きみとリリザで 0.プロローグ

 右手の甲が熱く燃え上がる。手綱をつかむための籠手なのだが、これはムーンブルグ王国でただ一人、戦場伝令使だけが使用する特別なものだった。
手の甲に浮かび上がるのは、翼を広げた霊鳥の紋章だった。真紅に輝く籠手の中央に、紋章は白熱していた。

「行けっ、戦場伝令使、おまえの役目を果たせ!」
「しかし、陛下」
「ここはもうだめだ。わが国が襲われたことを、彼に知らせなくてはならんのだ!いっときのためらいが致命的な遅延となる。急げ、走れ!」

 つかむべき手綱はすでにない。騒然となったムーンペタの町でこの籠手を見せて無理やりに替え馬を手に入れたのだが、ローラの門にいたる時点で馬はびっこをひきはじめた。かわいそうだったが、先を急ぐ身である。馬具だけをはずしてやり、モンスターどもに食われる前に町へ帰れるようにと馬の尻をたたいて追い返した。
 この籠手は魔力を含んだアイテムだった。使用者に強烈なトヘロスとトラマナの呪文がかかるのだ。戦場伝令使の役目上、どうしても必要だった。

「最も俊足なる者よ。汝にこの籠手をさずけ、戦場伝令使に任ずる。我がムーンブルグに急あれば、この籠手の力を借り、汝の使命を果たせ」
「謹んでお受けいたします」
「この籠手を身につける者は、襲い来る魔の手を潜り抜けることができる。だが汝は魔力を持たぬ人の子。ひとたびこの籠手を帯びしときは、己の命を消費して魔力に替えるものと心得よ」

 ローラの門を守る警備兵たちは、赤の地にスプレッドラーミアの紋章の籠手を見ると顔色を変え、すぐに通してくれたのだった。“何びとも、戦場伝令使の往来を妨げてはならない。”何百年も前の、ローレシア王アレフの定めた古法が今も守られていることに、戦場伝令使は半ば驚き、半ば納得した。サマルトリア領を通過してそのまま一気に南下する。 めざすは、ローレシア。
 サマルトリア周辺の森林を抜けるとこの大陸最大の平原が姿を現した。地平線のかなたが丸く見えるほど広大だった。ここを、自分は走破しなくてはならない。

「籠手がそなたの命を消費し尽くす前に、夜に日を次いで駆け、駆け、駆け通せ」

 炎の中に倒壊していくムーンブルグ城から脱出したとき、肩と胸にかなりの傷を負ったらしい。そのダメージが徐々に戦場伝令使の肉体を蝕んでいた。一歩足を進めるごとに、上半身の傷口を細かく切り刻まれるような痛みがあった。すでにぐしゃぐしゃになり、虫でもわいたのか、違和感がある。
 出発以来、一睡もしていない。腰の袋に下げた乾燥食糧は、走りながらかじっていたのだが、いつのまにか指をすり抜けてなくなっている。
 季節は夏だった。白日の光さえ、額の汗になって体力を消耗させてくる。手でぬぐおうとしたとき、自分の顔に触れた。ざりざりした感触は、のばしっぱなしのひげらしかった。
 疲労は極限に達していた。だが、足は無事だった。ならば、走り続けなくてはならない。胸の傷から出血がとまらない。伝令使はベルトをはずし、皮の鎧の残骸をかなぐり捨てた。少しだけ身が軽くなった。
 自分の後ろには、たぶんいろいろなものが列を作って点々と落ちているに違いない。伝令使は苦笑いをした。かまいはしない。自分には、二度と必要がなかった。
 先へ。さらに先へ。全身が駆り立てられていた。
 なだらかに隆起した丘の向こうに、やがてローレシア城が雄大な姿を現した。左手には原始の森林が見え、右手は海へと続くはずである。

「本来、急を告げるならば、伝書鳩を用いるなりのろしを上げるなりの方法がある。しかし、戦場伝令使は『大魔王問答』に予言された巨悪が世界を覆うときに限って発せられる、一世代に一度きりの急使なのだ。鳩は途中で捕らえられるかもしれぬ。のろしは届かぬかもしれぬ。人間の伝令使だけが頼みの綱だ」

 どこかの職人らしい男が、ぎょっとして飛びのいた。
「あんた、血だらけだよ」
 よろめきながら市街に入ると、ローレシアの市民たちが口々に何か言いながら集まってきた。
 町は清潔に整っていて道行く人々の顔色もよい。素朴だが大地の恵みをたっぷりと受けた町のようだった。人情に厚い国民性らしく、傷だらけの伝令使を見ると心配そうな顔で寄ってくる。それがかえって、あだとなった。
「すまん、通してくれ!」
「いや、だって、手当てをしないと」
「さあ、ちょっと、休みなさい」
戦場伝令使は必死で右手を振り回した。
「これが見えないのか!頼む、通してくれ、王様のところへ行かなくてはならないんだ!」
人々を振り切って進んでいくと、城の正門へ至るなだらかな坂道となった。気持ちは火のように逸っていても、千斤の重りをつけたような足では、とぼとぼとその道をあがっていくしかない。はね橋はおりていて、商人たちの荷車や甲冑の兵士たちが大勢出入りしているのが見えた。
「戦場伝令使だ、王は、おいでかっ」
大声で叫んだつもりだが、情けないようなかすれ声しかでなかった。
 誰かが、腕をつかんだ。
「なんと、戦場伝令使とは!この年まで生きてきたが、初めてお目にかかる」
野太い、武人の声だった。
「肩を貸してさしあげよう。王は謁見の間においでのはずだ」
伝令使は、安堵のあまり気を失いかけた。自分自身の汗と鮮血の臭いが、むっと生臭く鼻に突き上げてきて、吐き気を感じた。
「かたじけない」
伝令使は、力の入らない足を無理やり張って、また歩き始めた。やはり上体が泳いだ。
「殿下、そちら側を支えてくだされ」
武人がそういうと、もっと若い男の声が、ああ、と言い、反対側の肩が力強い腕に支えられた。
「さあ、急がれよ!」

「このムーンブルグのほか、ラダトーム、サマルトリアに一人づつ、戦場伝令使が置かれる。ローレシアに戦場伝令使がいないのは、自明の理」

 ごつごつとした石造りの城は、いかにも質実剛健だった。狭間胸壁が守る中庭には、身なりのよい騎士や、着飾った貴婦人がさざめいていた。
「きゃあ」
婦人たちは悲鳴を上げて、かたまった。
「おい、他国の兵士を勝手に連れ込んでは」
騎士の一人が居丈高に寄ってきた。
「だまらっしゃいっ!」
最初の武人は一喝した。
「戦場伝令使のお越しじゃ。そんなところでぐずぐずしている暇があったら、陛下にそうお伝えくだされ」
「よくもそのようなクチを」
だが、武人はその騎士を無視して通り過ぎた。
 もう、目の前がよく見えない。騎士も貴婦人も、ぼんやりと動く色のついた影だった。やがてあたりが暗くなり、室内に入ったとわかった。細工模様の美しい床を、引きずられるようにして歩いていく。視界の片隅だけが、ぼんやりと明るかった。あたりから非難をこめた悲鳴やささやきが沸き起こった。
「陛下、陛下はいずれに!ムーンブルグの戦場伝令使ですぞ!」
武人がそう呼ばわっているのが聞こえたが、足元がぐらついて、くずおれてしまった。
「おい、大丈夫か」
若い方の男の声が、そう言って、肩を支えた。
 右手の甲が燃え上がる。
 そのとき、衣擦れの音がした。
「わしがローレシア王だ」
 かすむ目を見開いた。ひげを蓄えた、身分の高い壮年の男性が、目の前にかがみこんでいるようだった。
「国王陛下に申し上げます」
 しばらく、息を整えなくてはならなかった。
「わがムーンブルグは、大神官ハーゴン率いる軍勢に攻め滅ぼされました。なにとぞ、勇者を、お遣わし、くださいますよう、お願いいたします」
そろそろ限界だった。
 それに、使命は果たされたのである。魔力を持った籠手の力も、やはり限界に来たようだった。かろうじて籠手がひきとめていた命が、体から失われていくのがわかった。

「戦場伝令使よ。命の尽きる前に、走って、走って、勇者に急を知らせよ。そして勇者をして世界を救わしめよ」

「おい、あんた、しっかりしろ!」
伝令使は、襲ってきた寒気にふるえながら、籠手をはずした。
「お若い方、これを、陛下に」
剣の握りだこのある手のひらが、籠手を受け取った。
 とつぜん、紋章は白熱した。その光の中に伝令使は、自分を支えてくれていた若者の顔を見た。黒髪の、やや日焼けした、まだほんの少年。だが、強い意志を湛えた、大きな瞳の持ち主だった。
「あなただったのか」
我知らず、口元に笑いが浮かんだ。
「戦場伝令使は、役目を果たしました」
不思議な満足感に包まれて、戦場伝令使は目を閉じた。