた。
「あのマールってやつ、勇者の泉で降りるんじゃなかったのか?」
「いや?ローレシアへ行くんだってよ」
「げっ」
「おれたちといっしょにリリザへ行って、ローレシア行きのキャラバンを探すそうだ」
「あの野郎、たまには歩きゃいいんだ」
「じゃあ、兄ちゃんがいっしょに行ってやりなよ」
「おれは急いでるんだよ!なまっちろいガキを連れて歩けるか。第一、あいつ、おれみたいなのは嫌いだそうだ」
ふっふっとガレスは笑った。
「あんたら、二人ともガキだよ。素直じゃないなあ」
「な、なんなんだよ」
 その日のうちに、キャラバンは街道をもう少し南下した。あたりのようすは、どうも落ち着かなかった。ひっきりなしに兵士が行き交い、あちこちで防護柵が作られて道が狭くなっているのだった。
「ローレシアじゃもう、よほどのことがないと町へ入れねえらしい」
「サマルトリアも兵隊がどっと増えて、ひっきりなしに見回りをやってるよ」
「リリザが危ないんだって?」
「さあ、町のほうが安全か、野山へ隠れたほうが安全か、わからないからな」
「どこか南の町じゃ、町の衆全員が地面の下へ隠れたらしいぜ」
「穴を掘ってか?おれなら山奥へ行くよ。なんでも、川をさかのぼってずっと歩かないと行かれない、すごく辺鄙な村があるって言うじゃないか」
「おれだったら、でっかい町だね。おっそろしいものが襲ってくるんだろう?何をしたってだめさ。それなら酔いつぶれているに限るよ。いい気持ちになっている間にあの世行きだ」
「てめえはただ飲みたいだけだろうが」
街道を歩く人々の話も、どこか殺伐としていた。
 やがて街道は分岐点に到達した。左、ローレシア。右、リリザ/サマルトリア。古い道標には、そう彫りこまれていた。
「今夜は、ここで野宿にしよう。明日にはロイさんがお別れだ。互いの健勝を祈って、いっぱい、いこう!」
おうっ、と声をあげて、キャラバンはキャンプのしたくを始めた。