デルコンダルの黒い旗 10.人の子の戦い

 “象徴の獣”は、獲物がやってきたのを知って、舌なめずりをした。
 エルシノ、と名乗らせていた彼の分身は粉々に砕けたらしい。エルシノを形作っていたものたちが、彼のもとへ走りこんできた。
「ほう、エルシノを消すとはな。なかなか、うまそうな獲物だ」
獣はつぶやいた。身を起こし、人間たちが与えたねぐらから闘技場へとすべりでた。
 デルコンダルは美味しい町だった。彼が覚えている限り、これほど短期間に、これほどたくさん上等の獲物にありついたのは初めてだった。思い出しただけで、よだれが出てくる。
 だが、今まで領土にしてきたいくつかの町と同じく、獣がしゃぶりつくすと町は滅びてしまう。そうなったらまた別の町を探さなくてはならないのだ。
 外へ、行きたい。ルビスとかいう女が手中に握っている、広大な“外”をすべて領土にしたいのだ。そしてたらふく獲物を食らう。すべてを滅ぼして、また次を探す。
「“外”の次は、“上”だ」
 ふるえるような喜びを感じて獣は闘技場の中心へ歩を進めた。やってくる人影は三つ。中央の一人(あれは“ロイ”だ、と彼は考えた)が立ち止まった。大きな剣を抜き放ち、切っ先を彼に向け、言い放った。
「我ら、聖霊ルビスの代戦士。疫霊よ、このデルコンダルの地をかけて、勝負を申し込む!」
 なんと、うまそうな……思わず喉が鳴った。目の前の美しい魂を噛み砕く瞬間を思うと、ぞくぞくする。
 ロイを真ん中に、あとの二人が左右後方へ散開した。赤が“アム”、緑が“サリュー”……獣は舌なめずりをした。
 彼らの名前は最初の日に聞いて知っていた。そしてこの赤と緑は、獣が前足を振り上げて一度殴りつければ、ほとんどすべてのHPを奪うことができる。なんとも、人の子はもろい。獣は侮りを感じた。
 町に無数にいるネズミはすべて、獣の目であり、耳であった。ロイだけは攻撃力もHPも高い。一撃で倒すにはカウンターを仕掛けたいのだが、獣は、ロイがドルクスから話を聞いたことを知っていた。ならば、最初は身を守るはず。
 よろしい、と獣は考えた。では、攻撃してくるのは誰だ?魔法使いなら後衛から呪文を唱えるだろう。ならば、おそらくは、サリュー。
 闘技場に敷き詰められたおがくずを獣は前足で蹴りあげた。先手必勝!ひと飛びで間合いを詰め、獣は緑の少年に襲い掛かった。その瞬間、獣はわき腹をえぐられるのを感じた。
「ギャッ」
怒り心頭に発してふりむくと、身を守っているはずのロイが攻撃しているではないか。獣は前足を大きく振り上げ、ロイを殴りつけた。
 ロイは一撃でふっとび、おがくずの上に転がってうめいた。
 獣は自分のミスを悟った。カウンターを仕掛けなかったので、ロイのダメージが小さい。一撃で死にはしなかったのだ。
 獣は舌打ちをした。ロイに向かい、もう一度前足を振り上げとどめをさそうとした。わき腹の傷がさらに引き裂かれるのを感じたのは、そのときだった。
 あわててそちらを向くと、アムの真空の刃がまさにあたった瞬間だった。輪切りにされるかと思うほどのすさまじい痛みが、胴を横断していく。
 獣は吼えた。怒りで血管がふくらんでいく。後方にいたアムに向かって、腹立ち紛れに前足を伸ばした。鮮血が飛び散る。距離はあったが、爪の先が彼女を引っ掛けたらしい。息も絶え絶えになって魔法使いはうずくまった。
「アム!」
回復魔法の明るい光が彼女めがけて放たれた。サリューに違いない。獣は後ろ足で狙いを定め、一気に蹴り上げた。サリューが闘技場の壁に激突して小さく悲鳴をあげた。
 まだ生きている。アムが、ふらふらの状態で、手を伸ばしていた。ベホイミの輝きがサリューを覆っていく。
 獣は、巨大な頭を軽くふった。ついこのあいだまでは、この闘技場もデルコンダル王をはじめ、高貴な客たちが席を埋めていたものだった。いけにえに選ばれた市民が殴り飛ばされでもしたら、やんやの喝采だったのだが。死は貴賎をとわず、平等に人を襲う。デルコンダル王は、そんなことにも気づかない、無邪気な愚か者だった。
 獣は無人の闘技場の中を、ゆったりとロイに向かって歩を進めた。いまやロイはHPひとけたである。アムとサリューは互いに回復しあっているので、ロイはもう、回復の手段がないのだった。血祭りの筆頭を、獣はロイに決めた。リーダーを失ったパーティなど、赤子の手をひねるに等しい。
 ロイはおがくずの上に片膝をつき、こわばった表情で獣を見上げていた。額に汗を生じているのが見えた。終わりだ。獣は歓喜にふるえながら、前足を振り下ろした。手ごたえあった。
 次の瞬間、獣は、たじろいだ。
 ロイは、獣の攻撃をしのいでいた。不敵な目つきで獣を見上げ、剣を、いや、盾をかまえている。
 中央に青い魔石をはめこんだ円形の盾だった。“力の盾”である。こいつが、ローレシアの王子が、自力で回復するとは。
 獣は、かっとなった。しゃらくさい、小細工……!獣は、二度、三度、攻撃した。が、ロイは倒れなかった。
 怒り狂った獣の視界の隅に、サリューがいた。まだ闘技場の壁にもたれたままだったが、目を見開き、会心の笑みを浮かべていた。呪文を連発したらしく、肩で息をしている。呪文?スクルトに決まっていた。
「今度は、こっちの番だ!行くぞ、サマ」
「まかせて」
すかさず、アムがベホマをかける。
 先ほどの、ずきずきと痛んで獣の体力を奪っていく傷に向かってサリューが。
正面からロイが。
 獣はうろたえた。それは、屈辱だった。獣は怒り、吼え、そして、はじめて、人の子におびえた。

 闘技場の中央に、“象徴の獣”が、横たわっていた。ロイは、眉間に深く、自分の剣を刺し通した。
「これで、とどめだ」
 獣はひくひくとふるえ、空気が欲しいかのように大口を広げた。ぜいぜいとうめき、それからゆっくりと力が抜けていった。
 完全に動かなくなるまで、ロイは剣を握る手を抑え続けた。
「ロイ」
うしろからサリューが声をかけた。
「そいつは、逝ったよ」
ロイは息を吐き出した。
 三人は、ぼろぼろだった。アムは杖にすがってやっと立っている。MPは尽きる寸前だった。サリューのきゃしゃな剣は、ついに折れてしまっていた。
「サマ、MP、どうだ?」
「大丈夫。一回分あればいいんだから」
「よし、行くか。最後の仕上げだ」
三人は足を引きずるようにして歩き出した。

 早朝の決闘から数時間がたっていた。昼下がりのデルコンダルは、ひと月あまりの地獄図から解放されて、静かで巨大な墓穴と化していた。その墓穴の底から見える空は、久しぶりに青く晴れ渡っている。
 不思議なことに、あれほどたくさんいたネズミたちが、一匹残らず姿を消していた。
 準備を整えてから、三人は教会の前に集まった。
「じゃ、やるね?」
二人はうなずいた。サリューは片手をあげた。
「聖霊ルビスよ、ぼくたちはあなたの命令によって、デルコンダルを世界から切り離します。聖霊の慈悲があるのなら、どうか、お示しください」
 サリューは静かに詠唱を始めた。デルコンダルに哀悼の意を示すために、ロイとアムは、それぞれ剣と杖をかかげ、満身創痍のまま回復もとらず、姿勢を正している。
サリューは長く息を吐いて、目を見開いた。
「ベギラマ」
 その瞬間、炎が町を走った。三人の立っている教会を中心に、四方八方へ火が燃え移っていく。
 大通りを走りぬけ、家々をなめつくし、石造りの城の大きく開いた門から内部へ入って、闘技場へ。そこには、あらかじめ燃えやすいものを大量に積み上げてある。一番上にあるのは、あの獣の死骸だった。火葬の炎が城を焦がし、やがて階上の窓という窓から吹き上がった。
 町もまた、火焔の中に沈もうとしていた。炎は油を撒いた石畳の上で燃え上がり、処刑台や行き倒れを飲み込んでいく。あちこちで家が火に包まれ、死せる住人たちごと、轟音を上げて倒壊していった。
 教会にも火が移った。鐘楼が煙突代わりになり、炎は天を焦がす勢いで燃えている。ロイはあの黒い旗が炎にあぶられるのをぼんやりと見ていた。
「不思議だ……熱くない」
「ええ」
まるで三人の周りを、伝説の呪文フバーハが守っているかのようだった。