デルコンダルの黒い旗 7.神父デニス

「不吉というと?」
「召還術というものがある。エルシノは何かを呼び出そうとしているようだった。だからあの男が呪文を唱え円形闘技場の中央に魔力の渦ができたとき、わたしはぞっとした」
「目に見えるほどの渦ができたのですか?」
「そうだ。わたしにもわかるほどのものすごい魔力で、足がすくんだほどだった。その渦が消えて、あの、“象徴の獣“がでてきた。わたしはつい悲鳴をあげた。王もエルシノもふりむいた。同じ悲鳴を聞きつけて、ドルクスが走ってきた。ドルクスは何とか一撃を与えたのだが、倒すにはいたらなかった」
デニス神父は、うつむいた。
「それから、どうなったんだ」
「王宮の戦士たちがかけつけたが、王は逆にドルクスを逮捕させた。わたしは騒ぎに乗じて逃げたが、追っ手がかかった」
デニス神父は、はっきりした口調で言った。
「聞いてくれ。あのときエルシノは、“この獣を養うには、三日に一度、病にかかった者を食らわせなくてはなりません”と王に言ったのだ」
ロイは思わず叫んだ。
「承知したのか、王は!」
「さすがに渋っておられた。獣にはうっとりとしておられたが、“わが国には病にかかった者など、それほどはいない”と言って抗われた。するとエルシノはにやにやしたのだ。“ご心配には及びません”と言ってな」
デニス神父は唇を噛んだ。
「あの男は僧衣の袖口から一匹のネズミをつかみ出した。赤い目の、大きなネズミだ。そいつを床へおろして命令した。“行け、この町を病で覆え”と」
「それでは、このデルコンダルの病はエルシノがつくりだしたものだった、と?」
デニス神父はうなずいた。
「わたしは王宮を逃げ出してからしばらくの間、町に潜んでいた。見る見るうちにネズミが増え、やがて人々の顔に黒いしみが出始めて、そして、死が始まった!」
神父はロイたち三人の顔をひとつひとつ見回した。
「この町を助けてくれ、聖霊の御使いたち!エルシノとあの獣は、デルコンダルを己の領土にするつもりだ。この美しい島を彼らから取り返してくれ」
「わかった。なんとか工夫もできた。きっとおれたちがやる」
デニス神父は、安心したように微笑み、鐘楼の柱にもたれかかった。矢傷を負って長く話すのはつらいのか、ぐったりしていた。
「おれのほうから、悪い知らせがある。あんたの友達の、戦士ドルクスのことだ。おれに、獣との戦い方を教えれくれたのだが、おれは、そのとき」
ロイは言葉を捜して迷った。
「つまり……」
「待って!」
いきなりサリューが叫んだ。一歩、デニス神父に近寄り、そっとその背後に回った。
「見て」
ロイとアムは、サリューの指が示すものを見て首をかしげた。
「綱?」
「神父様?」
「身体を柱に縛り付けてるんだ」
サリューは静かに言い、神父の頭部を両手でささえてそっともちあげた。青い帽子が転げ落ちる。
 神父の顔は、死者のそれだった。
「まさか!」
「だって、今まで!」
ようやく三人は強い死臭を意識した。神父は、自分の身体を教会の鐘を鳴らすための綱で柱に結び付けていた。強い風が吹くと、神父の体が綱をひいて、音を立てる。
「この状態だと……亡くなってから、ずいぶんたつんだわ」
「死んでからも、町を見守ってたのか」
町をかじり尽くすほどいるネズミが、不思議にも鐘楼にはまったくいなかった。神父の遺体は、どこも食われていない。三人は立ち尽くした。
「この人は、なんでこんなことをしたの?」
珍しく、取り乱した声でサリューはつぶやいた。
「病に覆われた町に、あとから救いがきても、誰も喜ばないよ。それなのに、なぜ、あなたは」
「それでも祈らずにはいられなかったのよ」
アムの声が聞こえているのか、いないのか、サリューはデニス神父のなきがらの前から動かなかった。
 雨があがり、空は薄い明るさを取り戻した。西側の山脈の切れ目から遅い午後の光がデルコンダル平原に差し込む。その太陽光は、雨粒の一つ一つにあたって分解され、鐘楼の東側に七色のアーチを作り出した。
 サリューは、聖職のしるしである帽子をあらためて神父にかぶせ、神父の顔をデルコンダルの町に向けた。そうすると、華麗な虹が後光のように神父を取り巻いて見えた。

 三人がデルコンダルへ来てから、二度目の朝である。教会の外へ出ると、町は静まり返っていた。前の晩、三人は、寝袋を教会の床に置いて眠った。ここだけはネズミが入り込まないのだった。
「昨日の朝は、まだ人がいたのに」
デルコンダル城は黒々とそびえ立ち、やはり沈黙を守っていた。
「ぼくたち、間に合わなかったかもね」
「なにが?」
「神父が亡くなったのはだいぶ前。この病気はその前に始まっていた。今までが潜伏期間だったとしたら、それが終わって疫病が人々の体の中でどっと暴れ出すはずだよ。そうだとしたら、デルコンダルはもう……」
三人が歩くと、ネズミが数匹走り出て悪意のこもった赤い目で三人を見上げ、すばやく走り去った。
 ロイたちは一昨日と同じデルコンダルの市街を歩いた。家の扉に赤い十字のあるところが、増えたような気がする。壁にもたれてすわっていた病人は、今日はもう死人と化していた。
 赤い十字のない扉を押して、ロイは一軒の家に入った。
「すまない、誰かいるか?町が」
そこまで言いかけて、ロイは沈黙した。
 家の暖炉では、まだ薫り高いハーブが燃えてくすぶっている。だがその前にすわる主婦は、首を深くうつむけていた。その膝、頭、肩を、ネズミが駆け回っている。すでに彼女は亡くなっているようだった。
 部屋の隅には子供用のベッド。隣は大きな仕立て台と、針、糸、ハサミ。主人らしい仕立て屋の男が台の上にのしかかるようにして倒れている。
 死は、一晩でこの家を襲ったらしかった。生きた人間はいない。その代わり、大量の、ネズミ、ネズミ、ネズミ。
「出ましょう!」
アムはがまんできずに家の外に出てしまった。
「思ったとおりだ。症状がどっとでたんだよ」
「あたしたちのキアリーを使おうにも、もう、人が」
ロイはただ、うめくだけだった。
「そうだ、“月の港”は?ニナが生き残っているかもしれないわ」
「ああ、行ってみよう!」
昨日の朝出てきた宿への道を、ロイたちは走って戻った。その途中、一人でも生きた人間がいないかと目で探したが、無駄だった。デルコンダルは死者の町になろうとしていた。“エルシノとあの獣は、デルコンダルを己の領土にするつもりだ”。デニス神父の行った事を思い出して、ロイは寒気をおぼえた。
 “月の港”も、やはり沈黙していた。酒の臭いが強く残る店内は、薄暗く、静まり返り、転がっている死者で床が見えないほどだった。
「勇者、さん?」
か細い声で名を呼ばれて、ロイは立ち止まった。このあいだ店の主人のいたカウンターに一人の少女がもたれていた。
 最初はニナだとはわからなかった。真っ白に顔を塗り、赤い口紅とほほ紅で、遊び人のように化粧していたのである。
「ニナ、あなた」
ニナは笑いの形に塗った唇をゆがめ、手で顔をこすった。おしろいの下から黒いみみずばれが現れた。
「みんな、死んじゃった」
ニナはぐったりしていた。
「待ってて。もう一度キアリーをかけてみるから」
ニナは白塗りの顔で微笑んだ。
「もう、いいのよ」
「だめよ!」
「生きてたって、あたしだけじゃどうしょうもないわ。もともとあたし、お父さんもお母さんもいないの。これからもずっと一人なんて、やだ。早く向こうの世界へ行きたい」
アムは、こみ上げる涙をぬぐいもせず、こぶしを握り締めていた。
「ちょっと前までは育ててくれたおばあちゃんに、花嫁姿を見てもらうつもりだった。好きな人も、あたし、いたの。ああ……」
ニナは、天をあおいだ。
「デルコンダルは、きれいな町だったのよ。あたしのふるさと。この町が死んじゃうなんて、いや。アム、あなたたちが勇者なら、この町を、どうか、助けて。清めてあげて。お願い」
その言葉が、少女の最後となった。