ベラヌールの守り 1.急病人

 白く凍てつく闇の底から、邪悪な意志の指先が伸び、思念の世界をまさぐっていた。
 もう幾晩も指は三つの光を追い求めている。それはまだ小さな光に過ぎないが、放置すればしだいに熱く輝かしく育っていくと思われた。
 だが、この冷たい指ならば触れるだけで光は曇る。
 一歩進めば一歩分、百歩歩けば百歩分、光は衰え、やがて気力も尽きて消滅していく。
 ふと指先の動きが止まった。なんと驚くほど近くに、目指す光が無邪気に明るく輝いているではないか。邪悪な意志はほくそえみ、ひともみに押しつぶそうと死の指先を伸ばした。
 とつぜん、光のひとつが激しい光芒を放った。
 熱い!まぶしい!
 ろうそくと思い込んでいたものが、小さな太陽だったとは。
 とっさに指をひっこめた。赫々とした白熱の耀きがようやくうすれたとき、三つの光はどこかへ去ってしまっていた。
 まあ、よい、と邪悪な意志は考えた。三人分の呪いを一身に受けて、三つの光のうちのひとつは確実に消え去るはずであった。

 アモール、コスタール、リムルダールと、世に水の都は少なくないが、ベラヌールこそは最も美しい、とベラヌール市民は信じていた。
 この大陸で最大の湖の中に魔力を含んだ石材を多数沈めて土台とし、その上に築かれた5つの島からベラヌールは成り立っている。
 東の島が、岸に通じる跳ね橋のあるベラヌールの入り口で、にぎやかな商業地区である。北の島は、市庁舎や市の雇っている治安部隊の本部のある行政地区、刑務所もここにある。西の島は園芸技術の粋を集めた水上庭園、中央の島が教会と市の広場、南の島は、東の島から続く目抜き通りに沿って、大きな宿屋が何軒もあるところだった。
 昼も夜も絶えずさらさらと心地よいさざなみの音。
 青空の下に立ち並ぶ石造りの建物の天を指す姿。
「ベラヌールこそ、最も美しい水都にまちがいなし!」
 イルズ老は独り言を言って大きくうなずいた。
 年寄りの例に漏れず朝が早く、イルズは杖をついて散歩に出たところだった。 朝の仕入れに忙しい商人たちが、口々に挨拶をして通っていく。イルズはおうように挨拶を返した。
 イルズはこのベラヌールの南の島で長年道具屋を営んできた。今は息子に家業を継がせて隠居しているが、暇というわけでもなかった。
「イルズのご隠居様」
そう呼びかけられて、イルズは振り向いた。知り合いの宿屋の娘、シンディだった。老舗の宿屋「青海館」の跡取り娘で二十才、女将によく似たしっかりものだった。
「シンディさんかい、おはよう」
シンディは近寄ってくると小声で言った。
「困ったことが起きたんです。朝から申し訳ないんですが、来てもらえますか」
イルズは眉を上げた。
「お店かね?」
イルズは、市の依頼により、宿屋に病人が出たときはあらために行く公認薬師の役を務めていた。
「今朝ご出立のお客様が、具合が悪くなられたようなんです」

 その客は旅の途中の若い剣士、とシンディから聞いていたのだが、ベッドに横たわる姿を見てイルズはちょっと驚いた。
 知らなければ少女と思っただろう。若者は華奢な体格に繊細な容貌で、細い栗色の髪が汗の浮く額に落ちてはりついていた。血の色も失せた唇を食いしばり、ときどき身を貫く痛みに我慢しきれないように首をのけぞらせ、がくりと落ち入る。くりかえし襲う激痛に意地も張りもなくしたのか、彼の唇から泣くような悲鳴がもれた。
 白い服に赤い頭巾の少女が、掛け布を握り締める長い指をそっと撫でた。ベッドの反対側にいた青い服の黒髪の若者が心配そうに見守っていた。二人は病人の連れなのだとシンディが小声で教えてくれた。
「どうでしょうね、イルズさん」
心配そうに女将が聞いた。
「いつからこんなに苦しんでるんですか?」
「夜明け前だ」
黒髪の若者がぼそっと言った。
「いきなり七転八倒っていうのか、そりゃもう」
とすると、病人は今、痛みがおさまったのではなく、暴れる体力さえなくなったということらしい。
「いや、私も長いこといろいろな病人を見てきたが、これはまた」
イルズは言葉を切り、考えながら説明した。
「まず食べ物にあたったのではなさそうだ。それから私の知っているどんな流行病とも違うようだね」
 女将はほっとして胸をなでおろしていた。食あたりや流行病の出た宿屋は店じまいが市の決まりである。
「呪い、ということはあるかしら?」
頭巾の少女が心配そうに聞いた。気品のある美しい娘で、シンディあたりとは次元の違うような華麗な容姿だった。
「何かお心当たりでもおありですか、お嬢さん?」
「夢を見ましたの。恐ろしいものが近寄ってきて、それを彼が、サリューが身を挺して追い払ってくれました」
イルズはうなった。
「む。呪いと考えるのが妥当か、と私も思っておったところですが、しかし私がこれまで見たのはできものをつくるとか、せいぜいおなかの子を流すとかで、これほど強烈な呪いは見たことがありません」
サリューと呼ばれた病人がうっすらと目を開けた。鮮やかなエメラルドの瞳だった。
「もう、いいよ。最後まで一緒に行けるとは思ってなかったんだ。ここが死に場所ならそれでいい」
サリューはせつなげな目を連れの美少女に向けた。
「アム、ロイをたのむね。多分、ぼくはもうだめだ。さあ、行って……」
「バカ言ってるんじゃねぇ!」
黒い髪の若者が、サリューを怒鳴りつけた。
「バカじゃないよ。ロイを守れて満足だよ、ぼく」
ロイと呼ばれた若者はいきなり病人の襟首をつかんでひきあげた。
「ふざけんな!おまえだって俺と同じ血を引いているんだろう!ぬくぬくとした宿屋の寝床を死に場所にしてんじゃねぇぞ!」
サリューは目を見開いた。
「ここじゃ、ないの?今じゃ、ないの?」
「ああ、まだ早すぎだ。待ってろよ、絶対治して戦場へ引きずり出してやるからな」
サリューは痛みにひきつれる顔に、不思議と安心したような微笑を浮かべた。
「ロイ、サリューを寝かせてあげてよ」
 アムが口をはさんだ。おう、とつぶやくと、ロイは照れたように赤くなって驚くほど注意深くていねいにサリューを横たえてやった。
「なあ、先生、なにかいい薬はないのか?」
聞かれたイルズは答えに窮した。
「そうですな。ことが呪いとなると……。ただ、世界樹の葉には死者をよみがえらせる力があると聞いております。それがあれば、あるいは」
「世界樹ですって?」
アムが叫んだ。
「昨日、水上庭園にいた女の方にそのことを聞いたばかりよ」
「そうだ、島だったよな?」
「ええ、東の……。手がかりは少ないけど、探してみましょう」
「そういうわけだ、女将さん、こいつの世話を頼みます。前金を置いていくから」
女将は揉み手をしていた。
「はい、たしかにお連れ様はお預かりいたしますよ。お気をつけて行ってらっしゃいまし」
「サリューもわかったな?すぐ帰るから、いい子にしてろよ?」
こく、とサリューはうなずいた。幼い子どもがけなげに留守番をするようで、見ている者の胸が痛んだ。
 イルズは立ち上がった。
「では痛み止めを煎じてさしあげておきましょう」
「助かりますわ」
アムはそう言って、そっとサリューの前髪を額からはらった。
「私も行くわね?ちゃんと寝ているのよ?」
「アムたちが帰ってくるまで、ぼく、宿から一歩も動かないよ」