ハッピーハミング 第一話

 空と海が真紅に染まり日没が訪れた後、ソルティコの街はゆっくりと目覚める。海に面して斜面となった市街は大量の灯火をまとい、海上から眺めれば町全体が光り輝いて見えた。
 レストランも居酒屋も明るく装い、心をうきうきさせるような音楽を流して客を呼び込んでいる。地元の住民もリゾートを訪れた観光客も楽しそうに通りをそぞろ歩いていた。
 多くの客が引き寄せられるのは海岸通りの店だった。この町の名を冠する大きなカジノである。基本、終夜営業であり、ソルティコで最も有名な店だった。
 カジノ裏側にある通用口に目立たない馬車が停まった。そこは、カジノのショータイムに出演する芸人たちが出入りする楽屋口でもあった。
 その馬車の御者は体格のいい大男だった。襟を大きく折り返して金ボタンを連ねた海軍風の赤い上着を着ていたが顔だけはピンク色のマスクに包んでいた。
「姐さん、着きましたぜ」
馬車の扉が開いた。御者がすかさず差し出した踏み台を、高いヒールが踏んで乗客が降りてきた。
 襟元にファー使いのたっぷりした金茶のコートを着て、粋なトーク帽をかぶったマダムだった。
「おお、ゴ……シルビア様、お美しい」
楽屋口から、眼鏡をかけた初老の男が出てきた。
「セザール」
美女はうれしそうにセザールをハグした。
「パパはもう来てるの?」
「お待ちかねですよ。どうぞこちらへ」
シルビアは微笑んだ。つややかな紅の唇がほころんだ。
「楽屋ならわかるわ。セザール、アリスちゃんをお願いね」
アリスと呼ばれた御者は茶色のフォルダを差し出した。
「バンドに渡す楽譜はこの中です。キーは書いておきやした」
「ありがと。じゃ、あとでね」
フォルダを小脇に抱え、白手袋に包まれた指をあげてシルビアは楽屋へ向かった。

 その日の昼頃のこと。メダル女学園がソルティコに持っている合宿所兼ホテルに、届け物があった。リボンをかけた大き目の紙箱で、どう見ても衣装入れだった。
 メイドがその箱を持っていったのは二階にある客室の一つだった。
「シルビアさまへお届け物です」
 パーティにとって、それは珍しいことだった。ベロニカたちは興味津々で開封を見守った。シルビアの部屋のベッドの上にあふれ出たのは、見事な衣装とアクセサリの数々だった。
「綺麗……」
見るなりセーニャはためいきをついた。ベロニカは丁寧にアイテムを並べた。
「薔薇色のロングドレスに、同じ色のハイヒール。真珠のイヤリングと五連真珠のドッグカラーネックレス。すてきなコーディネートね」
マルティナは一番下にあった衣装を手に持って広げた。
「コートは金茶色、パールホワイトのシルクストールか……あこがれるわね」
 シルビアは黙って考え込んでいた。
「シルビアさん、どうしたの?たぶん、ファンからのプレゼントじゃない?」
シルビアは、紫の薄紙に包まれたドレスを箱から持ち上げた。その下に小さなカードが入っていた。
「『今夜九時。カジノ・ソルティコ』。あらあら……」
 騒ぎを聞いてイレブンたちがのぞきに来た。
「なんだ、これ?」
カミュが言うとシルビアがふりむいた。
「ドレスよ。このコーデ、見覚えがあるのよ」
そう言うとローズピンクのドレスの身頃を両手でつまんで自分の胸にあてた。
「やっぱり。サイズが合うんだわ」
「おっさんにか?!」
シルビアがため息をついた。
「そう。びっくりしちゃうわ。LLなんてもんじゃないわよね。賭けてもいいけど、靴も入るわよ」
「いくらなんでも……女物だろ?」
「そーなのよ。こんなもん用意できるのは世界でただ一人なのよ。しかも、カジノ・ソルティコへ来いって」
シルビアはドレスを放した。巨大な薔薇のようにドレスはベッドにかかった。
「イレブンちゃん、アタシ、今晩お出かけしてきてもいいかしら」
イレブンとカミュは顔を見合わせた。
「ぼくはかまいませんけど」
「あと、グレイグはどこ?」
 グレイグがひょいと廊下から顔をのぞかせた。
「呼んだか?」
「今晩つきあってくれない?」
この二人が剣の修行で同門だったことはパーティの全員が知っている。そしてたいていの場合、グレイグはシルビアの頼みを断らなかった。
「悪いが、出かけるのだ。師匠から今夜カジノへ来いと伝言が来てな」
アーラ、とシルビアがつぶやいた。
「たぶん、同じところへ行くことになるのね。いいわ、エスコートはアリスちゃんに頼むから」
「エスコート?なぜそんなもんが要る?」
シルビアはシルクストールを取り上げてさっと肩に巻き付けた。
「レディのお出かけにエスコートなしって、ありえないでしょ?」
は?とつぶやいてグレイグが目を丸くした。
 にや、とシルビアが笑った。
「ついでに言っとくけど、カジノへ行くなら正装なさいな。デルカダールメイルちゃんを装備しろって言ってるんじゃないわよ?」

 ソルティコ名物のカジノはホテルよりも一ランク上の内装を誇る贅沢な空間だった。広々としたフロアの中央にはポーカーテーブルがあり、まわりにはスロットマシーンが置かれている。入り口の大階段の下にはギャンブルの合間に喉を潤そうという客のためのバーがあった。
 バーの前にテーブルがいくつか置かれ、どれもいっぱいだった。テーブル席の向こうにステージが造られている。
ステージの脇にバンドマンが集った。ピアノ弾きが座りなおし、指揮者が指揮棒で譜面台をたたいて注意を引いた。
 カジノフロアの照明が暗くなり、ステージだけが明るく照らされた。ショータイムだと気づいた客たちがそちらへ注意を向けた。
 光の中からステージへ現れたのは、背の高い美女だった。薔薇色のベアトップのロングドレス、黒髪は前髪をつくらずに後ろへまとめたフレンチツィスト(夜会巻き)、巻き止めには羽飾りのある銀のコーム、耳に大きな真珠のイヤリングをつけ、首に幅広の真珠のチョーカーを巻いていた。むきだしの肩をパールのストールで覆い、先端を背後へ流しているので、動くたびにひらひらとストールが舞った。
 手に持った羽扇をゆっくり回転させ、伏せたまぶたをゆっくり上げる。長いまつ毛にふちどられた印象的な眼と、紅の唇が露わになった。
 湧き上がる歓声と拍手に、肘まであるオペラグローブをはめた手を優雅に広げて歌手はあいさつした。
「こんばんわ、シルビアよ。今夜は昔聞いたお歌が懐かしい気分なの。どうぞお聞きください。『ハッピーハミング』」
ハスキーな声でそうささやいた。
 前奏が始まった。
「♪あなた、おひさしぶり
元気そうじゃないの
ずっとあなたのことばかり、想ってた♪」
 原曲よりキーは低めだが、カジノ付属のビッグバンドは賑やかに盛り上げた。シルビアは長手袋をはめた手で指を鳴らしてリズムを取りながら踊るように歩き、歌いながら愛嬌たっぷりに笑った。
 歌詞はまるで、カジノで働くバニーが客を迎えてリップサービスをしているような内容だったが、シルビアはその、まだ若くて初心なバニーになりきったように扇をうまくつかってはにかむ表情をつけていた。
 ホーンもリズムも、ほとんど歌手に恋をしているように、その足取りを追いかける。
 ギャンブルに血道をあげているような客までが、目の前のスロットやポーカーの札から顔を上げてステージを見ていた。フロア中の人々の注意を一身に集め、シルビアはまさにスーパースターだった。
 ステージを見渡すテーブルに、三人の男が座っていた。
「あれがゴリアテ、いや、シルビア……」
マーシャルスタイルに身を包んだグレイグは、先ほどからぽかんと口を開けて歌うシルビアを見つめていた。
 ステージの上のシルビアが、人さし指を唇に当ててキスを投げた。
「♪ウソじゃないのよ
遠いふしぎな
世界映すアナタの瞳
もいちど見たかった♪」
 くっくっと隣の男が笑った。ソルティコ領主、ジエーゴだった。
「ああ、てぇしたもんだ」
グレイグがその横顔をおそるおそる見た。
「師匠、あの」
ジエーゴは、門下生に稽古をつけるときの軍装ではなく、シンプルなチュニックと上着というくつろいだ姿だった。が、教会にいた老女が“渋い魅力のナイスガイ”と評したように、人生の晩秋を迎えた年齢で今なおジエーゴは男前だった。隣に座っているデルカダールの英雄、グレイグと比べても見劣りしない体格とわずかに霜を置いた黒髪、口ひげ、見事な鷲鼻、そして炯炯とした眼光の持ち主だった。
「シルビア姐さんはいつもお綺麗でさあ」
もう一人の同席者、ピンクのマスクのアリスがつぶやいた。
「あいつが世話になっているそうだな」
とジエーゴが言った。
「お前さん、バンデルフォンの出だと聞いたが、もしや」
「その先はどうか勘弁してくだせえ」
とアリスが遮った。
「今はシルビア号の整備士でやす」
そうか、と言いながらジエーゴは手にしたブランデーグラスから一口酒をすすった。
「アーサー様の御世だったか、俺は若ぇころバンデルフォンに行ってな。劇場で歌っていた美人女優に一目ぼれして、ついに口説き落として駆け落ちしてきた」
「師匠……」
にやりとジエーゴが弟子に笑いかけた。
「それがバンデルフォンの名花と謳われたガーベラだ。ガーベラのデビューは『アルビレオの乙女』っつう、当時大当たりした恋愛劇だった。そのときの芸名が“シルビア”だ」
グレイグがはっとしてジエーゴの横顔を見た。
「では、もしや」
おう、と悪戯っぽくジエーゴは笑った。
「『アルビレオの乙女』のちらしを俺はまだ持っているが、デビュー直後のガーベラはそりゃイイ女だぞ?薔薇色のドレスと真珠で決めてな」
ジエーゴが言ったのと同じ衣装のシルビアが、ステージの中央で大きく両手を広げた。
「♪さあ、今夜だけ綺麗な世界で遊びましょ♪」
金管楽器がすかさず合いの手を入れた。さきほどの初心なバニーは、したかなヴァンプの顔になっていた。
「♪赤いベルベット、金の縁取り
ほんとはあなたはすてきな王子様、じゃ・ない・か・し・ら、ね、え?♪」
スタッカートの間、グレイグたちのいるテーブルに向かってウィンクするほどの余裕だった。
「♪あなた、今夜はどう?
ツキが来ているみたい
きっとあなたがすぐそばに、いるせいね♪」
 少し離れた別のテーブルで、イレブン一行はまじまじと歌うシルビアを見つめていた。
「シルビアさま、きれいです」
「ちょっと信じらんないわよね」
 イレブンは横目で相棒を見た。
「なんで目を指で隠してるの?」
カミュは指と指の間からステージを見ていた。
「混乱してんだよ……絶対アレは、おっさんなんだよ。それなのに目の前にすげぇ美人がいるんだよ……マジか、マジなのか……」
イレブンは苦笑した。
「女の身体を持っていないのに、あの人美人なんだわ」
とマルティナがつぶやいた。
「前に言ってた、“アタシはたぶん、自分の理想の女を自分の身体で描いてるのよ”って。だから生まれつきの女の限界を超えてゴージャスな美女になれるのよ」
「色気とは深いものじゃのう」
悟り切った口調でロウがつぶやいた。
 拍手と歓声の中でステージを終えると、シルビアは客席にキスを投げて退場した。フロアの照明がゆっくり戻っていった。

 カジノのバーの奥から、ローズピンクのドレスのシルビアが出てきた。コームの羽飾りを取り、ストールを肩に巻いた姿でグレイグたちのいるテーブルへやってきた。
「こんばんわ、パパ」
ジエーゴのそばに立つと、こめかみにさっとキスをした。
「お誕生日おめでとう」
ジエーゴはにやっと笑った。
 アリスが立って、シルビアのために椅子を引いた。
「ありがと、アリスちゃん」
ウィンク交じりに礼を言って優雅に腰かけた。薔薇色のドレスがふんわりと広がり、巨大な花びらのようだった。
「師匠、誕生日だったのですか?」
グレイグが聞くと、ジエーゴは咳払いをした。
「まあな。世界中ほっつき歩く倅でも、誕生日ぐらい親父に愛想よくしてもいいだろうと思ったわけだ」
隣の席でシルビアは頬杖をついた。
「だったらそう言えばいいじゃないの。匿名でドレスちゃんを送り付けたりしないで」
「うるせぇ。名前は書き忘れただけだ」
くすくす笑ってシルビアは細いシガーホルダーを人さし指と中指で支え、ステージの後の一服を楽しんだ。
 バーのウェイターが近寄った。
「何かお飲みになりますか?」
シルビアは、ウェイターに笑顔を見せた。
「そうね。“コスモポリタン”を」
綺麗なピンク色のの甘いカクテルが運ばれてきた。シルビアは小指をあげてカクテルグラスのステムをつまんだ。
「俺はこいつをお代わり」
ジエーゴは自分のブランデーグラスを持ちあげた。
「お前ら、どうする?」
 グレイグが答えようとしたとき、照明が遮られて影が落ちた。
「ジエーゴさま、御探ししましたよ」
身なりのいい中年の男と、やや若いがよく似た男だった。父子か、とグレイグは見当をつけた。
「今夜はお忙しいとうかがっていたのですが、よもやこんなところでお目にかかるとは」
最初客の顔を見て憮然となったジエーゴはふん、と鼻を鳴らした。
「ああ、忙しいぜ。古い知り合いとテーブルを囲んで一杯やってるところだ」
「御冗談を。こちらの用件の重大さはわかっていただけるでしょうに」
ジエーゴは指を片方の耳につっこんでくりくりと回した。
「なあ、パストル、俺は一度断ったぞ?覚えているな?」
パストルと呼ばれた男は食い下がった。
「では、対案を出していただけませんか。ソルティコの未来がかかっているのですから」
「明日にしてくれ」
「いえいえ、せっかくお目にかかれたのは幸運の兆しです。ぜひご決断をいただきたく」
 遠慮がちにグレイグは声をかけた。
「師匠、お忙しいなら失礼いたしますが」
ジエーゴは首を振った。
「とんでもねえ。ああ、パストル、紹介が遅れて悪かったな。デルカダールの英雄、グレイグ将軍だ」
 パストルとその息子は驚いたようだった。
「これは、これは。ご高名はかねがね承っております。私はパストル、これは倅のカイル。実は私も、デルカダールのモーゼフ陛下の宮廷に出入りを許されておりまして」
グレイグは軽く驚いた。
「それはお見それした。交友関係が狭いもので、申し訳ない」
衣服と言い、体型といい、どう見てもこの二人は武官ではなかった。
「グレイグ将軍ならばご存知でしょう。ソルティコはもともとデルカダール領であり、ジエーゴ様の御先祖は水門を守るためにこの地においでになったのだと」
「それは、重々」
そう答えると、パストルは畳みかけてきた。
「それならばソルティコが危機的状況にあると言うことはご理解いただけるでしょう!」
「危機?」
「そうです。次代のソルティコ領主がいないのですよ」
 グレイグは思わずジエーゴとシルビアの顔を見比べた。
「我がパストル家は、ジエーゴ様の家系にとって、口幅ったいようですが、本家にあたりますのでね。このような状況を憂えておるわけです」
「本家面はやめてくれんか」
にべもなくジエーゴは言った。
「別れてから百年近く立つというのに。そもそも我が家の本家の直系じゃないだろう、あんたらは」
「しかし!ほかに生存している者はいないのですよ」
パストルはなだめすかす口調になった。
「ジエーゴ様の御子息はだいぶ前に家を出られてしまった。そして御領主は再婚もされていない。養子をお取りください。ソルティコを守るために必要なことです」
「あんたの息子をか?」
パストルは咳払いをした。
「ほかに誰かいますかな?血は水よりも濃いのです」
 ジエーゴの目がシルビアと合い、互いにうなずきあった。
「パストル、カイル、紹介しよう。今夜のカジノのゲストで旅芸人のシルビア」
ハイ、とシルビアは片手をあげ、顔の前で振った。
「こっちはシルビアのスタッフでアリスくんだ」
アリスは、マスクのまま小さくうなずいた。
 十指を組んだ上に顎をのせてシルビアはパストルの顔を覗き込んだ。長い指の先がきれいに反っていた。
「お久しぶりね、パストルおじさま。アタシを覚えてる?」