犬と鏡とムーンペタ 8.鏡と王女

 ロイは、叫びながら走っていた。
「どけ、どけ、どけ~」
ブチは、時々振り返りながら、必死で走っていく。
「そいつを逃がすなっ」
ロイが叫ぶと、広場を巡回していたコペルス配下の兵士たちが一緒にブチを追いかけてくれた。
「あの路地へ追い込め!」
「はっ」
 大勢の兵士たちにブチは追い立てられ、袋小路へ追い詰められた。
「どうだ。だてにここ数日、歩き回っていたわけじゃない。逃げ道はないぞ?」
三方が石壁の、まさに袋小路だった。ロイを先頭に大勢の兵士たちが出口を固めている。ブチは体を低くし犬歯をむきだしてうなっていた。
袋の紐を緩め鏡を取り出そうとしたとき、サリューの声がした。
「待って!」
「やっと来たか」
サリューは広場を突っ切ってくるところだった。
「待って、ロイ、だめだよ」
「何が?」
円形の鏡が姿をあらわした。
 ごめんなさい、どいて、と言いながら、サリューが兵士たちをかきわけてくる。
「ブチはその鏡がどんなものだか、知ってる!最初に会ったとき逃げたのは、鏡の反射なんかじゃない、鏡そのもののせいなんだ」
「じゃ、本物の王女だってことじゃないか。王家の生き残りは彼女だけなんだから」
ロイは鏡を裏向きに持ち上げた。
「だから、だから……そうだ!」
サリューは両肩の留め金をはずし、オレンジ色のマントをむしるように脱いだ。それを両手に持つと、兵士の列をぬけて、ロイと並んだ。ブチはぎりぎりまで下がり尻尾を壁に押し付けるようにしている。
「ようし、そこまでだ」
 ロイが鏡を持ち上げた。
 ブチが苦しげに鳴いた。
 だが、そのとき。
「大丈夫です、姫、ほらっ!」
サリューがそう叫んで、マントを目の前に大きく広げた。
 ブチが動いた。いきなり袋小路の端から、鏡に向かってくる。その鏡面に、黒白ブチの犬がうつり、ふっとぼやけた。次の瞬間、世にも美しい少女の顔が鏡の表面に浮かび上がった。
 突如、ぴしり、と音がした。鏡にひびが入ったのだった。亀裂はみるみるうちに四方へ広がっていく。ロイの手の中で金属的な音をたててラーの鏡は砕け散った。
 鏡の破片がふりそそぐ。そのあとに残るのは光の洪水だった。一瞬、その光がオレンジ色に輝いた。サリューが走りより、光の塊のようなものに自分のマントをかぶせているのだった。
 かたまりは、ゆっくりとふくらみ、大きくなっていった。同時にまぶしさが少しづつひいていく。
 ロイは地面に尻をつけてすわりこんでいた。ぱっかりと口を開け、ただ見ていることしかできなかった。背後で兵士たちがざわめいている。
「ああ、元の姿に戻れるなんて」
その声は、オレンジ色のマントの下から聞こえた。ふわりとこぼれる、黄金の滝のようなものは、あれは少女の長い巻き毛。
「もうずっとあのままかと思いましたわ」
マントを着たかたまりは、ゆっくりと地面から立ち上がる。その地を踏みしめるのは、作り物のようにかわいらしい、一対の、足。その上に並ぶ桜貝のようなものは、少女の足指の爪。
「私はムーンブルグの王の娘、アマランス」
マントをかき寄せる、長い指。合せ目からのぞくのは、絹のような素肌。きゃしゃな鎖骨。布一枚が描き出す、微妙な曲線。
「あなた、どこを見ていらっしゃるの?」
いっ、とロイは息を飲み込んだ。名匠の彫り上げた珊瑚の唇が、動くのだ。燃えるような紅の瞳が、ロイを見据えていた。
 ロイの目の前に、血の通う、生身の体を持った女神が立っていた。
「おてんばですって?はねかえりですって?いろいろとやってくださったわね。あとでゆっくりお話いたしましょう」
「おれがなにを」
やった、と言おうとして、ロイは絶句した。もしかしておれは、人前で彼女を裸にしようとしていたわけか?
後ろのざわめきがひときわ大きくなった。コペルス将軍の声がした。
「アマランス様!」
「まあ、じい」
「よく、ご無事で、よく、生きて」
将軍は、涙ぐんでいた。
「城が燃えてから、よくムーンペタでがんばってくれました。礼を言います」
「なにをおっしゃいます。おお、裸足とはおいたわしい。どれ、じいが」
抱き上げようとするのを王女は、片手をわずかに動かすだけで制した。
「私は、自分の民の前に出るときは、自分の足で歩きたいと思います」
王女は裸の体に、マント一枚と生まれついての威厳をまとって広場の方へ歩き出した。サリューが声をかけた。
「王女様」
アマランスはふりむいて、微笑を浮かべた。
「このマント、どうもありがとう」
「ううん、呪いが解けるって、こういうことなんだ。誰だって嫌だよ、まして、女の子だものね。気づかないで、ごめんなさい。いろいろとご無礼をお許しください」
「どういたしまして。あのごろつきどもを退治してくださったこと、本当に感謝しています。うれしいわ」
やばい、やばい、やばい、と心の中でロイはくりかえしていた。顔中に冷や汗が流れる。“やばい”以外のことを、どうしても考えられない。が、アマランスの言うのを聞いたとき、ロイはぎょっとした。
「一緒に旅をする人が、あなたのような紳士で」
「なんだと!」
ロイは思わず立ち上がった。
アマランスは肩越しにふりむいた。
「ああ、あなたも、礼儀をわきまえるなら、わたくしの仲間にしてさし上げます。ともに戦いましょう!」

 のちに、ロンダルキアの脅威から世界が解放されてから久しく時がたっても、ムーンペタの人々は、ローレシアから来た旅人のことを忘れなかった。
 かなり長い間、ローレシアを訪れるムーンブルグ人が最初に聞くのは、「この国ではまだ生類憐みの令が出ているのですか?」という質問だった。
 あるとき、ムーンブルグの大使がローレシア王宮を訪れて同じことを国王に聞いたとき、王は軽く咳払いをして、こう説明したと言う。
「さきごろ改正案が通って“生類憐みの令”は解除されたが、ローレシア人は、そもそも動物には限りない愛情をそそぐ民なのだ、言うまでもなく」