あやかしのザハン 2.魔物と王子

 墓地のある丘から降りてくると、道ばたに十数人の、どことなく不安そうな顔の人々がかたまっていた。その中から小太りの老女が転げるように出てきた。
「ひ、姫様、よく御無事で……」
「ばあや、ばあやなの?」
アムの乳母は、おいおいと泣き出してしまった。
 ロイはどうしていいかわからなくて困っていた。アムは乳母の手を握って話を聞いてやり一生懸命慰めている。
 ロイの横でサリューがつぶやいた。
「ちょっと口をはさめないね」
「おれ、苦手だよ、こういうの」
アムが振り向いた。
「ロイ、頼みがあるんだけど」
「あ、なんだ?」
「この人たち、ムーンブルグの者なの」
魔物の襲撃に遭って壊滅したムーンブルグの国民は半数がムーンペタを中心とするあたりにとどまっているが、ツテをたどって外国へ逃れた者も多かった。
「村ひとつ、いっしょに逃げてきたそうなんだけど、船の都合で同行の半分がデルコンダルへ行ったのに、次の船が迎えにこないんですって」
ムーンブルグの難民たちは顔色が悪く身なりもぱっとしなかった。どの顔にも切実な表情が浮かんでいる。ばあやと呼ばれた婦人は涙をぬぐった。
「しかたありませんのです。先へ行った者たちも、きっと船の手配に難儀しているのでしょう。でも、待てど暮らせどお迎えがなく、島の皆さんの御厄介になるにしても、もう限界が」
と言ってまたさめざめと泣いた。
 アムは真剣な表情だった。
「ここの近くのほこらから、ローレシアへつながっているんでしょう?ムーンブルグの難民を、ローレシアで預かってくださらないかしら」
ロイは手のひらを外側へ向けて、誓いを立てるように肩の高さへ上げた。
「確かに承知した」
ばあやは、姫とロイを見比べた。
「こちら様は」
アムはちょっと赤面した。
「あの、私の親戚です」
うふっとサリューが笑った。
「お女中、こちらはローレシアのお世継ぎ、ロイアル殿下。大丈夫、たいへん義に厚いお人です。みなさんをムーンブルグ再興の時まで、きちんと面倒を見てくださいますよ」
おれはそこまで言ってないんだが、とロイは思った。
「まあ、そんな、あら」
ばあやは涙でぐしゃぐしゃの顔を、また笑いで崩した。
「いつのまにやら、姫様、まあ、隅に置けないこと……」
「誤解しないでちょうだい」
憤然とアムは言った。
 結局、乳母をはじめとする難民たちは、荷物をまとめる必要もあって明日出発することになった。
「みなの者がお礼申し上げたいそうで」
ばあやが言った苦手なロイは一生懸命断った。
「おれはいいから、アム、ばあやさんとムーンブルグの人たちにつきあってやれよ」
「そうね。みんなを元気付けるのも私のつとめだわ。ばあや、住んでいるところを見せてね」
「むさくるしいところですが、どうぞ。姫様からお言葉をいただければ、みな喜びましょう」
アムは難民たちに囲まれて少し歩き、それから振り返った。
「ロイ、ありがとう。本当に」
「気にするな。遅くなるようなら、ばあやさんに添い寝してもらえよ。おれたちは宿にいる」
思わず見とれるような、艶やかな微笑を返して、アムは歩いていった。
 道端で、白っぽい毛の子犬がじっと見守っていた。

 マアクスの目の前で女が離れていった。カモメからこの子犬に乗りうつって、じっとチャンスを待っていたかいがあった。残るは二人。一人になったところを狙えばよい。
 どちらかといえば、ロイと呼ばれた体格の良い強そうな方の若者を欲しい、とマアクスは思っていた。あとから残りの二人を片付けるにしても、抵抗は少ないほどよい。
 それにサマと呼ばれている方の若者はなんとなく気に入らなかった。彼の容姿に見覚えがある。何かいやな思い出に結びついている気がするが、思い出せなかった。
 子犬の体に入ったマアクスは若者たちの後をつけた。
「ねえ、タシスンの奥さんのくちぶりだと、金の鍵をそれほど貴重なものだと思ってなかったみたいだね」
「まあな」
「どうでもいいものなら肌身離さず身につけたりするかな?」
「おい、サマ、何を考えてんだ?」
「金の鍵はタシスンといっしょに海の底に沈んではいないかもしれないよ」
「となると、どこにある?」
「タシスンの知り合いに聞いてまわってみたら?誰か金の鍵をもらったか、預かったかした人がいるかもしれない」
「知り合いか。この村じゃ全員、てことになりそうだ。二手に分かれて聞き込みと行くか」
二人の若者は、道の分れ目まで歩いてきた。
「ぼく、あっちへ行ってみるよ」
「じゃあ、おれはこっちにする。なんだかひと雨来そうだな。適当なところで宿へ帰ることにしよう。村の酒場で話を集める手もある」
島で一軒きりの宿屋は、島民の集会場兼酒場でもあった。
「うん、わかった」
「じゃ」
 マアクスは迷った。目をつけていたのはロイだったが、ロイは村の中の人通りの多いほうへ歩いていく。が、サマが歩いていく道の先は、マアクスの本体がとらわれているザハンの封印神殿で、人は少ない。
 マアクスは心を決めてサマのあとを追った。道はすぐに村をはずれ、ゆるい坂道となって森の中へ続いている。
「おひきかえしあそばせ!」
道の先の方から、封印神殿の巫女の厳しい声が聞こえた。居丈高に神殿の正面に立ちはだかって、サマをにらみ据えている。
「神殿を荒らすものには、災いが降りかかりましょうぞ」
「荒らすなんて。ぼくは金の鍵を探しているだけです」
「この神殿の中には、古の災いが封印されております。君子は危うきに近寄らずとか」
初老の巫女はにべもなく言った。
「尼御前」
サマは流れるようなしぐさで神殿の柱を指差した。
「柱の上に彫られているのは、初代ローレシア王の大紋章とお見受けします。ぼくはその傍系の末裔です。怪しいものではありません。せめて、タシスンという人がこちらへ来たことがあるかだけでも教えてください」
巫女の表情は変わらなかった。
「たとえ王族といえど封印神殿に入ることはあいなりません。金の鍵もタシスンとやらもこの神殿では見たことも聞いたこともありません」
そう言い捨てて巫女はきびすを返し、神殿の中へ入っていった。
 サマはかるく肩をすくめた。足元にまとわりつく草を踏んで神殿の外壁を回っていく。
「なんにもないなあ」
サマは一人だった。マアクスはわざと、がさがさと音を立てて近寄っていった。
「あれ?」
サマは振り向いて、マアクスの宿主である子犬を見つけ、かがみこんで片手を差し出した。
「どうしたの。おまえ、迷子かい?」
何の疑いも持たない無邪気な顔だった。マアクスは正面に立って至近距離から彼の目を見上げた。
「おまえがシロ?」
サマは口をつぐんだ。マアクスの見えない手は彼の魂のありかを探り当て、確かに捉えていた。
 マアクスは一歩近寄った。もうサマはかがみこんだ姿勢から動かなかった。
 人の気配もない森の中、嵐の前の風がさやさやと枝をゆする。マアクスは宿主の子犬の血管に血が脈打つのを感じた。
 長い対峙だったのか、一瞬のことだったのか。
 マアクスは立ち上がった。視界が急に高く、広くなった。マアクスは自分の手を持ち上げた。手袋をはめた手の長い指が自由に動いた。
「この体、少し細いが、戦える。ほお、魔法がつかえるのか」
マアクスは新しい宿主の体を満足げに点検した。ふと見ると、足元に前の宿主だった白い子犬がうずくまっていた。
「よお、サマ。おまえの体はもらったよ。いきなり子犬にされた気分はどうだ?」
子犬の中に魂を閉じ込められたサマは鳴き声も出ないほどおびえきっていた。
「たった今からおまえは犬だ。死ぬまで這いまわれ!」
マアクスはブーツのつま先で思い切り蹴飛ばした。
「キャン!」
白い子犬は悲鳴をあげて転がっていった。
「あはははは!」
マアクスは思い切り笑った。何百年ぶりかの、哄笑だった。

 海と空の境は不穏な暗灰色になって見分けがつかない。黒ずんだ海面には三角の波が白くたっている。
 道は浜を見下ろす高台でつきあたりになっていた。ここに来るまで十人ばかりに聞いて回ったが収穫はない。さすがのロイもくたびれていた。
「水をもらってもいいか?」
ロイが聞くと、民家の中年女が銅のカップにわざわざ汲んでくれた。
「どうぞ、旅の人」
「悪いな」
 そのときだった。何か白っぽいものがこちらへ向かって突っ走ってきた。
「なんだ、なんだ、なんだ」
それは白い毛皮の子犬だった。子どもでも抱えられるくらいの大きさしかない。ひどく興奮していた。
「キャン、キャン」
子犬はさかんにロイの足元で鳴いた。ブーツのはしを噛み必死で注意を引こうとする。
「うわっ、水がこぼれる、よせって」
ロイは慌てて水を飲んでカップを井戸端へ返すと、子犬のわき腹を両手で抱えて目の高さへ捧げた。
「おまえ、よく見りゃ、オスじゃないか。キャンキャン鳴くなよ。ほら、ワンて言ってみろ」
子犬は後ろ足をじたばたさせた。
「このやろ、蹴るか」
ぱっと手を離すと子犬はすてんと地べたへ落ちた。
「キュウウ……ン」
「お、悪い、悪い。だけどおまえ犬にしちゃとろいな」
ロイがかがみこんで起こしてやると、子犬はようやく立ち上がった。うろうろとロイのまわりを歩き回り、うなり、鳴き、ときおり切羽詰ったような目で見上げた。
「困ったな、なんか、ほしいのか?おまえ、もしかして、シロか。じゃ、タシスンさんとこで魚のアラをもらえるらしいぞ」
子犬はぷるぷると首を振った。
「キャン!」
四本の足を突っ張りしっかりとロイを見上げて何か訴えかけるように鳴いた。その目は、珍しいような明るい緑色だった。
「おまえ」
 ロイは手を伸ばして、そっと子犬の頭を撫でた。子犬は湿った鼻面をロイの手のひらへ押し当てた。
 そのとき、ポツリと雨粒が首筋にあたった。
「ふってきやがった!」
ほこりっぽい道は、またたくまに雨の斑点でいっぱいになった。空気の中に、湿気と土の入り混じった匂いが漂う。ロイはあわてて立ち上がった。宿までは走るしかない。
「キャン!」
また子犬が鳴いた。すでに、空をひっくり返したような勢いで雨が降り出していた。
「じゃな、シロ」
走りながら振り向いてそう言うと、子犬は追いかけてきた。
「キャン、キャン」
だが、何に足をとられたのか、子犬はいきなり前へつんのめり、できたての水溜りへ頭からつっこんだ。
「おまえみたいにぶきっちょな犬、めったにいないぞ!」
片手を頭上にかざして走っていくロイが最後に見たのは、頭から泥水をかぶって水溜りの中に這いつくばり雨に打たれるままの子犬の、妙に心に残る表情だった。