デルコンダルの黒い旗 1.戸叩きの行列

 走りながら戸口全体に聖水をぶちまけ、追っ手がひるんだのを見て神父は戸口をしめきった。急いで鐘楼へと駆け上がる。
 気分はつらく、悲しかったが、迷いは一切なかった。この町が滅びの道を走っていくとしても、神父にはまだ世界に訴えかける手段が一つだけ残されているのだった。
 狭い階段を上りきって鐘楼へ出ると、強い風が顔にあたった。デルコンダルに高い建物は王宮を除けば今いる教会の鐘楼だけだった。神父は頭をめぐらして、眼下の大地を見ずにはいられなかった。
 デルコンダル。神父のふるさとであり、美しい土地である。
 高い岩の山脈はこの大きな島を取り囲み、豊穣の平野を守っている。中央を流れる川は澄んだ湖に注ぐ。その湖の港が、デルコンダル島唯一の出入り口だった。
 専用の綱をおろすと、神父は持参したものをくくりつけ、反対側を引いて高く上らせた。黒一色、模様のまったくない大きな旗がたちまち風をはらんでひるがえった。
「よし」
神父は微笑んだ。これで港に着く船からこの旗が見えるはずだった。
 突然、神父は肩を殴られたような衝撃をおぼえた。思わずすわりこんで首を向けると、矢が突き立っていた。追っ手は教会の庭へ下りて弓で攻撃してきたらしい。すさまじい痛みを神父はやっと意識した。
 足元にもう一本、矢が突き立った。神父は綱にすがって立ち上がり、鐘の陰へ避けた。
「偉大なる、聖霊ルビス……!」
傷を抑えた指の間から血があふれてとまらない。
「われら、力なき者の祈りをお聞きください。この町を浄め、世界をお救いください。さもなければ破壊神の降臨を待たずしてこの世は」
神父は空を振り仰いだ。
「滅びるでありましょう」

 西の山脈に太陽が落ちかかる頃堅く閉ざされた王宮の扉が開き、“戸叩き”の行列を吐き出した。
 露払いをつとめるのは灰色の服を着た王宮の役人たち。みな、手の中に匂い玉をもち、ときどき鼻にあてがっている。毒の沼地でも歩いているかのような不快な表情と激しい恐怖がない交ぜになった顔をしていた。
 すぐ後ろには、黒い頭巾とマントで全身をおおった僧侶らしき人物。
 そして彼の背後から、巨大な獣がゆったりと歩みをすすめていた。
「王様の、ペットだってよ」
 猫族らしく音も立てずに歩くが、その巨体は小さな家ほどもある。黒の地に朱色のしまの毛皮は恐るべき筋肉を秘め隠していた。虎に似た顔は獰猛そのものだったが、眼光は炯炯と燃え獣にはあるまじき知性を感じさせた。
 申し訳程度に首に革の輪を巻きそこからおもちゃのような鎖が伸びているが、誰もその先を握る者はいない。しんがりを務める王宮戦士たちさえ、距離を置き、顔をこわばらせていた。
 まるで彼らの緊張をあざ笑うかのように、ネズミが数匹わいて出た。平気な顔で役人や戦士の前を横切り、あまつさえ大猫の足の間をちょろちょろする。
 デルコンダルの市民はみな、王の命令により、自宅の前に立ってこの“戸叩き”の行列を待った。どの顔もひきつり、中にはあからさまな恐怖の表情を浮かべている者もいた。行列は裕福な貴族の屋敷の前にも、貧しい者のあばら家にも、等しく立ち止まった。
「家族全員、いるか」
事務的に役人が訪ねる。一家の主が小声で述べた。
「妻と私と子供たちは息災でございます。が、妻の父が」
「病か」
「まだ、黒いしみはできていません!」
役人は頭を振って石版に何か書き付けた。
「病だな」
有無を言わせない冷酷さで石筆を走らせると、行列は次の家にうつった。が、その家の前には、誰もいなかった。
 黒い頭巾の僧が、無言で役人の方を向く。
「7日前、発病した者がいました」
「戸を叩け」
役人は、その粗末な家の木の扉を、ゆっくりと三度たたいた。隣家の主人と妻、そして、街路に出ていた市民が、かたずを飲んでみまもった。
 返事はなかった。
「死に絶えたか」
黒の僧は冷静に言った。
「病の者は助からぬ。餓死も病死も、同じことだ。塞げ」
デルコンダルの人々はうそ寒いような表情で、家族全員が死に絶えた家を見守った。
 役人たちは、もし感染者がまだ生きていても出てこられないように、機械的に扉を釘で打ちつけて、顔料で扉に赤々と巨大な十字の印をつけた。
 自分の家が同じ目にあうのは、来月か、十日の後か、あるいは明日か。黒の僧と視線を合わせる者はいなかった。
「次」
役人がそう言ったときだった。黒い獣が足をとめ、喉を鳴らした。
「む。調べよ」
僧の命を受けて、役人たちがその隣の家へ踏み込んだ。
「助けてくれっ」
役人たちの手で引きずり出されたのは、裕福な身なりの初老の男だった。
「勘弁してくれ、金ならいくらでもやるぞ」
役人はもとより市民さえ、その男に憎憎しげな視線を浴びせた。
「自分だけ助かろうってのかい」
「この町がこんなだってのに。わがままな」
黒の僧の前に引き出され、男は震え上がった。
「おまえは王宮へ出頭するように言われたはずだ。なぜ、逃げた」
「お許しください、どうか、どうか!」
「デルコンダルの病を払うには、誰かがこの“象徴の獣”と戦って勝たねばならない、というお告げがあったのだ。知らぬことはなかろう」
「存じております、ええ、存じておりますが、わたしなんてそんな強そうなのと戦っても勝てるわけがないじゃございませんか!」
「強いか弱いかは、知るところではない。そなたはわが身かわいさに王宮へ来なかった。罪は命をもって償え」
男は悲鳴を上げた。だが役人たちが縄を持って進み出て、すぐに男を捕らえて引きずっていった。
「また、縛り首か」
市民たちは、ささやきあった。
「そんなことより、あいつが“いけにえ”から逃げようとして死刑になるなら、“いけにえ”役がいなくなったわけじゃないか。今度は、誰だ?」
市民たちは口をつぐみ、身をかたくし、うつむいて戸叩きの行列の通り過ぎるのを待った。“象徴の獣”が彼らの前をゆっくり吟味して通っていく。熱く生臭い息が顔にかかるまで近寄るのだが、市民はただ目立つまいと、その場に凍り付いてふるえていた。
「そなた」
ついに僧が口を開いた。
「名は」
僧が話し掛けたのは、小さな家の前に立つ若い男だった。すぐそばで新妻らしい女が赤子を抱いて、立ち尽くしている。
 声も出せない男の代わりに役人が名簿を調べて告げた。
「酒場の楽士で、ギリアムという男です」
「待ってください」
ようやくギリアムが叫んだ。
「否やは言わせぬ。市民の務めである」
「おれにはできません!おれはただの楽士で、歌い手の女房と組んでるんで。なんで、おれが」
「これは勅命である。万一逃亡を企てれば一家全員絞首と知れ」
「そんなのってあるか!」
「そなたのせいでこの町が滅ぶかもしれないのだぞ」
ギリアムは、絶望的な目で周囲を見回した。デルコンダル市民の異様な視線が彼を取り囲んだ。
「おまえさえ“いけにえ”になれば、あたしたちは救われるかもしれないのに」
「おまえのわがままのせいで」
「早く“いけにえ”になって、とっとと死んでしまいな」
「何だってそんな目で見るんだよ。おまえに決まったんだから、しかたないだろう。恨むなら運命をうらみな」
ギリアムは一歩後ずさった。妻の手を引くといきなり走り出そうとした。
「捕らえよ!」
役人たちが追いすがった。市民は壁を作って若い夫婦を逃がすまいと取り囲んだ。夫婦が立ち往生したところへ、役人たちが棍棒をふりあげて迫った。
「きさま、よくも」
そのときだった。空気が燃え上がった。
「よせよ、赤ん坊もいるんだぞ」
唖然として市民は、物言う大気を見上げた。
 消え行く日没よりまぶしい輝きの中から、三つの人影が現れた。
 一人は青い服に大きな剣を帯びた若者。もう一人は緑の祭服の少年、そして白い服に赤い頭巾の少女だった。
 三人は“いけにえ”に選ばれた男の一家をかばうように立ちはだかり、黒い頭巾の僧と向かい合った。
 黒い頭巾の下から、赤い目が三人を見据えた。
「どこから来た!」
青の若者が答えた。
「聖霊によって、この地へ導かれた。この町におれたちを必要とする人物がいるはずだ」
僧の後ろからのっそりと象徴の獣が姿をあらわした。恐ろしく人間的な、まるであざけるような目つきで突然現れた若者たちを獣は眺めた。舌なめずりをせんばかりの表情だった。